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其の弐 : 【死亡動機 ④】

 どう見ても校門、をくぐり、どう見てもグラウンド、を突っ切り、やはりどう見ても正面玄関、を入ると、景色が一変した。

 まさく温泉旅館のそれなのだ。

 細く長い板張りの廊下が、奥のほうまでずっと伸びている。窓はなく、等間隔で扉が続いていた。

 唖然とする秋尋の脇を、トトキが追い抜いていく。

「まずは、壱ノ湯へご案内します」

 先導するトトキは、廊下の突き当たりにある黒い扉を開けた。たちまち湯気が立ちこめ、一行を包み込む。

「壱ノ湯は、皆さんの魂の損傷を治します。そのままの格好で構いませんので、とりあえず湯船に浸かってください。ほら、あなたも」

 背中を押された秋尋は、ためらいつつも、服も靴もそのまま、湯船へと向かった。

 湯は、真っ黒だった。濁っているという次元ではない。ほんとうに、黒い。いくつかの寒椿が浮かべてあり、それがやけに瑞々しく、また、毒々しい。

 浴槽は広く、十数人の死者たちが一度に入浴しても問題なさそうだ。湯加減を確かめようと手を伸ばしたが、水に触れた感触はなかった。すくいあげようとしても、するりと手の中から逃げてしまう。それでも、ほのかに温かいことがわかる。

 浴槽には、立ったまま入る。温かな湯気に包まれ、ふ、と息を吐いた。

 立ちこめる湯気は、まるで、煙のようだ。きっとそうなのだ。お焼香の煙であり、火葬場の煙突から棚引く煙なのだ。

「湯加減はどうだった?」

 壱ノ湯を出た秋尋を、トトキが出迎える。

「悪くなかった」

「それは良かった。体ももう痛くないだろう」

 云われてみれば、折れていたはずの骨も、腫れていた目蓋も、元のように戻っている。

「元々魂は、瑕ひとつついていない、まっさらなものなんだ。だけど、体をまとうと、体も心も、様々な傷を負うだろう。すると、魂にも瑕がついたと思い込んでしまうんだ。死者たちはその記憶を引きずったままでいる。その勘違いをひとつひとつ取り除いていくのが、ここにある湯なんだよ」

「はぁ、勘違い」

「そう。体が痛いと思うのも、心が痛いと思うのも、ぜんぶ、気のせい。さ、部屋に案内するよ」

 渡り廊下を歩いて案内されたのは、危うく通り過ぎそうになるほど小さな扉の向こうにある、狭い和室だった。大人が三人も入れば身動きがとれなくなる。イグサと線香の匂いが強く漂っている。かたい畳の上に、じかに体を寝かせるよう指示される。

「寒い」

「気のせいだよ。魂は寒さなんて感じない。もっとも、現世にある肉体が、大量に出血して危険な状態にあるのかもしれないけど」

 などと笑いながら、毛布を放って投げてきた。秋尋は毛布にくるまり、体を横たえた。何も無いよりはマシだった。

「そういえば、魂も、寝るんだな」

「眠いと思えばね。此岸に戻るつもりでいるのなら、これまでの生活をなるべく変えないほうがいいだろう。ぼくは寝る必要が無いから、ここで名簿の確認をしているけど。明るくても大丈夫?」

「ああ」

 秋尋が頷くのを見届け、トトキは秋尋に背を向ける形で、壁際の文机の前に正座した。

 室内には、蝋燭のやわらかな光だけが広がる。毛布の手触りはなめらかで、乱暴に投げて寄越したにしては、良いものなのだろう。

 秋尋は、いつもそうしているように、頭まですっぽり毛布をかぶって、胎児のように丸まって目をつぶった。

「変わった寝方をするね」

 からかう、というより、確認するような云い方だった。

 秋尋は短く返す。

「ガキのころから、ひとりで、寝ることが多かったから」

 父は、家を建てて間もなく、違う女性のもとへ行ってしまった。子どもにとっては広すぎる一軒家だけが残され、夜の仕事に出かける母が、添い寝してくれることもなかった。

〈怖いもの〉が来ないよう、おまじないを呟きながら、祈りながら、震えながら、体を丸くして、眠った。ずっと、そうしてきた。

「――秋尋さん。きょうは、悪かったね。迷惑とか、考えなしとか、厳しいことを云って」

「なんだよ? 改まって」

 毛布から、ちらりと顔を出す。背を向けたまま、トトキはためらいがちに続けた。

「実は、八つ当たりに近いんだ。ここ数年、きみみたいに若い人が多くやってくるようになったのを目の当たりにしていてね。理由を訊いてみれば、自殺だと云うんだ。ねっとで誹謗中傷を受けたとか、金を要求されたとか、無視されたとか。自分でどうにかしようと思わなかったのかと訊くと、そんなの無理だと疲れた笑いかたをする。死を逃げ道にしているんだよ。ぼくはなにも、自死を否定するわけじゃない。ぼくがまだ生きていたときにも、自殺した人はいたし、生まれた以上、誰にでも平等に与えられた逃げ道であり、切り札でもある。権利と呼んでもいいだろう。だけれど、あまりにも安易に切り札を使う人が増えている。権利ばかりを主張して、乱用しているんだ。老婆心から云わせてもらえば、そうじゃないだろう、生まれたからには、生きる義務あるはずだろう、そう云いたくなる」

 トトキは、はっとしたように口を閉ざした。

 自分の言葉に、思いのほか熱がこもっていたことを恥じ入るように、ぽつりと、呟く。

「ぼくは、お節介かな」

 秋尋は、首を振る。

「……いや。いいや、いいや、トトキ。あんたは、間違っていない」

「でも、きみに八つ当たりしたのは筋違いだった。きみはただ、友人を迎えに行きたいだけなのに、頭ごなしに叱責されたら、いやなものだよね」

 毛布を目深にかぶった秋尋は、声を震わせ、鼻をすすった。

「俺だって、例外じゃない。同じなんだ。ほんとうは、現実から、逃げたかったんだ」

 ――死にたいんだろう? そう問いかけてきた、青衣の声。ほんとうは、その言葉に、すがりつきたくなった。大声で泣きたくなった。

「トトキ、ごめんなさい。俺、嘘をついた」

 ほんとうは、死にたかったのは、自分のほうなのだ。



 昨日は、身を切られるような、凍えた夜だった。俺は、神社の橋の上から、ごうごうとうなる濁流を眺めていた。青衣を探すという口実で家を出てから、ずっとここにいて、そうしている。

 人影の消えた町並みに、自分の息遣いだけが、なにかの合図のように響いている。

 空だけがやけにきれいで、満月と、満天の星は、外野席の観客みたいに、にやにやと笑いながら、俺を眺めていた。

「…………あきひろ?」

 小さい声で、名前を呼ばれた。びっくりした。すぐ近くの鳥居の下に、青衣がいたのだ。こちらを見ている。

「あお、い。おまえ…なに、してんだよ」

 声は、自然と、からかうような口調になっていた。

「遺書残していなくなったっていうから、探してたんだよ。いい迷惑だ」

 青衣は何も云わず、雪を踏みしめながら、こちらへ近づいてくる。俺は、後ずさりする。

「みんな大騒ぎ。パトカーは三台も来ていたし、お袋さんはずっと泣きっぱなし。親父さんの会社の社員も総出で探してくれて」

 青衣が、すぐ傍らにやってくる。青衣の円い眼は、いつもよりずっと澄み渡り、俺の顔をはっきりと映し出す。鏡みたいに。

「ふざけるなよ、みんなを心配させて。おまえ、なにをしでかしたのか、わかって、」

 青衣に手首を掴まれる。青衣の手が暖かい分、自分の手の冷たさに気付く。

「秋尋。いま、なに、しようとしていた?」

「な、なにも」

「いま、なにをしようとしていた?」

 強く、問われる。

 俺は、答えなかった。

 風が吹いてきた。奇妙に生暖かい風が。

 その風が、ぴたりとやんだ。

 そして、あの、声がした。

「死にたいんだろう。だったら、おれが連れて行ってやる。――ふたりなら、怖くはないだろう?」

 凄まじい力で、下のほうに引っ張られる。

 ぎしっと橋が鳴った。

 だって、下は――。

 あっと思った瞬間に、俺と青衣の体は宙へ放り出された。水の音。水の気配。暗闇の中で、てらてらとうねる濁流。

 怖くなって、目をつぶった。

 あぁ、俺、死ぬんだ。俺がそう望んだとおりに。


「俺、死にたかったんです。ほんとうは」

 胸に去来するのは。

 合格発表のときの、あの、掲示板の前での、屈辱感と、無力感。

「俺、落ちたんです。第一志望の英徳に落ちたんです」

 あのとき。目をこすり、何度も何度も、番号を確認した。前後の番号は、載っていた。その間に挟まっているはずの、自分の番号だけが、抜けていた。空白だった。必死に探した。そんなことあるはずないのに、自分の受験番号が、浮かび上がってくるんじゃないかと、凝視した。

「試験のとき、自分でも、いけるって手応えがあっただけに、落ちたことが、悔しくて。模試の成績が俺よりも下だった一紗が、となりで嬉しそうに飛び跳ねていた姿が、どうしようもなく憎くて。どうだった、と訊かれて、それに答えなくちゃいけない自分が、情けなくて。逃げたいと思ったんです。死にたいと思ったんです。なによりも憂鬱だったのは、仕事を休んで、赤飯を炊いて待っている母親に、不合格を伝えなくちゃいけないことでした。だから、あの日、青衣が『遺書』を残して失踪したと聞いて、俺は、心のどこかで、安堵したんです。母親に、すぐには結果を伝えなくても良かったんですから」

 なにも見たくない、聞きたくない、恥ずかしい、逃げたい。このままどこかへ消えてしまいたい。そんな想いでいたところに、青衣が口にしていたという「死後の世界」という言葉は、不思議な魅力をもたらした。

 逃げたい。だったら、死んで、あの世に逃げればいい。

 そんな数式が自分のなかで出来上がり、膨らんだ。

 死にたかった。そして逃げたかった。受験に失敗したという現実から。見返せなかった世間の冷たい眼差しから。母親が浮かべるであろう失意の目から。

 逃げ込めるのなら、どこでも良かった。

「そう」

 トトキは正座を崩さず、頷く。

「青衣という人が、神社で飛び降りそうな勢いだった、というのが嘘だね。本当は、きみがそうしようとしていた、と」

「はい」

「じゃあ、青衣という人を見つける、というのは?」

「……半分は、本心です。青衣が自らの意思で死のうとしたのか確かめたい、それは事実です。ふだんの青衣はそういう奴じゃない。俺が自殺なんてしようものなら、迷わず拳を喰らわせてくるような奴です。一緒に死ぬなんて、云うはずない。だから、もし、青衣の意思ではないことに、俺が巻き込んでしまったとしたら、俺には、青衣を生き返らせる義務がある。俺はどうなってもいい。だから、俺は、」

「――秋尋さん」

 ぽん、と頭に手が置かれる。

 トトキの薄い唇からは、少しかすれた、老人のような優しい声が降ってきた。

「死を願ったあなたの体が、まだ息をしているのは、生きてやり直せ、という啓示なのかもしれない。生きている限り、挽回の機会はいくらでもある。なにも十五歳で、人生の合否を自分で決めることなんてない」

「トトキ、でも、俺」

「うん、もういいから、おやすみ。明日からまた、頑張ればいいさ」

 トトキは見回りに行くと云って立ち上がり、部屋を出て行った。

 ひとりにしてくれたのだ。

 あの人、ほんとうは何歳なんだ、と思いながら、秋尋は遠慮なく、泣いた。


 ――そして、また、あの夢を見た。

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