待っていた女神
アルバがようやく宿近くにたどり着いたのはお昼少し前だった。
ジャンと別れ、ソーセージ屋の店主に宿までの道を丁寧に教えてもらっていたが、どこか足取りは重く、結構な時間がかかってしまった。そしてもうすぐ宿というところでついに足が止まった。理由はもちろんサーシャの事だ。
昨晩の勝手な街散策であれだけ困らせたばかりだというのに、又しても彼女に声もかけずに勝手に宿屋を飛び出してしまったのだ。護衛としても失格だし、何よりあの心優しい女神はさぞや心配しているだろう。
当然アルバにも言い分はあるのだけど、それは口が裂けても言えない。師匠…という寝言を聞いただけで嫉妬して飛び出したなんて…。今思えば、浅はかだった。これでは師匠さんに届けるまでの代役という職務すらできなくなってしまう。
さすがに鷹揚な彼女でも愛想を尽かしているかもしれない…そう思うと彼女に会うのが初めて怖いと感じた。
( 呆れられて、置いてきぼりにされちゃったかも…。 )
そんな不安だって頭をよぎる。確かにこんなすぐに行方不明になる護衛など不要だと言われても仕方がない。
アルバは恐る恐る最後の角を曲がる。…ここを曲がれば、昨晩泊まった宿の正門が見えるはずだ。
ゆっくりと進んだ。一歩一歩…。
日光を遮っている高い塀を抜けると冬の柔らかな光がゆっくりと自分の顔を照らす。それとともに煉瓦で組まれた井戸と大きな宿が目に飛び込んでくる。
と、足が自然と止まった。
小さな広場の向こうに見える美しいレンガと白い柱で組まれた見事な宿屋の門構え。
そしてその上には筆記体の見事な文字で”枝束亭”と書かれた看板が掲げられている。だけど、アルバにはそんな立派な門や看板など目に入らなかった。
ーーー黄金色の髪の美しい女性が先に目に飛び込んで来たからだ。
彼女は大きな黒剣を胸に抱きながら門の前に座り込み、心配そうに…いやむしろ寂しそうに目を細めながら辺りを伺っていた。懸命に首を振って…。彼女は自分をずっと待っていてくれていたようだった。
( サーシャ…。 )
心が自然とその名を呼んだ。そしていつもの疑問が頭をよぎった。
なんでなんだろう…なんでサーシャは、こんなにしてまで自分を待ってくれているのだろう…。
せめて宿の中で待てばいいのに、こんな寒空の朝っぱらから表に出て、ほっぺを桃色に染めてまで…。
ただその答えは今の自分には決して解けない。
それはきっと彼女が師匠さんの事を話してくれない限り、その答えには決してたどり着かないのだ。すごくモヤモヤするけど、今は仕方がない。それを受け入れなくては彼女とここで別れるしかない。でもそれはまっぴらごめんだ。師匠さんが側にいない以上、自分が側にいてあげなければ…という思いはずっと変わらない。例え彼女の心が師匠さんに支配されていようとも。
思わず足が動く。2、3歩進むと、まるで彼女に引き寄せられるように駆け足になった。
タッ、タッ、タッ、と石畳の乾いた音がして、それに気づいた彼女が黄金色の髪をふわっとさせながらこちらを向いた。
彼女の目が激しく瞬く。
咄嗟に立ち上がった彼女は黒剣を抱きかかえながら、アルバの目だけ一点を見つめていた。
2人の視線は空中で絡み合い、お互いの心を探りあっているようにも見えて、時がゆっくりと進む。
「あ、あの…、ただいま。」
彼女の目の前で足を止め、そう言って申し訳なさそうに頭を掻く。すると彼女は唇をキュッと噛んで今にも泣き出しそうな表情を浮かべた。驚いて彼女を見つめ返すと、その小さく見開いたブラウンの瞳は艶やかに輝く涙を湛えながら、必死にそれが零れ落ちるのを耐えているようだった。
「おかえりなさい、騎士様。」
はにかんで首をかしげる彼女は、そう言って静かに微笑んだ。ただ、その声は曇っていて何かを押し殺しているようだった。その彼女の様子がとてもいたたまれなくて、申し訳なくて必死に言い訳した。
「ちょっと街を見ようと表に出たら、迷子になっちゃって…。」
「…そうでしたか。」
「あ、あの…勝手に出かけてしまってごめんなさい。」
素直にそう言って頭を下げた。
彼女は普段から優しく物静かだが、さすがに今日は怒られると思った。なにせ昨日の今日だ。
顔を地面に向けながら、ひっぱたかれるのを覚悟した。
だけど結果的には彼女の鉄拳も雷も自分のところへはやってこなかった。
「…良かった、本当に良かった。」
彼女はそう口にして、やがてその場に泣き崩れてしまったのだ。
怒られる事は覚悟していたけど、まさか泣かれるとは思っていなかったアルバは呆然と立ち尽くすしかなかった、
結局2人は”枝束亭”のロビーにあった大きめのソファに腰を下ろした。
先ほど突然泣き崩れたサーシャは、宿に入ると気持ちが落ち着いたのかその後は泣くこともなく、いつものように背筋をピンと伸ばし自分の横で静かに座っている。
だけど小心者の僕は革張りの硬いソファにもたれながら、彼女の心を探るようにその美しすぎる横顔を見つめた。
清廉で慈愛のこもった変わらぬサーシャの微笑み…一見、それはいつものように普遍的な美しさを醸し出していたが、どこか違和感を感じた。
そこに怒りは見えないけれど、どこか哀しげで不安そうで…でも何故かホッとしているような複雑な表情を浮かべている。彼女の顔はそれこそ女神像のように美しいが、意外にも普段からいくつもの表情を持ち合わせていて喜怒哀楽がはっきりとしている。だからアルバには彼女の心の内がたまにはっきりと見える事があるのだ。
そういう意味でいえば、今の彼女は護衛である自分がようやく帰って来たからホッとしている様だった。ジャンからの話によればこれまでサーシャを守ってきたのは、すげー強い聖騎士のみなさま。いきなり一人にされて心細かったのだろう。
巨大なルン修道院で過ごした数日間や戦争の時、彼女は力強かった。さすがは教団を率いている一族の娘さんだと感心したものだ。だけど僕はそんな凛とした女神のごときサーシャさんより、今の人間っぽい彼女の方が好きだった。だから自分が帰ってきた事で安心している彼女がどうにも可愛かった。
ようやく訪れた彼女と2人だけの時間。
今朝、寝言で師匠の名を口にした彼女は凄く遠い存在に感じたのに、今の彼女との距離は近く感じる。出会ったばかりのワラミ村で一緒に過ごした時間…その幸せな数日が戻って来たみたいだった。
だから僕はようやく心も体も落ち着けたのかもしれない。
しかし…彼女が宿の玄関で崩れ落ちた時は本当に焦った。なにせサーシャは遠くから見ただけでも一目でわかる絶世の美女。そんなお美しい女性が自分の前でおいおいと涙を流し泣き崩れたもんだから、周りにいた街の人々(主に屈強そうなおいちゃんたち)が「姉ちゃん、どうしたんだい?」とアルバを睨みながら声をかけてきた。「な、なんでもないです。すいません。」と彼女の肩を抱きかかえるように起き上がらせたんだけど、「おいおい、にいちゃん。おめぇさんは、この姉ちゃんのなんなんだ?」とか「人さらいじゃねえだろうな?」とか迫ってくるもんだから、ほとほと困り果てた。
「お、俺はこの人の護衛なんですっ!怪しい者じゃありませんっ!」
そう言って必死に誤解を解こうとしたのだけど、すると今度は再びサーシャが泣き崩れてしまった。せっかく彼女を立たせたばかりだというのに、いろんな事がまた最初からやり直しになった。
サーシャはどうしちゃったんだろう?…と呑気に構えたのだけど、やがて「おい、こらっ!姉ちゃんが嫌がってんじゃねえかっ!」「手を離せっ!」とか再びオヤジ達の怒号が飛び交う。まぁこんなお節介野郎のおいちゃんが多いのも大国フィルファの治安の良さの証明みたいなものだけど、濡れ衣を着せられた自分には飛んだ迷惑。
どうしようかと考えた末に、パッと頭に浮かんだ言葉を口にした。
「ごめんなさい。本当は彼女…俺の聖女なんですっ!」
師匠さんが見つかるまでですけどねっ!って心で補足しながらそう叫んだんだけど、面白い事にそう口にした途端にサーシャが泣き止んだ。それこそパタッと。
そして聖女=恋人…みたいに世間の人は思っているから、本当か?とばかりに怪訝そうに彼女を見るオヤジ達…。そりゃそうだ。どこぞのお姫様のような彼女と、貧相で地味な自分とはどう見ても釣り合わない。
だけど、やがてサーシャは座り込んだまま僕に向けて両手を掲げた。まるで「立たせて、立たせて。」とせがむ子供みたいだった。そのらしくない手を恐る恐る掴んで起き上がらせると、彼女はギュって手を恋人つなぎにして、その小さく美しいお顔をアルバの胸にピタッとくっつけて寄り添った。
「なんだよ、痴話喧嘩かよ…。」「そういうのはベッドの中でやれや。」なんてやっかみを吐きながら去って行くオヤジ達。これはチャンスとばかりにアルバは彼女の手を引いて宿の中へ飛び込んだ。
そして宿のロビーに駆け込むと、昨日のディナーを作ってくれた主人の奥さんにお茶を出してもらい、サーシャをソファに座らせ何度も謝った。すると段々と落ち着いた彼女にいつもの笑みが戻り、ようやく全てが丸く収まったと感じたアルバはようやく安堵のため息を漏らしたのだ。
そんな訳で今のサーシャはさっきまでの取り乱した姿が嘘のように優雅にお茶を口にしていて、その姿はまさに教団の女神にふさわしいゆったりとした佇まいだ。この若干二重人格みたいな彼女の症状には当然ちゃんとした理由があるのだけど、アルバがその訳を知るのはもう少し先だ。
まぁ、とりあえずサーシャの機嫌が治ったのは良かった…そう思ってソファに深く腰掛けると、ここでようやくある異変に気付く。う〜ん、なんだろう…何か足りてない?そう思って木で造られた天井を見上げながら思案にくれた時だった。
「あっ、サカテさんは急に用事が出来たとかで2〜3日は戻らないそうです。」
サーシャがその違和感を一発で言い当てた。まるでアルバの心のうちを分かっているように…その事自体は不思議だけど、そう言われれば確かに槍を持ったちっちゃいお姉さんの姿が見えない。
「そうなんですね。というか、彼女はまた単独行動ですか…。」
「ええ。ですから彼女が戻るまで私たちはここで暫くお留守番です。」
「えっと…2人きりですか?」
そう恥ずかしそうに尋ねると、彼女は嬉しそうに小さく微笑む。
嬉しそう…というのはアルバの願望かもしれないが、ただ彼女はいつも通り優しそうな微笑みを自分に向けていてくれた。
「お嫌でしたか?」
「と、とんでもない。」
むしろ大歓迎だ。すると彼女は何かを思い出した様に「ああ。」と漏らすと、手をポンって叩くとアルバに身体を寄せてきた。
「…せっかくですから、この時間を利用してガブリエルさんのお父様がひどい目に合わされたというお砂糖屋さんに行ってみませんか?」
「えっと…ルンのケーキ屋さんに暴力をふるった砂糖問屋の?」
「そうです。」
サーシャが突然に口にしたガブリエルとは、つい先日ルンの街で知り合ったケーキ職人の男だった。
知り合った…と言っても、その実はイチャイチャしていたアルバとサーシャに因縁をつけて来た厄介者。またその喧嘩を売って来た理由が変わっていて、彼らは剣の腕が立つ用心棒みたいなのを探していて、たまたま見事な剣を腰に下げていたアルバを見かけ、よし!あいつの腕を試そう…ってなったというよく分からないもの。普通に誘ってこいよとアルバは憤慨したが、兎にも角にもガブリエルは数人の仲間とともにアルバに問答無用で戦いを挑んで来た。
だけどジル先生との修行を終えて、そのぼんやりとした見た目とは正反対のアルバの速さと剣のキレに全くついていけず勝負は一瞬でついてしまった。
そして、瞬時に降参したガブリエルの話を詳しく聞けば、それは父の敵討ちの為に賛同してくれる強い仲間を探しているって事だった。まぁ、彼の父親は死んでもいないし、今は健康体で元気に働いているんだから、特に敵討ちって言葉が適切かどうかは怪しいけど。
最初にその話を聞いた時にはそんな厄介ごとに巻き込まれたくないなぁ…って僕は消極的だったけど、サーシャが「力を貸しましょう!」って言うから、渋々約束したのだ。
そして更に話を聞いていくと、父親の敵討ちをする理由というのがケーキの材料である砂糖の仕入れについてのトラブルだという。簡単にいうと砂糖の仕入れ値の不一致が原因だった。ひと月ほど前にガブリエルの父親がいつも仕入れているダダの問屋に行くと、例年の10倍近い値段を提示されたもんだから、当然文句を言った。するとだ、店の用心棒みたいな連中に取り囲まれて「テメェ、うちの砂糖は最高級品なんだ!それを高いとはどう言う了見なんだ、コラッ!」と因縁をつけられ、暴力を受けたというものだった。ガブリエル親子が住むルンなら知り合いの官兵に相談すれば責任を問えるが、暴力を受けた場所が大国フィルファの都市ダダ。そう、この街だ。
当然知り合いもいないし、相手はどう見てもカタギじゃないから下手にお上に相談して報復されてはたまらんと、ガブリエルの父親は泣き寝入りしてしまっていたのだ。それが若くイケイケのガブリエルには我慢ができず、なんとかその問屋と用心棒たちに落とし前をつけさせたいっていうのが話の全貌だ。
まぁ、それを人のいいサーシャさんがその仇討ちを「私たちに任せて!」と、サクッと引き受けてしまったというおまけ付きだけど。
そんな訳で今ならダダにいるし、サカテを待つ時間もあるからちょうどいいわっていうのがサーシャの提案なんだけど、アルバはこの時、ふと思ったことを口にした。
「それはいいですけど…よくよく考えればその問屋さんの名前を聞いていませんでした。こんな大都会ですぐに見つかりますかね…。」
うんうん、それは致命傷な聞き忘れ…相変わらず自分のうっかりには呆れる。だけどサーシャはそんなトンマな自分にも優しく微笑んで、すかさずフォローしてくれる。
「確かにダダは大きな街ですが、外国にまで砂糖を輸出できる問屋さんであれば、かなり大きなお店に間違いございません。街を散策しながら探ればすぐに見つかりますよ。」
「ああ…なるほど。」
「それにちょうどお昼ですし、お腹も空きました。ランチのお店を見ながら気楽に探しましょう。」
「う、うん、そだね。」
「では、決まりですね!」
そう言って溢れるような笑顔を向けたサーシャに、アルバは苦笑いを浮かべながら小さく頷いた。この人のポジティブな思考にはいつも元気付けられる。どれだけ失敗してもそこに意味があるように彼女はアルバをまず批判しないし、ミスをしても全力でカバーしてくれる。…本当にいい人だ。
もう彼女に泣かれるのはゴメンだし、いろんな心遣いに感謝して大きくうなずきながらアルバは頭を掻いた。
ダダの街はお昼を過ぎ、優しい冬の陽の光がまっすぐにおりてきて、とても気持ちよかった。
空気は冷たかったが、風はないし石畳の道が朝からの好天で温まっているのかなんだか仄かに気持ちいい。
その心地よい陽だまりの中、ランチのお店探しをしながら2人はいつものように肩を並べて歩く。今日のサーシャは白ローブを隠すようにブルーグレーの落ち着いたコートを羽織っていて、いつものように格好に派手さはないが、艶々した黄金色の髪と端正な顔立ちはどうにも誤魔化しきれず、あいも変わらずこの世のものとは思えない美しさを余す事なく見せつけている。
自分に向けられた周囲の男たちからの突き刺すような視線は相変わらず痛いが、それを無視する度胸は身についた。どうせ自分にはどうしようもないからと腹をくくれたのかもしれない。
「せっかくですから、ダダの名物料理を食しませんか?」
飲食店が立ち並ぶ、いわゆるレストラン通りに差し掛かったとき、ふと彼女がそんな言葉を漏らした。
「いいですけど…ここの名物料理って何ですかね…。」
「宿屋さんのご主人に伺ったら、白ソーセージとサラミが有名みたいですよ。」
「白ソーセージですか…。」
思わず苦笑い。その名物は先ほど腹一杯食べたばかりだ。すると彼女は心配そうにアルバの顔を覗き込んでくる。
「アルバはソーセージは苦手ですか?」
「いえ…好き嫌いはないです。」
「それなら良かったわ。」
サーシャはそう言って微笑むと、お目当の店があるのかスタスタと歩いていく。きっと宿屋の主人にでも教えてもらったのだろう。僕は悩ましすぎる彼女のくびれた腰回りに目をやりながら、照れ臭そうに後を追った。
お昼はとうに過ぎていたが、この街の豊かさを伝える様にレストラン通りはそれなりに賑わっていた。ここで暮らす民に混じって、腰に剣を帯びた兵士や旅人も目に付く。そして彼らは揃いも揃って一様に彼女に目を向ける。
ちょっとだけ緊張した。
殺気はどこからも感じないが、彼らの眼差しには彼女への興味や欲望がかすかに混じっている。そういうのを感じ取れる術は、ジル先生と過ごした1年という時の間に自然と備わった。
アルバは早足で彼女に近づき、再び横並びになると一歩分だけ前に出た。それは実戦を通して身についたものだが、その方が彼女を守りやすい。だけど彼女はそんな僕にすぐに追いつこうとしてすぐに横並びになる。…この人はその見た目と違って、頑固で結構な負けず嫌いなのだ。
そして暫くすると彼女の細く長い指が伸びてきて躊躇なくアルバの手を優しく掴み、やがて一本一本の指を絡ませ、2人の手は貝殻のように一つになった。少しの驚きと照れ臭さを感じながら彼女に目を向けると、サーシャはとても満足そうな笑みを浮かべていた。
「この方が自然ではないですか?」
繋がれた手を掲げて、天使の様な笑みを浮かべたの彼女の表情が本当に可愛いらしかった。
僕はその後、彼女に手を引かれてダダの街を巡った。
まるで美しく壮大な海にプカプカ浮かぶクラゲのように、まばゆくキラキラ光る彼女を目印に何も考えないでついて行った。これまで入った事のない様な立派なレストランで美味しいご飯を食べて、可愛い建物や珍しい橋を見ながら街を散策し、いまどきの洋服屋さんで彼女に手袋とマフラーを買ってもらった。
「とってもお似合いですよ。」
サーシャはそう言って帽子をかぶった僕を見て満足そうに微笑んだ。買ってもらった僕よりはしゃいでいた。
なんだかいつもよりテンションの高い彼女に、ちょっとだけ違和感を感じたけど、楽しいからと特に気に留めず流していた。
…だけど、それにはちゃんとした理由があったようだ。後になって思えば、いくらでもそのヒントはあったのに僕は気がつかなかった。そしてジャンから貰った銀貨の意味も僕は大きく履き違えていた。
ただそんな事を考える暇がないほど時間は信じられないくらい早く進み、大変申し訳ないけれどガブリエルさんが被害にあった問屋探しは明日以降に持ち越しとなった。
なんとなく2人して今日くらいは血なまぐさいことは遠慮したい気分だったのかもしれない。
「ねぇ、アルバ。次は本屋に行きたいのですが…よろしいですか?」
空が橙色から群青色に染まり肌寒くなってきた頃、サーシャはそう言って僕の腕を掴んできた。「う、うん。」と窮屈そうに頷くと、彼女は僕の右腕を引っ張りながらゆっくりと歩き出した。
サーシャのお目当の本屋は中央通りから少し外れた5斜路の交差点の角にあって、三角の形をした独特で格好のいい建造物でだったけど、如何せん狭かった。華奢な2人が横並びで歩けないほどの狭い通路なのに、彼女は珍しく建物の中に入ってもアルバの腕を離さず、楽しそうに3mはあろうかという本棚を物色していた、
「なんの本を探しているんですか?」
本などほとんど読まない僕がそう尋ねるが、彼女は何も答えず注意深くうず高く積まれた本を一冊一冊丁寧にチェックしていく。その真剣な表情に何事だろうと黙って彼女を眺めていたが、やがて「あっ!あったわ。」と宝物を見つけた時の様に満面の笑みを浮かべた。
彼女が懸命に背伸びをして取り出したのは、一冊の藍色の本だった。装丁がとても立派で「Costellazione invernale」という題名までも金色に施されていた。
「星座の本…ですか。」
僕はその題名を口にすると彼女は小さく頷く。
「ええ。実はこれからアルバと星を見に行こうと思って。」
「星を…ですか?」
「はい。この街の南に、とても星が綺麗に見れる丘があるそうなのです。どうせ見にいくのであれば数多ある星座を楽しむのもいいかなと。」
彼女はそう言ってその本を得意げに掲げた。星座は分からないけど、僕は星を見るのは好きだったから「いいですね。」と大きく頷いた。夜空を見上げるのはワラミ村での生活で数少ない楽しみの一つだった。ベッドに横になりながら、一つしかない小さい窓から満天の星空を見上げていた事を思い出す。
そのまま彼女と一緒にレジへ行って店員さんに本を差し出すと、メガネをかけた中年の女性が微笑みながら言葉をかけてきた。
「この本には、星座それぞれの物語が書かれているの。ぜひそちらも読んでみて。」
「まぁ…物語ですか。それは気がつかなかったわ。」
サーシャが目をパチクリさせながらそう答えると、店員さんは値段を告げながら本の乱丁がないかページを一通りめくる。その丁寧な仕事ぶりに感心していると、その店員さんは上目遣いで再び話しかけてきた。
「きっとあなたたちだけの素敵なお話に出会えるわ。」
「ありがとう。とても楽しみになってきました。」
「ふふっ、まぁ…お客さんたちの様な美男美女のカップルさんの方が素敵な物語の上を歩いていそうだけど。」
「あはっ、そう願いたいものです。」
サーシャはお金をレジの上に置きながらそう微笑んだが、僕はどこに美男がいるのかと後ろを振り返りたい気分だった。ましてや物語なんて自分には一切関係ない。それは英雄とか時代時代で多大な功績を残した偉人だけのものだ。そう、目の前にいるサーシャみたいな人とか、師匠さんとか…そういう人種のものである。
「ぜひその本の感想を聞かせてくださいね。」
おしゃべりな店員さんの声を聞きながら若干気落ちした僕は、そそくさとその店を出たのだった。




