ザグレア平原を逃げ惑う母娘
その母娘は、懸命に暗がりの草原を走っていた。
2人とも地味な薄茶色のマントを羽織っていて、母親と思われる女は胸を手で押さえながらもう一方の手で5、6歳の娘の手を必死に引いていた。
しきりに後ろを振り返りながら走るその様子は、追っ手がかかっている事を示していた。
「ママ…もう走れない…。」
「サシャ!もう少しだけ頑張りなさい!」
漆黒の大地に2人の白く吐く息だけがうっすらと浮かんでは消える。
サシャと呼ばれた女の子は息が絶え絶えになりながらも、母親について行こうと懸命に足を動かしていた。
その子は、赤毛の長い髪が特長的で目がくりくり。肌も白く、いいとこの娘さんであることは一目瞭然。そしてその子の手を引く母親もどこか上品でほっそりとした30代ほどの女性だった。
だが今、その母娘は懸命に何かから逃げていた。
それは誰が見ても厄介ごとに巻き込まれた母娘の姿だ。
「いたぞ!!あそこだ!!」
やがて、月明かりに照らされた夜の草原に男の大きな声が響く。
だが母の腕に引かれた少女は、呑気な声をあげた。
「ママ、見つかっちゃったね。」
「私の背中に乗りなさい!」
母親はそう声をあげると、懸命に走りながら娘の小さな体を素早く抱き上げ背中に回した。
( ダダまでは、もうすぐだというのに…。 )彼女は、自分の肩に腕を回した娘を見てそう思いながら唇を噛んだ。
冬の草の背は低い。
いくら夜とはいえ、月が出ているこんな晩では2人の姿は遠くからでもよく見えた。
「回り込め!」
再び賊の声が響く。その母親が慌てて後ろを振り返ると、自分たちを追ってくる男たちの影が迫ってくる様子が伺えた。
( なんで…。 ) 驚愕しながらも、彼女は前傾姿勢になり懸命に走る。
とにかく逃げ押せないと、自分たちは元よりの夫に迷惑がかかるのだ。
だが、敵は屈強な男たちで連携も見事。5つになる娘を抱いた母親が逃げ切れるわけもない。
何しろ敵は、自分たちの護衛だった3人の腕利きの兵士を造作もなく打ち倒している。
( とにかく身を隠せる場所を…。 ) 母親は、はやる気持ちを抑え懸命に首を振ってあたりを伺った。
と…見事な枝ぶりを見せる大きなブナの木が目についた。
敵に見つかっているとはいえ、まだ距離はある…そう思った彼女は、残りの力を全て使ってその大きな木に懸命に走った。月明かりがあるとはいえ、木の下へ逃げ込めば一時的に姿を消せるし、上手くいけば根の部分に隠れられ、敵をやり過ごせるかもしれないからだ。
「ママ!あそこに木がある!隠れようー!」
そして背中から聞こえる呑気な娘の声。
彼女のせめてもの救いは、娘のサシャが5歳とは思えないほどしっかり者で、頭がいい事だ。
こんな緊急事態にも動じないし、むしろ自分なんかよりよほど落ち着いている。
「サシャ!ちゃんと掴まっているのよ!」
「うん!」
娘の元気な返事を聞いて、彼女にも自然と笑みが浮かぶ。
やがて2人は導かれるようにその大樹の元へと駆け込んだのだった。
その母娘には少しだけ運が残っていた。
逃げ込んだその大樹の元は、何本もの太く大きな根が大地から這い出していて、地面も凹んでいた。この洞穴のような場所に潜り込んで息を潜めれば、敵をやり過ごせるかもしれない…母親はそう思って娘の手を引いてそのままその根元に滑り込んだ。
「ママ、ここで大丈夫かなぁ?」
「そうね。このブナの木が私たちを守ってくれるわ。」
母親はそう言って、気丈な娘の頭を撫でながら微笑んだ。
…それしか選択肢がなかったというのが本音だったかもしれない。
彼女の名は、サラといった。ロハンという砂漠の街で領主側に仕える文官の奥方で歳は35になる。
彼女は大きく息を吐くと、守るように娘のサシャの肩を抱いた。
サシャも母親の肩に顔をもたれかける。そして小さな声で母に尋ねた。
「フリオおじさんたち、早く来て欲しいね…。」
「………。」
「おうちに帰ったらみんなで”双六”をするの。約束したのよ。」
「………。」
サラは言葉が出なかった。
娘が口にしたフリオ、そして彼の相棒であるフリッド、マノロ…。
そのサシャの新しいお友達で護衛の3人は、ここにはいない。
…彼らは自分たちを守るために盾となり、行方知れずだった。
( あなた…。 )
ブナの根元に潜り、ようやく体を落ち着かせる事が出来たサラは、旦那の顔を思い起こしながら今日起きた出来事を頭の中でまとめ出した。
”すぐにそこから逃げるのです。”
旦那の字でそう書かれた手紙を受け取ったのは夕刻だった。
サラの旦那はロイスといった。ロハン城でも天才と噂される文官で、政治・経済・外交に秀でた逸材だ。非常に頭の回転が早く、いつも先を見据えた行動をとる。
彼女はその手紙の2枚目に書かれていた持っていくべき荷物と少しの金を持ち、5歳になる娘のサシャに地味な旅のマントを羽織らせると、そのまま家を飛び出した。その手紙には、”フィルファのダダという街に、ジャンという男がいる。彼を頼れ”とも書かれていた。ちなみにはフィルファとはお隣にある国で、経済・治安・軍事力が地上随一と言われる超大国だ。ただ地上随一と言われるのには理由があり、この世界には唯一地上にない国があるからだが。それはさておきだ。
「旦那様から事情を聞きました。お供いたします。」
家を飛び出すと、いつも旦那の護衛をしている3人の兵士が走り寄って来た。
フリオ、フリッド、マノロ。皆が30代前半の屈強な兵士だ。ここロハンの兵士は勇猛果敢で有名だが、この3人もその名に恥じることのない剛の者だった。だが鎧を着込み剣と槍をそれぞれ一本づつ持った彼らは、まるで戦争にでも行くような完全フル装備。サラが事の重大さを認識するには十分だった。
本当なら馬で逃げたいところだが、急だった事と自分たちの命を狙っているのがどうやら城の中枢にいる人物らしく、逃亡した事を秘密裏にするため軍から馬を借りる事を諦めた。
そのまま、皆で走り出した。
聞き分けのいい娘と、旦那の友人らでもある兵士たちとの逃亡劇は、最初は順調だった。
砂漠から密かに森へと繋がる裏街道を経て、草原にたどり着くまでは…。
だが完全に陽が沈み、5人が小さな林に差し掛かった時、突如10人ほどの賊に襲われた。
敵は濃いグレーの頭巾を被り、軽装ながら薄手の鎧と鎌と鉄球を鎖で繋げた見慣れぬ武器を持っていた。
3人の護衛はサラとサシャを背にして敵と対峙したが、敵の動きは素早く、更に異国の武器は間合いが取りにくい。すぐに押され始め、徐々に5人は下がって行く…。
サラは娘のサシャの顔を胸に抑え、決してその戦いを見せぬよう必死だった。
「フリオ!奥様とお嬢様を頼んだぞ!」
やがて劣勢を悟った大柄のフリッドが叫んだ。
いくら勇猛果敢なロハン兵とはいえ、人数の多い強敵を相手に、女子供を護衛しながら戦うのはなんとも窮屈で分が悪い…そう判断したフリットとマノロは、一番腕がたつガッチリ体型のフリオに2人を託し、この場で戦う選択をしたのだ。要は自分たちを囮にしたのだ。
「ダダで落ち合おう!」
すぐに状況を判断したフリオはそう言い放つとサラとサシャを連れて闇に紛れて逃げた。
いくら多勢に無勢とはいえ、フリットとマノロの剣の腕は中々のもの。彼らなら敵を上手くいなして、時間を稼いでくれるだろう…そう思っていた。
だが、予想外のことが起きた。逃げ出してから、まだそんなに時間が経っていないというのに、なんとその2人の苦しそうな叫び声が響いたのだ。
「奥様。私がここで時間を稼ぎます。…ダダまでお急ぎください。」
仲間の声を聞いて足を止めたフリオは、槍を構えるとサラにそう伝えた。
「だ、駄目です。それでは、貴方まで…。」
「…偉大なロイス様の母娘に神のご加護があらん事を。」
フリオは必死に止めるサラにそう言い残すと、仲間が断末魔をあげた場所へと走り去っていった。
彼らは来月から、ロハン最強部隊”苛烈の炎”に推挙されることが決まっていた精鋭中の精鋭。いくら多勢に無勢とはいえ、わずか10名ほどの敵に彼らが遅れをとることなどないはずだった。
だが、その勇敢な3人の兵士たちが戻ることはなかった。
敵が普通じゃない事の何よりの証だった。
こうなっては、サラに出来る事といえば一縷の望みを持ち、彼らの命の燈が消えていない事を祈り、逃げ切ること…残念だが彼女にはそれしか出来なかったのだ。




