裏切り
アルバの暮らすワラミ村から、ザグレア地方有数の都市であるルンまでは、歩いて3時間の距離だ。云々、いくら徒歩が気軽な移動手段だと言ってもそれは中々に骨が折れる距離だ。
まぁ、馬で行け半刻ほどだが、流石に自分にはそんな大層なものなど持っている筈はない。
アルバ自身は毎日の日課のようにその道を歩いていたのでいいが、今日からは自分の横にはサーシャさんがいる。
「サーシャ、ごめんね。」
アルバは足元の悪い山道の中、悠然と歩く彼女に申し訳なさそうにそう話しかけた。
「えっ?何がですか?」
「何がって…ずっと歩かせてばかりで申し訳ないなって…。」
「フフッ。何を言うのです。旅というのは基本、歩いていくものですよ。」
サーシャは肩をちょこんとアルバに当てて、そう微笑む。
それは彼女らしいとっても優しいお言葉だけど、サーシャの血筋を朧げに聞いてしまった自分としては、なんとも申し訳ない。
何せ彼女は世界的権威”教団”の中でかなり偉い人の娘さんなのだ。絶対、普段歩いているはずがない…。そう思うとどうにも、申し訳なくなる…。
心に思っている事がおもいきり顔に出るアルバがそんな困った表情を浮かべていると、何かを察したのか彼女はゆっくりと自分の顔を覗き込んできた。
「アルバは、私に気を使いすぎです。」
「そういう訳じゃないんだけど…。」
「ふふっ。では、アルバが私に気を使わなくてもいい様に、修道院で馬を一頭お借りして行きましょう。」
そう言いながら、黄金色の髪をかきあげるサーシャ。
彼女はしれっと言ったけれど、それはとんでもない朗報だ。
「えっ?馬なんて借りれるの?」
「はい。大きな教会や修道院では、旅する修道士の為に常に馬を用意してあるのです。」
「それは助かりますね。…良かった。」
アルバは胸を撫で下ろし、そう呟く。
したことがないので、”旅”なるものがどのような事は知るべくもないが、さすがにずっと歩きは辛いはずだと想像はできる。ましてはこんなお姫さまのようなサーシャが、歩きでの旅に耐えられるとはとても思えなかったし…。
ただ、馬があれば体力の消耗はかなり避けられるし、変な輩にあっても逃げれる確率が上がる。
だから旅人にとって馬はとても大切なパートナーとなのだ。
アルバはその事でこれからの旅について安堵したのか、そこからは他愛もない話をサーシャと楽しみながら、ひっそりした山道を進む。
森は朝靄の中、木々の僅かな隙間を抜け教会の天窓から差し込むような陽の光が大地に振りそそいでいて、とても神秘的。
2人は大きな雑樹林の中、くねくねに曲がった山道をひたすら東に向かって進んだ。
森は深いが、一本道なので間違えるということはない。
アルバたちが鬱蒼とした森を進むたびに、辺りからは鳥のせわしない鳴き声とバタバタと羽ばたく音が響いてきたが、いつもは気にも留めないそんな音さえも耳に心地良かった。
( なんか…しばらくここに戻ってこれないって思うと、寂しいもんだ。 )
ってアルバはしみじみと漏らす。
なにせ彼は立派な田舎者。大地と大気が織りなす自然の方が何とも心が落ちつくものだ。
だからだろうか。
朝から旅に出るという事で上がりっ放しだったアルバの高揚感も、森深くに足を踏み入れてからというもの、少しづつ静まってくるのをアルバはしっかりと感じ取れた。そして気持ちが落ち着けば、いろんな事が頭をよぎる…。
「ねぇ、サーシャ。結局、俺たちはどこへ向かって旅をするの?」
だからこんな言葉も自然と出た。そもそもね、彼女がどこに向かって何を目標にして旅をしているのかを、ちゃんと知らない。師匠なる彼女の本物の騎士様を探してるっていうのだけは漠然と知っているんだけど…それだってアルバの予想であって彼女の口から直接聞いた訳ではない。
「う〜ん…。目的はちゃんとあるのですけど…行く宛というものはございません。…アルバは行きたい場所はありますか?」
「えっ?…そうだなぁ…。」
ちょっと驚きながらも平静を装ってしまった。
いやはや、このしっかりしたサーシャが行くあてもなく旅をしようとしていることに驚いたのだ。でもよくよく思い出せば、確かに彼女は目的はあるとは言っていたが、どこに向かっているなんていう”場所”を話したことはない。
アルバがちょっと迷った様な表情を浮かべていると、彼女は目を細めながら嬉しそうに尋ねてくる。
「アルバは、剣の腕を磨きたいのでしょう?」
「あ、はい。そうですね…。」
「だとしたら、世界各地の剣豪たちを巡る旅にいたしましょうか?」
そのお言葉にアルバは目が点になった。元々は旅するサーシャを守る為に、剣の腕をあげたいのだ。彼女のその言葉通り自分が主役になってしまうのは、なんか違うような気がした。
「そんな…。旅の第一目標を俺の目的にしないでくださいよ。」
アルバが慌てて手を小さく振ると、彼女は目を細めながらクスって微笑んだ。
そして「騎士様は私の全てなんですから遠慮しなくていいのですよ。」なんて彼の心を撃ち抜くお言葉を呟くと、彼女は唇に人差し指をそっと添えた。
「それでは、この世界の歴史探求の旅にいたしましょうか?」
なんて大それた事を可愛い声で言う。
…それはまた大風呂敷を広げましたね、サーシャさん!って思った。
少し興味は引くが、あまりに突拍子もないお話だ。
だが彼女は構わず言葉を続ける。
「実を言えば、私はこの世界の歴史にとっても興味があるんです。個人でも考古学を学んでいたくらいなの。」
「へぇ…。サーシャはお勉強できそうだもんね。」
「いえいえ。好きな事を探求するのが好きなだけです。ですが…この世界には500年前に世界が再興しだす以前の歴史書が、何処にも纏まって残っていません。これはとってもおかしな事です。」
サーシャは何やら力説を始めてしまった。
「だから私は世界中を巡り、バラバラになった歴史を繋いで500年前の真実を知りたいって思っているんです。」
「この世界の歴史か…。なんか…スケールが大きすぎて実感が湧きません。」
アルバはその壮大な目標に苦笑いを浮かべるしかない。
だけど、彼女がそれを求めたいと言うのなら自分はそれに従うまでだ…とも思った。
サカテの話では、騎士というものは聖女の進む道を助け、導く存在であると聞いている。
臨時とはいえ、アルバは名目上は彼女の騎士。
( やってやろうじゃないか! )って、呑気な自分には似つかわしくない熱い想いが腹から沸き起こる…ような気がした。
ところがである。
ふと、あれ?って思い立った。
それは、サーシャの目的やら目標の中に、とある人物の話がまるで出てこない事だ。
そう、さっきから師匠なる人物の話が一切ないのだ。それはとてもおかしいことだ。
なぜなら、サーシャは生き別れた”師匠”なる自分の騎士を探す為に旅をしている…って、いうのがアルバの予想だったからだ。
だから、サーシャが彼のことを旅の目的にあげないのはとても不思議。
ぶっちゃけアルバにしてみれば歴史書がこの世に無い事より、そちらの方が興味津々だった。
「その…歴史探求の合間に、師匠さんを探すんですか?」
アルバはふとそんな事を口にしてしまった。
「師匠…ですか?」
「うん、師匠さん。」
アルバは無理やり微笑みを作った。
とっても引きつった表情だったろう…って自分でも思った。そしてそれは仕方のない事だとも。
若干興味を持ってしまった女性の、愛する男の話なんて本当は聞きたくはない。だけど、師匠が彼女にとってどんな存在であるかは、やはり気になる。もしかしたら、アルバの勝手な思い込みで、実は彼はサーシャの恋人とかではなく、教会の先生とかかもしれないし…なんて自分に甘い考えも頭を過ぎる。
まぁ、そこらへんがハッキリしないので、どうにも自分はモヤモヤしっぱなしなのだ。
だけど、聞いてみたいのだけど…聞きたくないっていう複雑な想いもある。
まぁ…今日は、記念すべき旅立ちの日。
本当ならばこの話題は遠慮願いたい筈なのに…ついつい口に出してしまったのだ。
そして言った事をに激しく後悔しだす…。
だけど一度口にしてしまえば、手紙じゃないから消せない…。
アルバは覚悟を決めて、恐る恐る彼女の答えを待つことにした。
するとサーシャは予想通り、眉を潜め眉間にはその美しいお顔にはとても似合わない皺まで寄せている。
云々、とても困惑したような表情を見せていたのだ。
「………。」
彼女は暫くの間、考え込む様に押し黙ってしまった。
前もそうだったが、師匠の話をするとき、とても言葉を選んでいるように感じられる。この時も指を美しい顎に添えるばかりで、話しだすのに少々、時がいた。
「師匠は…貴方と旅をしていれば必ず会えます。だから心配はしてないのです。」
…やっと口にした言葉は、まるで謎かけのような言葉だった。
俺と旅していれば…?って、どういう事なんだろうって困惑する。
もしかして師匠なる人物はとってもヤキモチ焼きで、サーシャの側に男が近づいたと知ると、怒り狂って襲いにくるのだろうか…それはできれば勘弁してほしい…。
だがそれ以上、サーシャに師匠の事は聞けなかったし、彼女もしてこなかった。
モヤモヤは募るけど…すごく中途半端で消化不良な事は否めないけど…この曖昧な関係だからこそ、へんなバランスで2人は保っているような気がした。
そして何より、その中途半端が、今は心地よかったのだ。
アルバとサーシャが、ルンの中央街についたのは午前10時をまわった頃だった。
今日は天候が良く、全ての道が白い石畳で作られている”中央通り”は、商売人や石や鉄などの資源を運ぶ人々や馬車で溢れかえっていた。
あまり高い建物がない中央通りは大きく開け、顔を少し上にあげれば薄水色の冬空が広がっているのだけど、まるでアリの行軍のように地面を覆い尽くした人の群れは、どうにも息苦しい。
「ここの街は本当に賑やかですよね。」
やがてサーシャが、砂煙をあげ喧騒に包まれるこの街の様子を見てながら呆れ気味にそう口にした。
「はい。…ですが、いつもより人が多い気がします…。」
「お祭りでもあるのかしら…。」
「う〜ん、この真冬にお祭りなんて知らないなぁ…。」
アルバはそう苦笑いを浮かべながら、キョロキョロと辺りを窺う。
昨日も感じた事だが、何やら兵士の姿がチラホラと目につく。ここザグレア地方の街に雇われている正規兵は藍色の鎧をつけているのだが、この中央通りに溢れているには、粗末な皮の鎧や下手をすると普通の旅人の服装に槍や剣をもつ程度の軽装兵士の数がやたら多い。おそらく彼らは臨時に金で雇われた傭兵なのだろう…。
そしてその兵士たちが進む方向とは逆流している荷駄を運んでいる馬車も多かった。
( なんか変だな…。 ) アルバはそのいつもとは違う街の様子に目を細めたが、悲しいかな最下層の庶民である彼がどれだけ気にしても情報は入ってこないし、何がどう変わるでもない。
「サーシャ。とりあえずダニエロ叔母さんの所に行きますが…いいですか?」
アルバはとりあえず街の不可解な状況はひとまず置いておいて、彼女へそう声をかけた。まぁ、後にも先にも金を預けてあるダニエロ叔母さんの所へ行かなくてはならない。
「はい。勿論です。私は騎士様の行きたい場所について行くだけでございます。」
昨日と変わらない何とも甘い言葉がサーシャから届く。
アルバは苦笑いを浮かべながら側道を抜け、いよいよ大混雑の中央通りに入ろうとすると、彼女は上目遣いでこちらを見てそっと腕を掴んできた。
「こんな人混みでは私は迷子になってしまいます。お手を、お借りしてもいいですか。」
「あっ、はい。気づかないですいません。」
アルバは申し訳なさそうに頭を掻きながら、そっと彼女の前に手を差し出した。そういえば、道が混んでいる時や険しい山道の時には、彼女は必ず手を繋ぎたがる。
「騎士様、ありがとう。」
掲げられた手を見たサーシャは、そう言いながら嬉しそうな表情を浮かべ、そっと自分の手を掴む。
寒空だというのに、彼女の手からは優しいぬくもりが届く。アルバは申し訳なさそうにそっと彼女の手を包むがサーシャはすぐに5本全ての指を絡めてきて、やがてギュって握った。
「ふふっ。これで安心です。…さぁ、参りましょう。」
「は、はい。」
ほんとね、彼女の溢れる様な笑みを見てしまうと、慌てながら返事をするのでやっとだ。
もう今日で3日目だというのに、全く彼女に慣れない。このままでは心の臓が潰れてしまうんじゃないかってくらい、ずっと激しく打ちっぱなしだ。
昨晩だってずっと手を繋いでいたはずなのに、今日また初めて手を繋いだような錯覚に陥る。
それほど彼女と手を繋ぐということは、心地よくて、優しくて…そして何故か沸き立つ心までご丁寧に感じさせてくれるので、どうにも恥ずかしいのかも知れない。
( 早く…慣れるといいけど…。 )って、必死に心を落ちるかせる…。
じゃないと、本当にいつか心臓が破裂するか、どこかの血管が破裂しそうなくらいだ。
でもそれは、決して嫌とか困るとか、そういうもんじゃない。
ただただ、嬉しくてワクワクして心臓がバクバクしてしまうのだ。
( ふう。 )
って、アルバは小さく深呼吸して少し間を置いた。そしてなるべくサーシャの顔を見ない様にする。すると、ようやく彼女にぬくもりと肌触りが手に馴染んできたのか、兎にも角にもアルバはようやく歩き始めることが出来たのだった。
大混雑の中央通り。
彼は昨日と同じように、彼女の手を引きながらあらゆる方向から迫ってくる人の波をかき分け、お金を預けてある叔母のダニエロの店へと進む。彼女を庇いながら、少しだけ堂々と。
中央通りを、まるでダンスを披露する様に右へ左へとステップを踏みながら器用に人や馬車を避ける。結構激しい動きなんだけど、彼に続くサーシャは、後ろできゃっきゃっ言いながらも楽しそうだ。この御仁、見た目がお姫様なのに、知れば知るほどアグレッシブで行動派。
そしてそんなサーシャの手を引くアルバは、嬉しそうにチラチラと彼女を振り返る。まるで、彼女を導いている様で、それでいて彼女も精一杯自分についてきてくれる様で何ともそれが心地良かった。
話しているだけで、楽しくて、幸せで。
彼女といると時があっという間に過ぎていく。
やがて、鉄釜をデザインしたダニエロの店の看板が目に入ってきた。
それは、ワラミ村から叔母の店までの片道3時間…そんな気の遠くなる様な長い時も、流れる様に過ぎてしまったって事だ。
「サーシャ、叔母さんをちゃんと紹介します。」
店の看板が見えるとアルバは歩くスピードを緩め、そう彼女に話しかけた。一昨日も叔母とサーシャは会ったのだけど、あの時は金に目が眩んだ叔母がサーシャから金を受け取ると上機嫌で店の中へと入っていってしまい、ろくに挨拶も出来ていない。
「はい。…でも、少し緊張しますわ。」
サーシャの顔が珍しく不安そうだった。
「へっ?何でですか?」
「だって、叔母様は貴方の母親がわりでいらっしゃるのでしょう?息子を奪うみたいで…怒られないかしら…。」
「いやいや。きっと、喜びます。食い扶持が一人減るって!」
アルバはそう言って、本気の様な…それでいて照れ臭そうな苦笑いを浮かべた。まぁ、若干素直じゃない捻くれたダニエロは、きっとサーシャの提案に面食らい、文句の一つも言う事だろう。
だけど最後にはきっと笑顔で送り出してくれるはずだって思っていたりもする。なにせ彼女は口は悪いが、心根はとても優しい女性だからだ。
「それなら、いいのですけど…。」って、サーシャが苦笑いを浮かべたと時、2人は一昨日出会った場所であるダニエロの店に着いたのだった。
ダニエロの店は、豊かなルンの街の中でも特に栄えている中央通り沿いにある。
鉄の装飾品を扱うお店として、敷地はそれほど大きくはないが漆喰の白壁の四角い建物はそこそこ立派で、客が途絶えることなどほとんどない。店先には、主に金持ち向けの飾り物や兵士の鎧につける装飾品などがずらりと並んでいて、叔母は生活が苦しいなんて言っていたけど、実はまずまず儲かっているのではないか…ってアルバは思っている。
まぁ、食べ物を分けてくれたり、少額ながらお小遣いだって頂戴致してたし…。
ところがである。
「あれ?なんでだ…。」
彼女の店先にたどり着いたアルバは目を丸くした。
サーシャも自分の横で、顔を擡げ言葉なく目を見開いている。
店が…閉じられていたのだ。
そう、いつもは店先には鉄の装飾品があふれんばかりに置いてあるのに、今は大きな木の板で固く閉ざされていて、見上げれば住居である二階の窓も板がはめ込まれ、なにやら人の気配が全くしない。
「叔母さん…風邪とか引いて寝込んじゃったのかな…。」
アルバは唖然としながらそう心配そうに漏らすと、店と店の間にある狭い通路を抜けそのまま小走りで店の裏口へと向かう。サーシャも無言で彼の後へと続く…だけどなにやら彼女の顔は思いつめた様に沈んでいた。
2人はところどころ雑草が生えた建物の横道を半身になりながら器用に抜け、鍵のかかっていない年代物の鉄格子を潜ると、芝生が敷き詰めてある家の裏庭へと出た。
だが…やはり、人の気配はない。
「………どうしたんだろう。」
アルバが怪訝そうに、いつもは鍵がかかっている裏扉のドアノブに手をかける。
ところが次の瞬間、彼の口から「えっ?」って言う、驚きの声が漏れた。
なぜなら彼が力を入れなくても、ただそれだけで裏口の扉はギギギッって鈍い音を立てながらゆっくりと開いてしまったからだ。
( ま、まさか、強盗!? )
アルバは、一気に背筋が凍るのを感じた。
だが、怯んでいる場合ではない。
彼は一度胸に手を当て、大きく息を吸い込む。
( 叔母さん、頼む!無事でいてくれ! )
そう心に願いながら、腰に下げた聖剣の柄に手をかけて、ゆっくりと家の中へと侵入する。
恐怖で足が震えるのを気持ちで抑え、壁に背をつけながらすり足で用心深く…。
やがて、裏口からの狭く暗い通路を抜けると、この家で一番大きい空間である店の棚置き場に出た。そこは普段なら、所狭しと売り物である鉄の装飾品が並び、一段上の壇上では叔母のダニエロが不機嫌そうに鎮座している場所。
最初、その場所は店先の戸が閉められている事もあって暗かった。
だが、だんだんと彼の目が暗闇に慣れてきて、辺りの様子がぼんやりと浮かんでくる。
「な、なんだ、これ…。」
アルバは目の前に広がるその不可解な光景に唖然としながら、そう漏らした。
墨と灰色、そして微かに漏れる青白い光だけの世界…つまり、なにもなかったのだ。
完全なもぬけの殻…商品どころか生活を感じるもの一切が全て失われていて、ぽっかりと空間だけが目に飛び込んできたのだ。
「アルバ…。」
呆然と立ち尽くす彼の後ろから、サーシャの悲痛とも取れる悲しげな声が漏れる。
だが彼はそんな彼女に答える事なく、店の奥にひっそりとあった階段へと走る。
( 2階だ…2階に叔母さんはきっといるはずだ。 ) アルバはそう心で信じて、薄暗い階段を一目散に登っていく。なにせ勝手知ったる叔母の家。少々暗くても、何てことはない。
……ただ、彼のそんな願いは届かなかった。
叔母の生活の場である2階も、結局はもぬけの殻だったのだ。
アルバが2階から戻ってきたのは、それから半刻ほど経った頃だった。
トン……トン……トン、って、階段をゆっくりとしたリズムで降りてきた。
「アルバ…。」
階段下で待っていたサーシャが心配そうに目を細め、彼の顔を伺う。
なにせ、ここは暗がりの中、かなり近づかないと表情など読み取れない。
やがて彼がど踊り場に足をかけた時、彼女はようやくアルバの顔を見ることができた。
「サーシャ…ごめん。待った?」
そう答えた彼は微かに笑みを浮かべたが、やはり目は虚ろ。そして声には張りがなく、小さい。…目は赤く充血してしまっている。
…それは、そうなってしまうだろう…。
なにせ彼は、たった一人の肉親に裏切られ、金を持ち逃げされたのだから…。
その事はサーシャでも、すぐにピンときた。証拠なんてものはないのだけど、この状況では九分九厘間違いがない。
生活品どころか、商品まで処分されているのだ。完全に計画的な逃亡だ。
「二階にも…叔母さん、いなかった。」
やがてアルバはそう言って、顔を俯かせながら頭を掻いた。
「そう…。」
「まったく…どこに行っちゃったのかな…。勝手なんだから、もう…。」
ちょっと悲しい戯け方だ。
やがて彼ゆっくりと顔をあげた。
それを見たサーシャは思わず息を飲む…なぜなら彼の目に涙が潤んでいたからだ。
それは、彼自身が口に出した言葉とは違い、頭ではちゃんと真実を知っている何よりの証拠…。
世界にたった一人しかいない、血の繋がった叔母の裏切り…。
そのショックは測りきれないものだろう。
サーシャはすっかり気落ちした彼のそばにゆっくりと寄り添い顔を覗き込むと、いつものように溢れんばかりの笑みを浮かべた。
「…さぁ、アルバ。行きましょう。」
「…う、うん。」
虚脱した顔で、そう答えるアルバ。
ここから早く出たい気持ちはあるのだけど、中々に足が動かなかった。
全身にもたれかかってくる虚脱感があまりにも大きいためだ。
「大丈夫、大丈夫です。」
サーシャは慰めるように、彼の丸まった背中を何度も何度も摩った。
「サーシャ…。」
「なんですか?」
「叔母さん、どこかで元気でいるといいなぁ…。」
サーシャに半身を抱きとめられ立ち尽くしたアルバが、ふとそう漏らす。それは…如何にも人がいいアルバらしい言葉だった。
彼女は、自分も熱いものが込み上げたのか、やがて白く細い指をそっと目の下に添えた。
「…大丈夫です。アルバの叔母さんですもの。」
何かの思いを押し殺すように、そう漏らす。
「うん…。」
「今度会えた時は、きちんと私を紹介してくださいね。」
そう言った黄金色の髪の生きた女神は、いつまでも彼を元気付けたのだった。




