修道院での幸せな時間
真っ暗闇だった。
音も、匂いも、感触も、自分の存在自体すらあやふやで…むしろそこに自分がいる事さえ、自分でも分からず、誰も自分の存在を証明してくれるでもなく、ただただ漆黒の空間を漂う色も実もないふわふわとした何かで、時は刻まず進みもせず止まりもせずひたすらにぼんやりと漂っていた。
無…だった。始まりも終わりもない、無限に続く無の世界。
何もなかったから何もないでいられたのに、突然ね、漆黒のてっぺんから白くて美しくて優しい手がそっと伸びてきて、それを見た自分は何だろう…って、それを目で追うと視覚が宿り、風に乗った優しい花の香りが匂いを感じさせてくれて、その手をどうしても掴みたいってずっとずっと思い続けていたら…突然、暗がりの底から引き上げられて、やがて、彼の手はいつの間にか美しい女神の手に包まれていることを知って…
ハッと目が覚めた。
ぼんやりと瞼の上を白いステンドグラスのような格子が弾けて、白い光を感じた。
朝日かな…
アルバはその光を毎朝繰り返される日常のそれかと思ったのだけど、それは窓から差し込む陽の光に照らされた女の透き通るような柔肌だった。女だと分かったのは、いい匂いがして柔らかくて、微かに乳房のふくらみが見えたからだ。
( なんだっけ?つうか、ここはどこだっけ? )
呑気な男のぼんやり寝起きの頭の回転は、いつになく遅い。だけど次の瞬間に記憶は繋がり、昨晩の事を思い出し、「げっ!!」って、心と体が同時に悲鳴をあげて体を反射的に離した。
ただいまのところ、自分の側にいてくれる女性なんて一人しかいない。
理由はイマイチよく分からないんだけどね…何故か絶世の美女のサーシャさんだけが自分の近くにいる。
だけど、そうすると…この胸元はその彼女ってことになる。
するとだ。
…アルバは想いを巡らせ、やがて昨晩、彼女が窓からこの部屋へやってきたことを思い出し慌てふためいた。
まさか、まさか…自分は教団の最高位司祭で、すうききょうとやらで、世界中の信者が女神と仰ぐ、師匠さんの聖女であるサーシャさんに”おいた”をしてしまったのではないか…と。
恐る恐る視線を下げる。
だけど…目の前の彼女はノースリーブの純白のワンピの寝間着を着たままだった。
そしてアルバの方へ向けたお美しい寝顔は穏やかで幸せそう…。
当たり前だが、その様子を見るにつけ自分は彼女に乱暴狼藉は働いていないようだ。
( ふぅ…。 )
って、安堵のため息が自然と洩れた。
どうやらアルバは彼女と手を繋いだまま、いつの間にかサーシャの二の腕に顔を埋めて寝てしまったようだった。
だから、サーシャの胸が目の前にあったのか!っと納得。
ただ2人の寝相は結構なものだったようでシーツはすっかり捲れあがっていて、寝間着を着ていても悩ましいサーシャの上半身があらわになっていた。
本当にね、思春期の自分には目の毒だ。
アルバは自分の胸に手を当てざわざわする気持ちを必死に抑えるも、視線がどうにも外せない。彼女はとっても華奢なんだけど、胸だけは豊かで谷間がくっきり。そんなとこも教会にある女神像にそっくりだ。顔を真っ赤にしながら、恐る恐る彼女の肩にシーツを掛け、ゆっくりと彼女から体を遠ざけることで精一杯だった。
が、よくもまぁ、こんな場所で安らかに寝れたものだと自分自身でも感心する。4つ年上の美しすぎるお姉さんの胸元なんて16歳の彼に言わせれば凶器だ。
「ふふっ…騎士さま、おはようございます。」
すると、いつから目を覚ましていたのか…笑いの混じったサーシャの声がした。とっさに彼女の胸元から顔に目を向けると、寝起きのはずなのに透き通るほどの白肌にぱっちりお目目のお美しい女神さまが、いつもの優しい笑みを湛えている。
「お、おはようございます。」口ごもりながら挨拶を返すと、彼女は体を離してしまったアルバを引き戻すように手を引っ張ってきた。勿論優しい緩い力なんだけど、抵抗なんてできない。アルバは再びベッドに寝かされてしまい、間近で向かい合ってしまった。
「あはっ。騎士様、寝癖が付いておりますよ?」
そして彼女はそう言いながら、アルバの髪に手を伸ばしてくる。
「そ、そんなのいつもの事で…。」
「ふふっ、これからは毎朝、私が御髪をお直ししますね。」
「あっ…えっと…。ありがとうございます。」
あたふたして、しどろもどろになりながら言葉を返す。
彼女からの言葉は、いつも優しくて温かい。そんなちょっとした事でさえ、この呑気な自分の心を激しく揺らしてくる。
しかもね、寝起きだからってこともあるけど、今の彼女は美しい黄金色の髪が少しだけ乱れていて、やや艶やかで色っぽい…。
抱きしめたら…やっぱ怒られるのかな。
そんな邪な考えがふと頭をよぎる。
そもそもサーシャはありえないほど美しくって、信じられないくら可愛い外見をしてらっしゃって、もはやそれだけでとんでもない破壊兵器なんだけど、それに負けるとも劣らない”愛嬌”を持っている。普通ね、こんな知り合ったばかりの田舎の小僧に、いくら護衛をしてくれるといっても、ご飯を作ってくれたり、洋服を編んでくれたり、挙句意味のない嫉妬をして拗ねてしまったアルバを慰めるために、一晩中話をして手を握ってくれる御仁などそうはいない。
しかもいつも自分に優しい女神の如き微笑みを届けてくれるのだ。…こんな魅力的な人にここまでされたらって想いはあるのだけど…。
しかしだ。
それが彼女自身が心優しい修道士ゆえだということを忘れてはならない。
絶対にこれを愛情と勘違いしてはいけないのだ。いや…イケイケの男ならとうの昔にダイブしているのかも知れないが、そこだけは自分は冷静。
サカテもエマも、もっと自信を持てとか、サーシャが自分を好きなんじゃないかって言ってくれたりしたけど、”それはない”って思う。そっちの自信ならある。
ーーなぜなら彼女には、師匠さんっていう愛する人がいるからだ。
しかもその愛はかなり深いと推測される。何せ彼女はついこの間まで、こんな治安の乱れた世界をたった一人で彷徨い、その師匠さんを探し求めて旅をしていたんだもの。
例え離れ離れになってもそんな風に相手を想い続け、一途でいれるっていいなぁ…って思った。自分は恋を実らせた事がないから、余計にそんなことが格好いいって憧れてしまう。
まぁ、だから自分は耐えていられるのかもしれない。
例え彼女が体を寄せて来ても、手を繋がれても、一緒にベッドに入っても…。
彼女の側にいれるのは、彼女が師匠と再会するまでと分かっているから。
ある意味ね、一人疑似恋愛を楽しんでいるようなものだ。
昨日はイケメン兵士に嫉妬してしまって、ついでに師匠にも返したくなくなってしまったけれど、あれは完全な気の迷いで自惚れだ。
本当に恋というのは厄介だ…アルバはそう思った。こんな呑気な自分が焦って、嫉妬して、落ち込んだりするんだもの。完全にご乱心してる。
ただね。彼女と自分の明るい未来はさっぱり見えてこない。
”女王様の如き女性”と”田舎の物売り小僧”っていう身分違いは置いておいても、師匠を想っているサーシャが自分を好きになることは決してないって確信があった。
昨日、エマという修道士から少しだけサーシャと師匠のことを聞いたからだ。
話を聞くにつけあの2人はやっぱり愛し合っていて、師匠さんは思った通り格好良くて気持ちのいい男だったようだ。
いつもサーシャの側にいて、彼女を助け、そして想像通りとてもお強い…。なのに彼女に膝枕をせがむ可愛い一面も持っていたらしい。そしてそれを喜んで迎え入れていたサーシャとの関係性は火を見るよりも明らかだ。
だから、今、自分がサーシャに抱きついたら、「ちょっと!調子に乗らないでください!」って、言われてしまうだろうだろうし、そもそも恋人でも愛し合ってもいない異性に抱きついたら犯罪だし、変態だ。
もしかしたら彼女は優しいから、護衛をしてるアルバのお役目に免じて我慢してくれるかもしれないけど、それはいやいやしているのと一緒だ。そう、一昨日の戦いの時、どさくさに紛れ一回だけ勢いでしたあの時のように…。彼女はあの時も変わらず優しく自分を迎え入れてくれたけど、本当は必死に笑みを浮かべ、耐えていたのかもしれない。如何にも優しい彼女らしい…。そして本当に申し訳ない。
師匠さんって、いいなぁ…。
目の前で微笑むサーシャを見てそう思った。
今考えれば…最初はただ綺麗なお姉さんだなぁって憧れてただけのような気もする。その時点で自分は浅はかで、愚かだった。今なら朧げだが分かる…この人の本当の魅力は外見じゃない。
こんな女性に愛されるのって、どんな気分なんだろうって思った。自分みたいに側にいるだけじゃなくて、ちゃんと好きでいてもらえるのって…いいなぁって。
「どうしたのですか?」
やがて考え込んでしまった自分に、彼女は怪訝そうにそう問いかけてきた。
「あ、いえ…。なんでもありません」
「アルバはよく寝ていらっしゃいましたね。お疲れは取れましたか?」
「…ええ。もうすっかり。」
「それはようございました。」
サーシャは嬉しそうにそう洩らすと、繋いでいた手をギュって強く包む。
「起きますか?それとも、もう少しおやすみになりますか?」
「今は何時なんですか?」
「清祀の日の入りでございますから、朝の6時は過ぎていると思いますよ。」
彼女の答えに、アルバは飛び跳ねるが如く驚いた。
思わず首を捻ってあたりを伺う。…確かに部屋はほんのり明るい。
…寝過ごした!って、血の気が引いた。
何せここは自分の部屋ではない。神聖なルン修道院の一室だ。こんな時間になってしまったら恐らく誰かが自分を起こしに来るだろう。
そっと目を向ければ、服を着ているとはいえ清廉な女神様は悩ましいほど、あられもないお姿。
そんなサーシャが寝間着姿でアルバのベッドに横たわっていたら…自分は間違いなく血祭りにあげられる…。何せサーシャは教団最高位司祭、全世界の修道士や信者が心を共にする女神様だ。
「お、起きます!」
アルバは慌ててそう声をあげると、彼女から手を離し起き上がろうと体を捻った。
「あん…。」 って、あまり聞いたことのないサーシャの声が洩れる…と、その時だった。
トントン…。
…突然、扉を叩く音がした…。
咄嗟に2人して部屋のドアに目をやる。
アルバは顔面蒼白、全身に嫌な汗が滴るのを感じる…。
「アルバ君!大変!起きてる?!入るわよ!」
そんな声がして、無情にもサクッとドアが開けられた。
ここは神につかし者が従事する名高いルン修道院なのだから、入ってきたのは当然修道士さんだ。
「サーシャが、行方不明なん…。」
予想通りなんだけど、そう叫んで飛び込んできた彼女は、その2人の姿を見て、言葉も足もも止まった。丸顔で栗色のセミショートの可愛らしいその修道士さんは、あんぐり開いた大きな口に手を当てて、目を見開き、大きな丸メガネはずり落ちる。
アルバとサーシャにとって、ちょっと幸運だったのは入ってきたのがサーシャの親友エマだったことだ。
やがて何度か瞬きをしたエマは、静かに部屋に入るとそぉーっとドアを閉めた。
「エマ、おはよう。」
ベッドの上で体を起こしたサーシャが、そう言ってニッコリと微笑む。
だけどエマは無表情。いや、むしろ顔が引きつっていてワナワナしているようにお見受けした。
「えっと…。言いたいことは山ほどあるんだけど…。サーシャ、まずはこの事態をお話しいただけるかしら?」
若干話し方に棘があるエマの顔は和やかなんだけど、やっぱり目は笑っていない。アルバは、交互に2人の顔を見ながら背中に冷たいものを感じたものだ。
「昨晩ね、騎士様とどうしてもお話ししたかったの。それだけよ。」
サーシャが顔を傾けながらそう答えると、エマは腕を組んで仁王立ちの構えをとった。
「なるほど…それで?」
「話していたら楽しくてワクワクしちゃって…で、部屋に戻りたくなくなって…。そしたらいつの間にか2人して寝てしまったの。」
「ほぉ…。それでは仕方がないですね…って、私が言うとでも?」
エマはそう言って、ゆっくりと2人に近づいた。
心なしか彼女の丸メガネのレンズは輝き、目が見えないとこが怖い…。アルバとサーシャは自然と後ろに仰け反ると、エマは無表情に言葉を続けた。
「さてサーシャさん、クイズです。今、このルン修道院では何が起きているでしょうか?」
「さ、さぁ…。」
アルバとサーシャがシンクロするように、同時に頭を捻る。
「修道院にいるすべての修道士たちが、顔を真っ青にして血眼で誰かさんを探してるんですけど…。」
「へっ?」
「もうね、なんて例えればいいかな…まぁ、今現在のルン修道院は、さしずめ女王蜂がいなくなった蜂の巣のようとでも言えばいいかしら…。」
「はっ!?」
もう一度ね、アルバとサーシャがシンクロするように声をあげた。
だけどそれは本当のことだった。朝、サーシャのお部屋まで迎えに訪れた修道士さんは、もぬけの殻のベッドを見て思わず倒れ込んで叫んでしまったという。
「サ、サーシャ様がお部屋におりません!!」その声は、人から人へとあっという間にルン修道院中に広まり、攫われただの、神隠しにあっただの、尾ひれはひれがついて大騒ぎになってしまっていた。世界中の修道士や信者が女神と仰ぐサーシャの姿が突如消えるなんて事はあってはならないし、もし拐かされたなんて事になればここルン修道院の恥。それこそ修道士たちは、泣き叫びながら右往左往しているという。
「その行方知れずになった誰かさんが、実は男の部屋に夜這いに行ったなんてことを知ったら…どう思うかしら?」
エマが丸メガネの縁をクイってあげながら、そう尋ねた。
「ちょっと!エマったら…夜這いなんて人聞きが悪いわ。私は、アルバとお話がしたかっただけです。」
「はぁ?この状況で、そんな言い訳が通じると思う?」
そう言ってみるみる顔を赤くしたエマ。
確かにね、アルバの寝相が悪かったのかシーツと毛布はくしゃくしゃだし、サーシャの純白の寝間着の肩紐はずり落ちてるし、髪も少々乱れてる。
2人は朝まで深く愛し合った…って言っても誰も疑うものなどいないだろう。
「さて、お二人さん。覚悟はいいかしら?」
そしてね、やがてね、エマは2人に対して女神顔負けの雷を落としたものだ。
その時、アルバは頬を赤くしながら、まるで何かの発表会の様に体が固まってしまっていた。
まるで歌姫が奏でるように美しいハナ歌、柔らかで優しい指使い、心地良さすら感じるハサミが髪を切る音、そして時折自分の顔を覗き込んで来る溢れんばかりの女神の笑顔…。
彼がいるのはルン修道院の西の旧宿舎の1階にあるスパの一角。
四方が白と藍色の正方形のタイルで敷き詰められた清潔感あふれるこの空間は、一番奥の窓際に小さいなバスタブがあって、次に体を清める洗い場があり、更に一段高いところに着替える場所があるのだけど、彼は今、そのお着替えスペースに置かれた椅子に座って、赤子の前掛けのような白いポンチョを被りながら自分の姿を鏡の前で見ていた。そして自分の横には、銀のハサミを持ったサーシャがいて、上機嫌で歌を口ずさみながらチョキチョキ髪を切ってくれている。
そう、アルバは今、教団最高位司祭で世界中の修道士や信者から女神と崇められるサーシャを独り占めして髪を切って貰っているのだ。
しかもね、その大きな鏡を通して見るサーシャは、やはりそれはそれは美しくて、アルバは彼女が鏡に映っている事をいいことに、まじまじと見惚れてしまっていた。
今の彼女は作業をしやすい様になのか、黄金色の輝く髪を後ろで纏めポニーテールにしていて、黒のブラウスに白いエプロンなんていう見慣れない格好なんだけど、またこれが御多分に洩れず、可愛くて格好いい。
彼女のこの目も外せないほどの魅力的な美しさというのは何処から来るのだろう…アルバはふとそんな事を思って鏡の向こうのサーシャをまじまじと凝視する。
その時の彼女は、アルバの座る椅子の横で前屈みになりながら、恐らくもみあげの長さを調整してくれている様だった。
その姿は見るからに清楚で、まるで穢れを知らない妖精のような横顔を見せてくれているんだけど、稀に彼女は匂い立つような色気を溢れ出している時がある。普段が清廉だからこそ寧ろその時の彼女は余計に艶かしいのかもしれないが、ほっそりとしているのに少し豊かな乳房が何ともアンバランスで、くびれた腰つきも相まって、そんなところに清楚で神々しい彼女の”隙”を男性は見つけて魅了されてしまうのかもしれない…なんてアルバは生意気にも思ったものだ。
何しろいつもならそんな彼女の”隙”を見つけても、恥ずかしくて、彼女に見つかるのが怖くてすぐに視線を外してしまうのだけど、今日見ているのは鏡。初めて間近でゆっくりと彼女の姿を見ることができたのだから、そんな事を思いついてしまったのかもしれない。
ーー何か悪い事をしてるんじゃないかっていう申し訳ない思いは心の何処かにはあったりしたが。
「それにしても先ほどのエマの剣幕は中々でしたね。」
「ああ…そうでしたね。」
思わず苦笑い。教団の女神さまを部屋に泊めて、ここに暮らす2,000人の修道士さんたちを恐怖のどん底に陥れた罪は相当重かったのか、昨日の活躍がチャラになるくらいアルバとサーシャは彼女に怒られた。
「エマは昔からキレると怖いんです。今度からはもう少し早起きしてお部屋に戻るようにしないとですね。」
…どうやらアルバの部屋に忍び込んだ事には反省がないようだ。思わず「…ハハッ。」 って照れ笑いを浮かべた。と、急にサーシャの手が止まる…。
「アルバ。今日は何だか大人しいですね。何処か具合でも悪いのですか?」
やがて彼女は鏡ごしに自分を見て、心配そうな表情でそう問いかけてきた。まさか、貴女に破廉恥な視線を送ってしまって見とれてました!…なんて口が裂けても言えないアルバは思わず苦笑い。
「いえいえ。人に髪を切ってもらうなんて初めてなので…緊張しているだけです。」
「ふふっ…そうでしたか。ですがこれからは私が毎月、切って差し上げますからね。」
彼女は再び手を動かす。
アルバの髪を指ですくっては、真剣に長さを調整し、丁寧にカットしていく…。その真面目で真剣な表情は、また新たな彼女の魅力を彼に伝えていて、もうね、本当に勘弁してほしいって思った。
これでは益々、彼女に心を取られてしまう…。
せっかくね、師匠さんにちゃんとお届けする為にと距離を取ろうとしても、彼女は必要以上に自分に近づいてきてしまうのだ。
ある意味、自分はサーシャとの距離感を決められずにずっと悩んでいるのかもしれない。いろんな事情で逃げようとしても、離れようとしても…彼女がすぐに飛び込んで来てしまうのだ。勿論、アルバは彼女を避けたいわけじゃない。できるなら、相思相愛でずっと一緒にいたい…だけど、それにはあまりに高すぎる壁が数多く存在する。
ーーーアルバはいつもの想いが頭をよぎった。
サーシャは、何でこんなにも俺によくしてくれるのだろうか?
と、いうやつだ。本当は直接尋ねた方がいいのだけど、彼女の答えは決まっている。
「貴方が私の騎士様だからです。」
…彼女は間違いなくそう答えて来るのだ。
だから、「でもサーシャの本当の騎士様は、師匠さんでしょう?」って返すと、彼女は少しだけ押し黙って、「私の騎士は、貴方だけです。」って目を潤ませてくる。
そして、その後は「師匠のことは今は話せません」の一点張り…。師匠は生きているのか、囚われているのか、そこらへんの事情がさっぱり分からないもんだから、自分なりに気を使ってこれ以上は聞いたことはない。
ただね、今は…我慢できる。
出会って時は短いし、今は一緒にいれるだけで幸せだからだ。
だけど、このまま同じ時を過ごしたら確実に引き返せないところまで行ってしまう気がする。
( こりゃ…早く師匠さんを見つけないと犯罪者になっちゃうな。 )
なんてアルバは冗談で思って自嘲気味に笑みを浮かべた。
もちろんね、サーシャはアルバがまさかそんな事を悩んでいるなんて全く知らないだろう。
だけど、自分だってサーシャがどんな気持ちかだなんて知らない。本当なら彼女の心の内をこっそり覗いてみたいけど、それはいくら彼が意志の力を使えても無理な相談だった。
「このくらいの長さでよろしいですか?」
やがてサーシャは、鏡ごしにアルバを見ながらそう尋ねてきた。慌てて自分の髪型に目をやるが、そこにはさっぱりしていて何だかとっても今風で格好がいい髪型が出来上がっていた。
「ありがとうございます。何か…さっぱりして気持ちいいです。」
「良かったわ。とってもお似合いよ。」
サーシャは満足そうに、アルバの前髪を何度も摩る。
そして色々な角度から自分の顔を見てくる。何だか…愛おしそうに。
こんな時、いつも思う。まるで恋人みたいで楽しいなって。
ずっと、こんな時間が続けばいいのにって、思った。でもそれじゃ、彼女が永遠に師匠さんに会えなくなる。
堂々巡りだ。
するとそんな面倒で嫌な事を考えるのに飽きてくる。
頭が段々と整理させれてきて、自分の気持ちだけが残る。
そう、彼女に対する素直でまっすぐな想いだ。
ーー彼女は、親も友達も恋人もいない自分に欠けていた全てのモノを届けてくれたんだ…と。
「サーシャ、いつもありがとう。」
だから、お礼を言った。突然だったとは思うけど、いつも自分に良くしてくれる彼女に感謝の意を示したかったのかもしれない。すると彼女、当然のように不思議そうな表情を浮かべながら顔を覗き込んでくる。
「…突然、どうしたのです?」
「あっ…いえ。えっとですね…。」
「はい?」
「あの…んと…なんとなくです。」
アルバが恥ずかしそうに頬を掻きながらそう洩らすと、サーシャは動きを止めてこちらを見つめ返してくる。
ーー美しく大きなブラウンの瞳が微かに揺れていた。
「アルバ、私こそ…いつもありがとう。」
「…い、いえ。俺は特に何も…。」
アルバがそう笑顔を見せると、彼女は彼の背中からいきなり手を伸ばしてきた。
その美しく長い腕はそのままアルバの首に巻かれ、やがてサーシャは自分を背中から優しく抱きとめてくれたのだ。
「さぁ、髪を洗いましょうか。」
自分の肩にちょこんと小さい顔をのせ、耳元で囁くサーシャの声は…ウキウキしててなんだか元気だった。
「朝から髪を洗うんですか?」
「はい、髪を切りましたからきちんとお流ししないと。あと…ついでにお背中も流して差し上げます。」
驚いて思わず彼女の方へ顔を向ける。
だけど彼女の顔は自分の肩口…当然、ほっぺとほっぺがそっと触れる。
サーシャのそれはスベスベでふわふわで気持ちいいものだから、もうね、本当に心臓が飛び出すんじゃないかってほど、驚いた。何しろ背中から抱きとめられているもんだからサーシャのいい香りはすぐそばだし、豊かな胸だって押し付けられているんだもの。
しかも鏡で覗き見た彼女の表情は、女神像の如き優しい微笑み…。
アルバは思わず、首を振った。
「そ、そんな…。サーシャは偉い人なんでしょ?なんたら司祭様で…すうききょうで…。そんな人に背中を流してもらうなんて、なんだか申し訳ないです。俺が洗うなら分かるけど…。」
「…まぁ、アルバが私の背中を流してくれるんですか?」
「そ、それは言葉のあやです。」
サーシャから次々と飛び出す爆弾発言にアルバは心があたふたして言葉もしどろもどろ。だけどお相手の女神様は、口に手を添えてクスクスって幸せそうに笑っている。
…なんだかアルバからも笑みが漏れ出す。
ーー思ったのだ。
楽しい…あまりに楽しすぎるって。
昨日、拗ねていた時に懐かしんでいたワラミ村での思い出そのまま…イヤイヤ、むしろあの時よりも幸せがスケールアップしている。
そうだ、こんな楽しく幸せな時間を失いたくなくて、自分は旅に出る決心をしたんだって再び思い出した。ここ2、3日は色々な事があって、16歳の不安定な心は揺れまくって、呑気している暇もないほど全力で駆けずり回っていたけど、やっぱりこの人と一緒にいると楽しいのだ。そしてどんな辛いことや嫉妬する出来事があっても、二人きりで話していると嫌なことが全て忘れられる。むしろ、彼女の笑顔を見ているとそんな事はやっぱりなかったんだって安心するのかもしれない。
「バンザイしてください。」
やがてサーシャはそう言いながら、アルバから体を離した。
「バンザイ…ですか?」
とりあえず椅子から立ち上がり、言われた通り両手をあげる。と、彼女は自分の前に回り込んでシャツの裾を掴むと、一気に上まで捲り上げてズバッと脱がされた。
「ちょ、ちょっとサーシャ…。」
「ふふっ、髪を洗うのです。上は脱がないと濡れてしまいます。…あら、やはりアルバは肌が黒くなりましたね。」
サーシャは、目をパチクリさせながらまじまじと脱がされて露わになった自分の上半身を見る。まぁ、それは彼女にも話していない摩訶不思議な一年修行の賜物なんだけど…。
「しかも、なんだか逞しくなられて…前はプニプニしてたのに、今はほとんど筋肉がみたいだわ。体型は変わらないのに…。」
更に彼女はそう顔を傾けながら、指でつついてくる。指がくすぐったい…思わず腰が引けてしまった。
「サーシャ、くすぐったいよ…。」
「ふふっ、我慢なさってください。…やっぱり硬いですわ。」
「…変ですかね?」
「いえいえ。とても格好いいわ。…でも急に筋肉がつくなんて…そこは変ですね。」
「…こっそり鍛えていたんです。」
「まぁ…アルバったら。」
口に手を添えて上品に微笑む彼女は、やはりいいところの出だって改めて意識させる。
やがて彼女は「こっちにいらして。」って言いながら手を引き、洗い場に移動すると、椅子のように緩やかな角度がついたベッドマットの上にそのままアルバを寝かせた。
「少しだけ、頭をお上げになって。」
サーシャの透き通るような優しく温かい声…。
要領を得ないアルバはサーシャのいいなりだ。「う、うん…。」って答えながら頭をあげると、サーシャはアルバの頭を手で優しく支え、その下にお湯が張られた大きなタライを入れ込んだ。そして頭を支えていた手をゆっくり抜くと、アルバの後頭部全体にお湯の温もりがフワって広がった。
サーシャは小瓶から透明でヌメッとした液体を手に落とし擦り合わせると、そのまま彼の横に立膝をして、アルバの髪をその細く長い指でといていく…。
なんて言うのだろう…心地いいなんてもんじゃない。
優しいシナモンの香りが辺りを包み、シャ、シャッて彼女が髪を揉み洗う音、そして少し擽ったいようなサーシャの指の感触…。
「アルバ、気持ち良さそうですよ」
「は、はい。とっても…。」
「ふふっ…お顔がそう言っていますものね。」
彼女は天井を見上げるアルバの顔を横から覗き込むと、大きな笑みを浮かべた。
その溢れるような愛しい笑み…まるで自分だけのようなものに感じられて、なんだか益々心が沸き立ってくる。
だけど、これまでご飯を食べる事以外で幸せを知らないアルバは、なんだか怖くなってしまった。
明確な理由なんてない。ただ漠然と怖いのだ。
そう、彼のような底辺で暮らす民は、突然訪れた幸せに戸惑いそして意味不明で怖く感じることがある。被害妄想だとか貧乏ゆえの捻くれた考え方だと揶揄されるかもしれないがこればかりは仕方がない。
だってね。これまでもサーシャは自分の側にいてくれ優しくしてくれたけど、今のそれはなんだか愛情にすら感じるんだもの。
だから彼はなんだか照れ臭くて恥ずかしくて、言わんでもいい事を口にしてしまった。
「…こんな事したら、師匠さんに怒られたりしないんですか?」
言った瞬間に思ったのだけど…これは一番聞いてみたかった事でもある。…答え如何によっては、彼が生きているか死んでいるか分かるからだ。
「えっ?師匠にですか?」
ふと見た彼女の顔は、その質問に少し驚いている風に見えた。まぁ、今までと同じ反応。
やがてサーシャは小さく息を吐くと、目を静かに閉じた。
なんだろう…アルバが不思議そうに彼女を見上げた…その時だった。
なんとこの人、いきなり前かがみなって、おでこを自分と合わせて来た。
睫毛が動く感触まで伝わってしまう距離…いやはやもうね、サーシャにはさっきからドキドキされっぱなしなんだけど、おでことおでこ合わせは反則だ。アルバが心臓をばくばくさせながら目を丸くしていると、彼女は優しく微笑みゆっくりと口を開いた。
「師匠は…怒らないと思いますよ。」
…やっと答えたサーシャの言葉はあまりに意外だった。
いやいや、普通ね、浴室で2人きりで愛する女が他の男の髪を洗ってたら怒るでしょう!しかも男は上半身裸ですよーって…。
自分なんて恋人でもないのに、サーシャが他の男と話していただけで、世界が終わったみたいに思ったのに…。
だがこれで、師匠さんが生きている事ははっきりした。
ただ…するってーと彼は、よほど心が広くて、大人な男なのだろうか。
それとも決してサーシャが裏切らないと信じているんだろうか。それはそれで凄いな…って妙に感心してしまった。むしろ自分の人間的な小ささと比較すると尊敬に値する。
云々、彼女を好きになってしまった男としては師匠さんは憎っくき相手に違いないんだけど、人づてに聞いてアルバが想像した彼はすこぶる格好いい。
呑気な自分は、いつの間にやら師匠さんにシンパシーを感じてしまったのかもしれない。
思い出して欲しい。
アルバは、とても素直でまっすぐだ。しかも学もないし友もいないから疑う事を知らない。だんだんね、師匠さんって剣の腕前が凄いって事だけじゃなく、人間的にも実はすげー人なんじゃないかって妄想が出来上がる。
よくよく考えれば、このサーシャさんが好きになる人だもの…。
「師匠さんみたいに…なりたいな。」
気がつけばアルバはそう漏らしていた。それはとても小さく呟いた程度なんだけど、この時のサーシャは彼と額を合わせていて超至近距離。はっきりと彼の声を聞いたようだ。
「まぁ…アルバったら。面白い事を言いますね。」 …その彼女の言葉は意味不明だった。
「いや、ほら…。師匠さんはとっても強いんでしょう?彼と同じくらい強くないとサーシャを守れないし。」
「…アルバはやけに師匠の事が気になるのですね。」
そう言いながら、ゆっくりと顔を離したサーシャの顔は苦笑いを浮かべていた。
そりゃ、そうですよ…って、アルバの心は叫びたい気分だった。
表向きの目標としては「サーシャを守れるくらい強くなって、無事に師匠さんの元へ届ける事。」なんだけど、心の奥底に眠る彼の本心は、「サーシャは自分が守りたい!」って事だからだ。いっそ「もう師匠なんて探さないで!俺がサーシャを守るから!」って言えれば、どんなに楽だろう。
だが…
「いえ…そういう訳ではありません。」
結局…アルバはそう答えた。
まぁ、今の自分では師匠さんに対抗するのはどうにも無理がある。自分の秘めた思いなど言葉にできないほど厚かましいし、あまりに身の程知らずだ。
サーシャはそんなアルバを見てクスって小さく微笑むと、やがてゆっくりと彼の髪を流し出した。優しく、丁寧に、ゆっくりと…。
「髪を流したら、次は背中ですよ。」
彼女は話をはぐらかすように、そんな言葉を口にした。
「い、いや。それは流石に…申し訳ないで、本当に大丈夫です。」
「まぁ…。師匠には、いつもしていたんですよ。」
彼女のその言葉に、頭ではなく心が反応した。
「やっぱり…お願いします!」
「あはっ、アルバったら本当に面白いわ。」
そう言って破顔するサーシャ。ちょっと悪戯っぽい表情も垣間見えた。
やがてケタケタ笑い出してしまうし…。
その彼女の顔を見て、( やられた! ) って、すぐに気づいた。
完全にカマをかけられた…って。
これで師匠にヤキモチを焼いていることまで知られてしまった。…もうね、情けないったらありゃしないのだけど、そんな自分にサーシャは、嬉しそうにその美しい顔で覗き込んでくる。
黄金色のポニーテールが微かに揺れて、彼女の濡れた手がアルバの頬をそっと包んだ。
「さっきのは嘘です。私が殿方の背中をお流しするのは…アルバ!貴方が初めてよ。」
そう言い切ってくれた彼女の顔は、とても嬉しそうで幸せそうで…それはそれは美しかった。




