ジル先生の衝撃の事実
ーーーどのくらい駆けただろうか。
息が上がり、屋根を飛び移りすぎて少々膝が痛くなった頃、背の高い木々に囲まれた広場の様な場所が目に飛び込んできた。そしてその広場の中央には石を丸く組んだ井戸らしきものもある。朝からどれほど走ったか分からないが、アルバの口の中は干し草を押し込まれた様に乾ききっていて、自然と身体はその井戸めがけて大きくジャンプしていた。
( み、水が飲めるっ! )
水が豊かな村に暮らしていた時は感じなかったそのありがたみが今ならわかる。アルバはようやく水辺を見つけた鳥の様にその井戸の淵に吸い込まれるように舞い降りると、首を入れて底を覗き込んだ。爽やかで澄んだ空気と、水のいい香り。運のいいことにこの井戸は死んでいない様だ。
( やった!! )
アルバは大喜びで顔を井戸から出し、水をすくう桶を探そうと辺りを伺った時だった。
「どうぞぉ〜。」
聞き覚えのある軽い声がした。いやいや聞き覚えのあるなんてもんじゃない、つい先ほどまで戦っていた男の声だ。
恐る恐る声のした方に目を向けると、銀色のコップを掲げたジャンが涼しい顔で自分の真横に立っていた。
心臓が飛び出るとはこの事だ。アルバは「うわぁっ!」と叫び声をあげ、そのまま尻餅をついてしまった。
「あらら〜、アルバくん。大丈夫ですかぁ〜?」
「な、何で!?」
絶対にまいた筈だった。これまでも自分は速さだけは誰にも負けた事がない。だからこの男がここにいる事がどうにも信じられなかった。するとジャンは膝を曲げて目線を揃えると、もう一度水で満たされたコップを差し出した。
「アルバくんが逃げるからでしょう?僕は君ともっと剣を交えて交流を深めたかったのに〜。」
「交流って…。暗殺しに来たかと思いましたけど…。」
「酷いなぁ…。僕は剣士であってアサシンではないですよぉ。だいたい、殺気もなかったでしょ?」
…なるほど、それで先ほど彼の接近に気がつかなかったのかと納得した。だが、そんなことよりももっと気になる最大の疑問がある。
「俺はここまで全力で逃げて来たのに…ジャンさんはどうやって?」
「ハハッ〜、不思議ですかぁ〜?」
その言葉にアルバは遠慮気味に頷いた。なにせ自分はジル先生から音よりも早く動ける神速を授かっているのだ。誰も追いつけるはずなどないのに、この男は追いついた…いや、むしろ先回りされていたというのが正解だ。
すると得意げに笑ったジャンは、持っていたコップをアルバの手の中に押し込んで話を続けた。
「まぁ、簡単に言えば僕も”かけっこ”は得意って事です。…君と同じくね。」
彼はそう言うとゆっくりと腰を下ろし、地べたに胡座をかいた。
はっきりと口にしないところが大人っぽくて憎たらしいが、ありていに言えばこの男も神速を宿しているって事だろう。
相変わらずふてぶてしい態度だけど、さっきとは違い恐怖は感じない。その事に妙に安心した自分は、大きな安堵のため息をついてその男の顔に目を向けた。
独特の雰囲気があるいい男だ。歳は自分よりもおそらく10は上だろう。言葉は軽く聞こえ、意外と人懐っこい笑みを見えるが、どこか堂々としていて自信がみなぎっているなぁと思ったものだ。
…一瞬、嫌な考えが浮かんだ。
神速を宿しているってことは、この男もジル先生に指南を受けた剣士…もしかしたらこの目の前の男こそ、サーシャが愛する師匠さんじゃないかって。
思わず二度見して、伺うように顔を覗き込む。予想より体は大きくないけど、年齢的には自分が予想した人物に近い。
怖かったが…冷や汗を垂らしながら恐る恐る遠回しに尋ねてみた。
「え、えっと…ジャンさんはジル先生に会ったことがあるんですか?」
なにせ師匠さんもジル先生から剣を学んでいる。ジャンが師匠さんなら絶対に面識があるはずだ。すると彼は怪訝そうな顔つきで自分に目を向けた。
「はい?ジル先生って…剣聖ジルのことですかぁ?」
「け、けんせい?…けんせいってなんですか?」
「剣聖というのはその名の通り、剣における聖人。剣の奥義を極めた者にしか与えられない剣士としての頂きの総称です。剣士である貴方がそのジルという名前に先生とつけて呼ぶんですから、そうなのかと思って。違うのですかぁ?」
「い、いえ、そうかも…。」
巨大な湖をぶった斬る御仁だ。剣聖なんてご立派な肩書きがよく似合うなって思ったから適当に答えた。
すると彼は腕を組んで怪訝そうな表情で僕の顔を覗き込んでくる。
「そりゃ会えるもんなら会ってみたいですけどねぇ〜。彼は世界の歴史の中で唯一剣聖という称号を得た男ですからね。」
その言い方…幸か不幸かこの男はジル先生を知らないようだ。…つまり彼は師匠ではない。
緊張がとけてようやく体の力も抜けた。喉もカラカラなのを思い出し、手渡されたコップの水を一気に飲み干す。冷たい井戸の水は本当にうまかった。たった一杯の水に、大満足の笑みを浮かべるとジャンがすぐにからかってくる。
「いい飲みっぷりですねぇ〜。アルバくんはぁ〜」
「…どうも。」
適当に返事を返した。今はそんな事より、ジルのことを詳しく聞きたかった。
「…あのジャンさん。その…”けんせい”のジルさんはそんな凄い人なんですね。」
「おや?君は剣士のくせに彼を知らないんだ。というか、知らないのにどうしてその名を口にしたのですか?」
まさか魔法の湖みたいな場所で出会って、一緒に過ごしただなんて口が裂けても言えない…。
「えっと…人から聞いて…。」
「ふうん、人からねぇ。」
「さっきも話しましたが、俺はただの物売りなんです。」
アルバがそう口を尖らせると、ジャンは力なく笑った。思いっきり乾いた笑い…。どうやらこの男は自分の話をまるで信じていないようだ。本当の事なのにな…と若干不満な表情を浮かべると、ジャンはこの公園をぐるりと囲んだ木々を見上げ、とんでもない事を口にした。
「剣聖ジルは500年前に亡くなっています。ですから…彼と会う事なんて誰もできないんですよぉ。…例え神様でもねぇ。」
思わず変な声をあげそうになった。いやいや開いた口が塞がらないとはこのことだ。
500年前に死んでる?…耳を疑った。
じゃ、あの自分が体験した摩訶不思議な出来事は何だったんだろうか。
いや…自分は確かにジル先生に会った。いや、会っただけでなく言葉を交し、飯を食い、酒も飲み、1年も同じ家で暮らして剣の基礎を学んだのだ。だからこそ100%庶民なアルバが、喧嘩上等の無法者や英雄として名を馳せている将軍様にも勝てたのだ。
もしジャンの言うことが本当なら、自分は幽霊にでもあったのだろうか…。まぁ彼の場合は幽霊というよりは化け物っていう表現の方があっているが…。
( どういう事なんだろう…。 )
困惑という表現が正しいかどうかはわからないけど、とりえずまたしてもジル先生の謎が深まった。




