飛び込んできた女神
その夜、アルバは一人、部屋の窓から銀色の満月をボォーッて仰ぎ見ていた。
真っ黒な空に浮かぶまん丸は、ぼんやりと寂しげに光っていて、今の自分の心を映し出してくれているようだと感じたものだ。
またここは歴史ある修道院。アーチ状の窓から覗くその夜空は、一人でものを考えるにはちょうどいい場所のかもしれない。むしろ、思い悩みこの窓から月を見上げた先人たちがどれくらい居たんだろうなって、変な事まで頭をよぎった。
何しろ昨日今日と、初めて経験した事がそれこそ山のようにあったからだ。
ちょっと吐き気がするほどの大盛り…彼がお月様やら先人やらで現実逃避したくなるのも頷ける。
初めての戦争、剣士としての敗北、摩訶不思議な世界での1年もの監禁、そして名のある将軍様との戦い、一騎打ちでの勝利、その勢いで攻め込んできたロハン軍をも追い返した。
ただの田舎の物売り少年が、ここまでできたんだから上出来だ。つーか奇跡だ。
できれば、ルンの街を救った褒美として1年間無料お食事券とか貰って、サーシャに「よく頑張りましたね。」って最後に一度だけ褒めて貰って、家に帰りたいなって思った。
だけど、いつまでたっても誰もお食事券を持ってきてくれないし、これまでいつも一緒にいてくれたサーシャもとんと姿を見せに来ない。
まぁ、忙しいんだろうな…呑気なアルバはそう思って頭を掻く。だけど彼の心の中に潜む子供のアルバは爆発寸前だった。
心がむしゃくしゃして、ここで暴れまわりたいくらいだった。云々、今なら傷害事件をおこした犯罪者が「むしゃくしゃしてやりました!」っていう気持ちが分かるもの…。
そう、どこにぶつけていいかさえ分からないその心のモヤモヤに、アルバはとっても苦慮していたのだ。
本当なら、今すぐサーシャに会いに行きたいのだけど、エマからは部屋から出るなとキツく言われてるし、そもそもサーシャと会ったとしても今さら何を話していいか分からない。
なにか…サーシャがとっても遠い存在に思えたからだ。
今となっては彼女とワラミ村で過ごした時間が懐かしい。あの時は、ウサギ小屋のように狭いアルバの家で一緒にご飯を食べたり、温泉に入りに行ったり、一緒に寝れたりして、手を繋ぎながらずっと話をしていられた。
彼が感じた初めての幸せな時間だった。
だからこそ自分は無謀にも彼女の騎士に立候補し、旅について行きたいと彼女に頼んだのだ。こんな幸せな2人の時間が続くならって…。
別に恋人になれなくてもいい、ただ彼女が師匠さんに逢えるまでの暫くの間は、サーシャの一番でいれると思っていた。我ながら痛い考えだけど…。
だがその細やかな願いは、あっという間に崩れ去った。
まずはね、ルンに来てすぐに戦争に巻き込まれた。だけどその時はまだ良かった。側にサーシャがいてくれて、いっぱい励ましてくれ、助言をくれたりもした。
だけど、自分が一度倒れ、摩訶不思議な世界に迷い込んで一年、やっと戻って来れたと感激したのに、サーシャと2人きりいれた時間はごく僅か。
その後、自分はサーシャの頼みを全部聞いて、必死に剣を振るって、望みを全部叶えたのに、褒めて貰えないばかりか離れ離れになり、やっと会えたと思ったら彼女は他の男と手を繋ぎながら乳繰り合ってる始末。挙句丸一日、色々と弱り切っている自分のところに顔も出してくれない。
そりゃ彼女はどうやら教団のお偉いさんだから、こんな大きな修道院に来たらやる事がいっぱいあるんだろう。もしくは昨日のイケメン兵士の看病で忙しいのかもしれない。
まぁどっちにしても自分は彼女の一番じゃなくなった…。
そしてトドメは、彼女の親友であるエマから聞いた”師匠”のこと。
彼が想像していた通り、師匠さんとサーシャはとても仲が良かったようだ。つーか、はっきり言えば恋人だ。彼がどこにいるのか、はたまたご存命なのかは分からないけど、あのサーシャが危険な一人旅をしてまで探し求めていた師匠なる人物の存在は大きいのは想像に容易い。きっと昨日の騎士が自分ではなく、師匠さんならサーシャは脇目も振らず騎士の元へ走り込んで来たのでは…なんて思うとますます凹む。
アルバの心に潜むどす黒い…いや、そんな立派なもんじゃないな。
むしろ駄々っ子みたいなものが呑気でおおらかな彼の思考を飲み込んでいく。やがてね、拗ねた8歳くらいのアルバが完成した。
ベットの上で膝を抱えながら小さく揺れるこの姿は、きっと凄く滑稽で格好悪いっつうことも分かる。だけどこの姿を誰かに見てもらい慰めて欲しいなんて思いもあったりする。
( ワラミ村に帰ろうかな…。 ) なんて考えが頭をよぎるけど、その思いが実行に移される可能性はかなり薄そうだ。なにせ彼はサーシャに断られるか、または師匠に出会うまでは彼女のそばを離れないと、それこそ本人に誓っている。
他人とほとんど約束などしたことがないアルバは、そのサーシャとの約束だけは守ろうと心に決めていて、今の所何があってもそれを破る気はない。そうじゃないと自分の存在意義が保てないからでもあるんだけど。
ただ、これからは彼女との距離感は考えないとなって思った。一定の距離を保って、それ以上は近づかないようにしないと、自分の弱い弱い精神が崩壊してしまう。
幸か不幸か、この数日間でサーシャが本当に教団のとっても偉い人だということは分かった。みんなが彼女に”様”をつけるほどの御仁なんだから、これからは自分も身分をわきまえてちゃんと”サーシャ様”とか、意味はわかんないけど”すうききょう”って呼べばいいやって思った。
云々、これは名案だ。
そうすれば、師匠に会った時もショックを受けないし、噂にきく化け物のようにお強い師匠さんにも怒られることはないだろう。それに、昨日のようにイケメン青年兵士とイチャイチャしている場面に遭遇しても、自分はただの護衛なのだから気にしなくていいし、今みたいにサーシャに放置されても気にやむことはない。きっと用があったらサーシャから言ってくるだろう。
そう思ったら、なんだか気が楽になった。
バサッーってベッドに倒れこみ、大の字に両手両足を伸ばす。
そして大きなため息をつきながらふと天井に目をやったが、そこには女神の絵はなく、ただの白い天井が広がっていた。彼はしばらくその無機質な白を眺めていたが、やがて飽きてきたのかそっと目を閉じたのだった。
トントンーー。
それから、どれくらい時が経っただろうか。
アルバは何やら木を叩くような小さな音で目が覚めた。時はおそらく夜の12時を過ぎていて日付も変わっているだろう時間だ。だが暫く音はしなかった。
…気のせいか…そう思ったアルバは静かに目を閉じた。
トントンーー。
そしてまた同じ音が響く。今度ははっきり聞きとったアルバは、慌てて上半身だけを起き上がらせ、ドアの方に目をやるが、どうやら音はそっちからじゃない。カーテンで閉じられた大きなアーチ状の窓からのようだ。
( 誰だろう…まさか物の怪じゃないだろうな…。 )
なにせここは2階。呑気だけど臆病でもあるアルバは背筋に冷たいものを感じながら、ベッドの上を注意深く移動してその窓を覆っている藍色のカーテンに手を伸ばす。
若干…手が震えている。なにせ彼はお化けの類が大の苦手だ。
( よ、よし、開けるぞ…。 )やがて覚悟を決めた彼はゴクリと唾を飲み込むと、カーテンの裾を少しだけ摘んで恐る恐るずらした。
するとだ。目を細めてその先を見たら、とっても見覚えのある顔がガラスの向こうにいらっしゃる。
「サ、サーシャ!?」
アルバは思わず叫んだ。そこに見えたのは、細く美しい腕を懸命に伸ばし、必死に窓の木枠をつかんでいるサーシャの姿だったからだ。アルバは慌ててカーテンを開けると鉄でできたレバーを素早く回し、重く硬い窓を一気に開けた。部屋の中に冷たい風が入り込み、彼女の黄金色に輝く長く美しい髪も、花が開くようにフワッって舞った。
「騎士様、こんな所からすいません。お手を貸していいただけますか?」
そう言って、手を伸ばしてくる彼女。
アルバは大慌てで彼女の手をとると、そのまま一気に部屋の中にサーシャを引き入れた。
「きゃっ。」なんて彼女の可愛い声が一瞬聞こえたが、都合がいいことにその大きな窓はベッドの横にあって、引き入れられたサーシャはふかふかのベッドの上にアルバと一緒に倒れこんだ。
「いてて…。」アルバは手首を軽く捻ったようで、そう小さく声をあげたのだけど、すぐに彼女の淡い甘い香りを感じ、弾かれたように顔を横に向ける。
…目の前にサーシャの愛しいお顔があった。
そう、倒れ込んだ時に偶然にも2人は、狭いベッドの上でお互い横向きで顔を見合わせている状態だったのだ。
しかし…美しい。どんな時にも、どんな場所でも美しい。この藍色の光しかない部屋の中に、急にまばゆいほど可憐なサーシャの顔があらわれたとき、アルバはそれ以外の言葉が浮かばなかった。
「寒くて凍えるかと思いました。やはりカーディガンを羽織ってくるべきでしたわ。」
サーシャはそう言いながら大きな笑みを浮かべると、白い息を溢れさせながらアルバの腕にそっと手を添えた。
彼女の手はいつもと違い、冷たかった。
アルバが驚いて視線を落とせば、彼女は白くゆったりとしたノンスリーブの膝上ワンピースのような寝間着を着ているだけで、確かに真冬の夜に出歩くにはそぐわない格好をしていた。アルバは氷のように冷たくなったサーシャの手を懸命にさすりながら、目を丸くしてこのあり得ない非常事態の理由を尋ねる。
「サーシャ…なんで?」
「なんでって…何かおかしかったですか?」
そう悪戯っぽく微笑むサーシャに、彼はタジタジだった。その微笑みに優しい声。行方不明だったワラミ村でのサーシャが、戻って来たように感じられたからだ。
「いや、だって…窓から急に現れるなんて…。」
「あはっ、その事ですか。実はこの部屋の前に、護衛みたいな人が立っていたんです。もし見つかったら、この部屋でゆっくり過ごすことも出来なくなりますから、裏から強行突破する事にしたんです。」
そう言って舌を出すサーシャ。
まぁ確かに教団の女神が真夜中に男の部屋に入ったら、あらぬ噂が立つのは間違いない。だけどね。まぁそうすると可笑しな事がある。
「ここ2階ですけど…どうやって…。」
「壁をよじ登ってきたんです。」
その言葉にアルバは呆れて開いた口が塞がらなかった。このお姫様のような華奢な貴女がめくれるスカートも気にせず寝間着姿で壁を登ってきたなんて…て驚愕したのだ。
だけど目の前にいる彼女は、そんな事を気にするそぶりも見せず、アルバの腕に顔をこすりつけて温まろうと必死だった。
その様子がなんとも愛らしい。
ただでさえ窓から差し込んでくる蒼い光に照らされたサーシャの顔は、それはそれは可愛くて愛おしくて…アルバはどうにも目のやり場に困り視線を外す。なにせ彼は先ほど、この麗しき女神との距離をつくらなきゃって思ったばかり。まぁ、いきなり飛び込んできた彼女の所為でそのルールは早速崩壊しそうになっているが。
「なんでまた、そんな無茶をしたの?」
アルバはとりあえずそう尋ねた。本当はそれが一番聞きたかった。
すると彼女、手をスルスルと下に伸ばして寝間着のポッケから何やら取り出した。やがて、それを彼の顔の前に掲げる。
それは、白と淡い桃の生糸で編まれたブレスレットのようなものだった。
「これをどうしてもアルバにプレゼントしたくて。」
「えっ…。これを?俺に?」
「はい。アルバは、私と修道院、そしてルンの街を護ってくださいました。私が守りたいものを全部救ってくれたんです。これはそのお礼です。細やかですが。」
サーシャは片手で彼の手に指を絡めながら、もう一方の手でそのブレスレットみたいなのを彼の目の前で軽く揺らした。
アルバが恐る恐る受け取ると、それはとても柔らかくふわふわだった。
少し気になってまじまじと目を近づけると、それはとても丁寧で美しく作られているけど、少しだけ糸の太さが違ったり編む感覚が違っている…。もしやって彼は目を丸くして尋ねた。
「あの…これって…」
「あっ…恥ずかしながら私の手作りです。実は今日起きてからずっとそれを作っていたんですけど、中々うまく出来なくて…こんな時間になってしまいました。本当はすぐに会いにきたかったんですけど…。」
そう洩らしたサーシャの照れ臭そうな顔を見て、アルバは深く深く反省せざるを得なかった。それで今日1日、彼女が自分に会いにこなかった理由が分かったんだもの。しかもそれは彼にとって喜びこそすれ、悲観的な内容じゃなかっていうんだから余計に頭が上がらない。
というか、嬉しい。落ち込んでいた心が上向きになるほど嬉しいのだ。
まさかサーシャからプレゼントをもらえるとは思わなかった。超がつく予想外というやつだ。
「ありがとう…。」アルバはそう言って、思わず照れ笑いを浮かべそうになった。
だけどだ。
まだまだだ。アルバは心にブレーキをかける。
今回、自分が拗ねてしまった理由は他にもあるのだ。
本当なら今すぐ彼女と話したいことはいっぱいあるんだけど、彼は頑張って笑みを消すと、頬を膨らまして懸命に不機嫌な自分を演出した。何と言っても今のアルバの心は8歳児、そんな恥ずかしいことも堂々と出来ちゃう。
するとサーシャさん、察しがついたのだろうか。
「もう…騎士様ったら…。」って、甘い声を洩らしながら右手の人差し指でアルバの膨らんだ頬をツンツンすると、嬉しそうに美しい小顔を彼の腕の上にちょこんと載せた。
サラサラの黄金色の髪が彼の肌を優しく擽ぐられ、彼女の顔が少しだけ近く…。
アルバが驚いて彼女の顔を覗き込むと、サーシャは目を閉じながら嬉しそうに彼の手に頬ずりしていて、なんとも可愛らしい。
もちろん、嬉しい。恥ずかしいけど嬉しかった。
だけど同時に、この人…相変わらず狡いなって思った。つーか、反則だ。
こんな人にこんな事されたら、誰だって…って、人生経験乏しいアルバは顔を顰める。
しかもだ。昨日、アルバが嫉妬した兵士さんとは手を添えていただけだったけど、貴方にはここまでしてるんですよって、ささやかに伝えてくれているようだった。
これって…計算してやってたら凄いな…経験豊富な大人ならそう思ってしまうところだけど、子供なアルバはそこまで頭が回らない。いや、どんな大人でも心が弱っている時に彼女からこれをされたらコロっていっちゃいそうだ。
サーシャは彼の表情が徐々に柔らかくなっていくのを見て、ゆっくりと顔を近づけてながら申し訳なさそうに笑みを浮かべた。
「こんな私も修道士の一人なんです。でも、その事でアルバの御心を惑わせてしまったのなら、謝ります。本当にごめんなさい。」
その意味深な言葉にアルバは思わず頭を掻いて、「あっ、いえ…。」って誤魔化しながら顔を俯かせた。
どうやら、昨日の中庭でアルバが勝手に嫉妬してその場から逃亡した事はまるっと知られているようだ。…結局エマは、その事を女神に話してしまったんだろうか。まぁ、もしそうなら犯人は彼女しかいない。
カァーって血が昇ってきて、体が熱くなる。
できれば昨日のイケメン兵士と彼女との事で、焼き餅を焼いてしまったという内容はサーシャにだけは知られたくなかったが、こうなってしまったからには仕方ない。
…後はしらばっくれて、惚けるしか道はないなって、彼は困ったように首を捻ったものだ。
するとサーシャは、両手で掴んだ彼の手を揺すりながらもう一度謝ってきた。
「ごめんなさい…。許してください。」
意外にも彼女のその声は、今にも泣き出しそうだった。当然、アルバは大慌てだ。
「いやいや…。サーシャ…俺の方こそ、ごめんなさい。」
彼はベッドの上で彼女に顔を寄せると必死にそう謝った。なにせ自分が拗ねた理由は幼児みたいにしょうもないものだ。とてもこんな慈悲深い女神のような人の心を惑わせる大層な理由などない。
それにね、なぜ彼女がこれほどまでに自分に頭をさげるのか分からない。
何しろ、彼女は何も悪くないのだ。
ただ懸命に修道士のお仕事をしていただけだし、それでなくとも彼女は教団でとってもお偉いさんの娘さん。こんな護衛に毛が生えた程度の臨時の騎士なんぞに頭をさげる理由がどうにも分からず、アルバは戸惑ってしまったのだ。
「…アルバが謝ることではございません。」
だけどサーシャは顔を寄せてきた彼の頭に手を添えて、申し訳なさそうに何度もなんども優しく撫でてくる。
もうね、昨日まであれほど凛とした女性が、まるで怯えた小動物のように震え、甘い声を出しているのだ。…これでは自分はなんて事をしてしまったのだろうと彼女に申し訳なくて仕方がない。。
( やっぱりサーシャには敵わない…。 )
やがてアルバは一度大きく息を吐くと、そのまま大きな笑みを浮かべた。
思えば彼女がここに現れてからというもの、イケメン兵士だ、師匠だってさっきまで悩んだことさえ忘れかけている。
「やっと騎士様が笑ってくれました。本当に良かったわ。」
そしてそんな彼を見たサーシャはそう言って、いつもの女神のような微笑みを浮かべたのだった。そしてその何気ない言葉が、アルバにはとっても嬉しく感じられた。
ベッドの上で向かいあったアルバとサーシャ。
サーシャにとっては会えなかった日数がたった1日だけど、アルバにとっては1年と1日だったからだ。




