ロハンの敗走
「神様と…言いましたか?」
その報告を聞いた時、冷静なステラ副将軍すらも思わずそう漏らした。
ロハン軍司令部は、ルン中央道りにある商家の空家を乗っ取り、その2階部分を仮の軍本部として会議をしていたのだけど、今しがた齎された前線からの緊急伝達内容があまりに衝撃的すぎて、しばらく誰も口をひらけなかった。
ルン修道院の手前まで進軍したら、いきなり神様と聖騎士が現れて、軍が総崩れになっている…
もう、皆の思考回路が止まる。とともに失笑も上がる。
聖騎士はこの際いいとしよう…本当は良くないけど…。
それよりも神様とはなんだ?と、皆が思ったのだ。
ロハンの副将軍で現在の最高指揮官であるステラは少し呆れ気味にため息を落とすと、前線からその知らせを持って来た伝令部隊の一人に静かに目をやった。
「どういう事か詳しく話してくれないか?」
「今は、話している暇などありませぬ。副将軍もすぐにお逃げください!」
「………。」
スカラは、冷静さを失った伝令の兵士を見て、思わず閉口した。勇猛で知られるロハン兵の中枢にいる伝令部隊が、ここまで正気を失っているのはただ事ではない。
普通の軍では連絡係の意味合いが濃い伝令部隊も、ここロハンでは軍の状況を正確に把握し、あらゆる作戦のメゾットを握っている。いわゆる軍師補佐的な役割もある優柔な人材なのだ。
そんな彼らが大真面目に、神様だぁ、聖騎士だぁと言い、挙句現状は壊滅的と言っている…スカラは暫く立派な口ひげを手でなぞっていたが、やがて大きな手を遠慮気味に掲げてその男を見返した。
「前線の様子は分かった。…ところで、セザール将軍の事は耳にしなかったか?」
スカラの唯一の上官であるセザール将軍はこの時、ロハン領主であるダニエル公から密命を受けていて、ルン修道院の破壊という罪深き所業を実行しようと、一人で行動していた。スカラからすれば撤退するも何も、まずは自分たちの英雄を連れ出さないことには話が進められない。セザールはロハンにとってそれほど影響力のある人物なのだ。
だがその伝令部隊が持ってきた報告は、とても残酷だった。
「…真偽のほどは定かではありませんが…兵士たちからの噂によれば…セザール将軍はアルバと名乗る聖騎士に打ち取られた模様にございます。」
「な、なんと…。」
これには、さしものスカラ副将軍も目を丸くした。
そしてすぐに会議に参加していた部隊長8名たちも一斉に立ち上がり、その伝令部隊員を睨む。皆が「いい加減なことを言うな!」っと怒鳴る寸前だったのだが、それはスカラが手で制した。勿論、用心深い上に剣豪でもあるセザールが討ち取られたなど副将軍自身も信じられなかったが、敵に最強を謳う聖騎士がいたとなれば、それは十分にありうる。
「兵士たちが話していた噂とは、どのようなモノなのだ?」
スカラは冷静を装いながら、そう尋ねた。やはり将軍の身に起きた事が一番気になるようだ。
「敵の修道兵がそう叫んでいたとか、アルバと申す聖騎士の腰に将軍の銀刀があったとか…そんな噂だそうです。」
そう報告した伝令部隊の一人は、やがて悔しさを滲ませながら俯いた。
その内容は曖昧で信ぴょう性には欠けるものだけど、よくよく考えれば勇猛果敢なロハン兵が修道兵に追い返されているとなれば、それは立派な理由になる。
むしろ、神様や聖騎士が現れたって事より、将軍が敗れて軍が混乱しているっていう方が現実的だ。
( なんという事だ…。 )スカラは思わずそう漏らした。だが、それが本当なら考えている時間はない。すぐに退却しないと、軍は甚大なダメージを受ける。何しろ将軍セザールはロハンの旗印。その彼が敗れたとなれば、士気は地に堕ちる。
スカラはしばらくの間、考え込むように指で唇を抑え、もう一方の手で机の上をトントンした。こんな時、セザールならどうするだろうか…と。
やがて、彼は何かを決意したように手のひらで軽く机を叩く。そしてゆっくりと部隊長たちを見据えながら、皆に命令を伝えた。
「一度、街を出ましょう。部隊長たちはすぐに軍をまとめ、モンテ・プレラの中腹で集合を。」
モンテ・プレラは、ここルンと彼らの街ロハンのちょうど中間にある山の事なんだけど、まぁそんな事よりも、いきなり”撤退宣言”にも聞こえる結論に老獪な部隊長たちは一斉に反対した。まぁ、ロハンの部隊長たちはスカラやセザールより年上が多い。故に、仕事は安心して任せられるが、こういう大局を捉えて決めた、一見弱気とも取れる命令の説得には骨が折れる。
「敵の策略かもしれんではないか!」
「将軍を見捨てるのか!?あいつはそう簡単には死なぬわ!」
「聖騎士など、こんな場所に来るわけがない。ましてや神など…バカか!」
予想された通り、先ほどスカラに手で制された老部隊長たちは、待ってましたとばかりにそう捲し立てた。何しろ彼らはここルンに楽勝と言われてきているのだ。そんな話、信じられるわけがない。だがスカラは彼らの威勢を削ぐように、静かに返事を返す。
「爺様…まぁ、そう興奮しないで。私は、セザール将軍を見捨てませんよ。それに現実を見なくてはいけません。」
「どういう事じゃ?」
「今の我々には前線の様子を伺うことはできませんので、真偽のほどは定かではありませんが…我がロハンが誇る伝令部隊がここまで言っているのです。前線で何かがあったと考えるのが普通です。」
「………。」老獪な部隊長たちも口を噤んだ。
「それに、我々の攻撃目標にルン修道院が入っているのです。事が教団の聖地に漏れれば聖騎士が出てきても不思議ではありません。何せ、彼らは教団の守り神ですからね。そして、彼らが出てくればセザール将軍が破れるのも納得がいくというものです。彼ら聖騎士は、数年前にパンドラ王国の宮廷騎士と近衛兵100名以上も皆殺しにしている恐ろしい連中だというのはご存じでしょう?」
「…キートンとかいう聖騎士が一人でやったとかいうあの事件か…。」
思わず老部隊長は声を落とし、そう洩らした。確かに教団の聖騎士の恐ろしい話は世界中にゴロゴロと転がっている。ただ、あまりに衝撃的すぎて信じられないっていうのがこの世界みんなの統一見解なのだけど。
「とにかく、前線の兵士が総崩れになっているなら、立て直すのは容易なことではありません。ルン攻略を続けるにせよ、ロハンに撤退するにせよ、一度、街を出て陣形を立て直さない事には始まりません。」
スカラはそう言いながら、ゆっくりと立ち上がった。当然のように、他の部隊長からは、兵糧がどうだの、金銭がどうだの、領主の叱責がどうだのと文句が上がったが、彼はその言葉を全て無視して、ゆっくりと中央通りを望む窓の外に目をやった。
…少し外の空気を吸いたかったのだ。
本音を言えば彼にとって前線で一部の兵が敗れた事よりも、共に戦場を駆けてきたセザール将軍が死んだという一報の事の方が、よっぽどショックだった。本当なら今すぐにでも、御自ら突撃を開始して真偽のほどを確かめたいのだが、自分は現在この軍の最高司令官である以上、情に流されるわけにはいかない。それは皮肉にも、セザールが常々言っていた事でもあった。
( 冷静な判断をしなくては…将軍に顔向けできない…。考えねば…短い時間で熟慮せねば…。 )
そんな事を自分に言い聞かせる様に呟く。
だが、戸を開けようと窓枠に手をかけた時、その副将軍の顔が何かの灯りで橙に染められた。
「こ、これは…。」
スカラは声を抑えきれず、そう洩らしてしまった。
彼の瞳に無数の揺らめく橙が、ドタドタと振動にも似た音ともに映し出された。
「どうしたのじゃ!?」
彼の異変に気がついた他の部隊長も一斉に窓に集まってきた。
この常に冷静な副将軍が、思わず声を漏らすなどただ事ではないと思ったのだ。
そして彼らもスカラの視線の先を見た途端、言葉を失った。
無数の炎、目が血走り一目散に街の外へと駆けていく赤色の鎧を纏った男たち…。
そこに見えていたのは、松明を掲げながら中央通りを西に向かって逃げ惑う数多くのロハン兵の姿だったのだ。
「ば、馬鹿な…。」
百戦錬磨の老部隊長たちも、その意外な光景には驚きの声を上げた。
勇猛果敢なロハン軍が逃げ惑う姿も衝撃だったが、伝令部隊の到着した時間を考えて見ても、前線の兵士の撤退時間が早すぎる。それは如何に前線が混乱し、味方のほとんどが何者かに追い込まれている事を示していた。
そして彼らが、ここに駐留している兵士や司令部に一切の助けを乞うこともなく、一目散に街の外へと逃げているって事も、追いかけてくる敵の力があまりに強大で、尋常でない事も伝えていた。
「あ、悪夢じゃ。悪い夢を見てるようじゃ…。」
老部隊長たちの悲痛な声が続く。
お隣の軍事大国フィルファとの戦いでも、ここまで無様な姿を晒したことなどこれまでにない。弱いと決め込んでいたルンとの戦いでこんな事になるとは誰も予想していなかったのだ。
スカラは何も言わず、その逃げ惑うロハン兵とその司令官である老部隊長たちの唖然とした顔を、無表情に暫く眺めていた。
ーーロハン軍は、ほとんど負けを知らない。ましてやセザール将軍を頭にした大きな戦いなどほぼ無敵だったのだから、彼らの落胆ぶりは容易に予想できるといものだ。
その様子は、この戦いが、もはやどうにもならない事を示していた…。
「全軍、今すぐ撤退します。しんがりは私が務めましょう。爺様たちも、お早く!」
スカラはもはや、そう言うしかなかった。




