其の弐 : 【死亡動機 ③】
「トトキは、あの人たちと知り合いか?」
列車は心地よく揺れながら進んでいく。秋尋はトトキのとなりに腰掛けた。
「そういう親しい間柄じゃないよ」
吐き出された言葉は、淡々としたいつもの口調だ。
「シラヌイとアカガネは、黄泉ノ国のならず者。アカガネはただの出来損ないの獄卒だけど、あの人、シラヌイは、とても怖い人だよ。昔、此岸にいたころ相当な悪事を働いて、最下層の地獄に落ちたんだ。そこでは体を与えられる。苦痛を与えるためだけにね。体は幾度となく焼かれ、裂かれ、穿たれる。そして使いものにならなくなると、また新しい体を与えられ、同じ苦しみを受けさせられる。あるとき彼は、自分のものの他に体をひとつ盗んだ。そこに自身の記憶を植えつけ、地獄からの逃走をはかったんだ。逃走とは云っても、簡単じゃない。地獄の周囲にそそりたつ断崖絶壁を、千年かけて登ってきたんだ。すさまじい執念だろう。彼の魂はいまでも地獄で苦しみを受けている。だからここにいる彼には魂がない。だけど魂がない者はこの黄泉ノ国に長くは留まれない。だから喰うのさ。他者の魂を」
「俺には、そんな悪い人には見えなかったけど」
トトキは意味深な笑みを浮かべた。
「命拾いしたね。あぁ、逆かな。あのまま喰われていれば、楽になれたのに」
「……えーと」
笑っていいのか、わからなかった。
「実感がわかないみたいだね。でもまぁ、良かったじゃないか。九死に一生を得て。でも、これで終わりじゃないと思ったほうがいいよ。ここはもう、黄泉ノ国だから」
トトキの視線を追って、秋尋は窓の外に視線を向けた。夕暮れの光がやわらかく差し込んでくる。
「黄泉ノ国は、想像していたより、ずいぶん明るいところなんだな」
「それはそうだよ。〈鏡〉だもの」
「鏡? なんの」
云いかけた俺は、見覚えのある風景に、言葉を失った。
満開の桜並木。沿道の古びた商店。行き交う人々の顔にも、覚えがある。
知っている。憶えている。ここは、古乃原。秋尋の地元だ。
「なんで、戻って来てるんだ。もしかして、おまえが」
我を忘れてトトキに掴みかかろうとしていた秋尋は、その手を、ぱしりとトトキに跳ねのけられた。
「黄泉ノ国は十の街から成っている。この街は、死者を最初に受け入れる場所。だから、現世と同じつくりになっている。それこそ写し鏡のように。死者ひとりひとりの故郷に見えるはずだ。彼らが安心するようにね。故郷と同じ建物があり、同じ道が通っている。もちろん異なる点も多いけど」
死者にとって懐かしい故郷の街。
なぜ、そんなつくりになっているのだろう。
死者を安心させ、まるで、逃げ出すのを防ぐかのように。
「もうすぐこの列車は回送から通常の各駅停車に変わっている。最初の死者が乗り込んでくるから、ぼくは忙しくなる。その前に三つ、忠告しておくよ。まずひとつめ」
トトキは人差し指を立てる。
「ここで出される食べ物は口にしないこと。黄泉戸喫と云って、口にしたら最後、現世に戻れなくなるからね。魂だけの存在であるあなたは、空腹と思わない限り、腹は減らないはずだ」
列車は速度を落とし、確実に停車駅に向かっている。
「ふたつめ。現世から持ってきたものの一切を、この国の住民と交換しないこと。それは生死の交換を意味する。たとえば衣服をすり替えられたからと云って、それを使ってはいけないよ。「自分のものではない」と認識しながらそれを使用することは、生死を交換することと同じだ。みんな、あわよくば現世に戻ろうとしている輩だからね、用心することだ」
駅舎が見えてきた。
「みっつめ。すべてを疑え。目の前にいる人物でさえ、信じるな」
列車が停まった。
開け放たれた扉の向こうから、やわらかな風が吹き込んでくる。けれど、だれひとりとして、乗り込む客はいない。それどころか、プラットフォームには、人影もない。
列車は一分ほど停車したあと、扉を閉めた。
結局、車内に乗り込んだのは、風だけだ。
「どういうことだ? だれも」
答えを求めてトトキを見つめたが、トトキは広げた鬼籍に視線を落とし、手元の万年筆を走らせている。
戸惑う秋尋の頬を、スッと冷たい風がよぎった。となりの濃紫の座席が、わずかに軋む。
いま、なにかが、座った。
秋尋は改めて、無人の列車内を丹念に見渡した。
車窓から差し込む光と影がある。さながら影絵のようだ。その模様は実に多彩で、横縞、縦縞、直線、曲線、ストライプ、ホーダー、様々だ。それらを受けて、ちらちらと反射するものがある。人間の頬や、手のひらや、指先に見えるものだ。
たしかに、乗客はいる。
何十人、いや、何百人と。
列車内は、静かだ。けれど、通夜のように、気まずいだけの沈黙とは違う。
あたたかい。
春の日溜まりのような、あたたかさだ。
ふいに、一紗の明るい声がよみがえってきた。
――春になって、桜が満開になったら、三人揃って、写真を撮りたいね。
現世の古乃原では、まだやっと梅の蕾が膨らみはじめたばかりだ。
秋尋は目を閉じる。
「元気かな、あいつ」
なぜだろう。いま、無性に、一紗の笑顔が見たかった。声が聴きたかった。
ほどなくして、列車は次の駅に到着した。
「はい、ここで降りますよ。降車口は列車の前方です。押さないで、順番にね」
トトキは秋尋に目配せした。
秋尋は云わんとしていることを察し、立ち上がって、ちらちらと光る群れの最後尾についた。
何気なく振り返った車内に、白い、ハンカチのようなものが落ちている。
「落し物か?」
車内にひとり戻り、それ、に手を伸ばす。
「むにっ?」
ありえない、やわらかな感触。
手に取ったものを改めて視界に入れると、ハンカチだと思ったものは、大きな白い鼠だった。
「うわ、ねずみッ、しかもデカッ、重ッ」
あやうく取り落としそうになりながら、秋尋は両手でそれを支えた。鏡餅のように白く、でっぷりとした体格である。くわえて、ずしりと重い。
「なんだ、こいつ」
呆気にとられて眺めていると、目をつぶっていた鼠が、朱い眼を開いた。秋尋の姿を視界に入れ、小さく鳴く。
「どーして」
「ん、どうして?」
この国の生き物は喋るのだろうか、と目を細めながら、秋尋は鼠の声に耳をすませた。
「どーして、どーして、どーして」
鼠が話す言葉はそれひとつだけのようだった。幼い子どもが、目に映るものすべてを疑問に思い、しきりに親に問いかけるように。
「秋尋さん、早く降りて」
背中に声をかけられる。頷いた秋尋が慌ててきびすを返すと、鼠は体格に似合わない機敏な動きで秋尋にしがみついた。短い脚で服の皺を足がかりに肩までよじのぼると、転がり落ちるようにして、秋尋が着ていたパーカーのフードの中に収まった。
「どうかしたの?」
電車を降りた秋尋は、トトキにフードの中の白い塊を指し示した。
「穢鼠だね。ずいぶん肥えているけど、彼岸会を前に、畜生界から迷い込んできたのかな」
「ヒガンエって?」
「もうすぐ春の彼岸だろう。現世である此岸と彼岸が近づく日。その日には、七つに分かれた別々の世界も近付いてくるんだ。まぁ、実際に見たほうが早いよ」
「それで、俺は、こいつをどうしたらいいのかな?」
「好きにしたらいい。たぶん、害はないよ」
なんとなく気になり、秋尋はフードの中から白い塊を取り出した。感触は、つきたての餅のようにやわらかい。白い短毛は撫でる方向に向きを変え、吸い付くような肌触りだ。
「そういえば、昔、ハムスターを飼っていたことがある。色や大きさは全然違うけど、なんとなく、そいつに似てる。ずいぶん前に死んじゃったけど」
ひとりで留守番をすることの多い秋尋に、近所の人が譲ってくれたものだった。小さくて、可愛くて、とても大切にしていた。
大切にしていた。ほんとうに。
鼠が目を開ける。そして、鳴いた。
「どーして」
どうして。
どうしてだよ、秋尋。
一瞬、頭の中が、真っ白になる。
「秋尋さん?」
肩を揺すられて、秋尋は瞬きした。
「あ、わるい。へーき」
鼠はまた眠ってしまった。秋尋はそれをフードの中に戻し、トトキのあとをついて歩き出す。
駅を出る前に、トトキは白張提灯に火をつけた。和紙を張っただけの、なんの装飾もない提灯だ。その表面に、薄墨で『祝』と書き入れる。
「秋尋さん。ぼくが持つこの提灯の灯りが届く範囲を歩くんだよ。いいね」
見覚えのある駅舎を出て、細い路地に入ったときには、日没を迎えていた。
建物の黒いシルエットだけが浮かび上がる。
路地には、点々と石灯籠が並べられていた。軒下には、釣灯篭もある。
灯篭の中で揺らめく蝋燭の光をトーチのように掲げて、秋尋と死者の群れが歩いていく。
秋尋はふとなにかの気配を察して、振り返った。暗幕を引いたような路地には、誰の姿もないのだが、灯篭の灯りを遮るようにして、影が横切る。
「トトキ。なんか、ついてきてる」
吐息交じりに、秋尋は囁いた。
「なんとなくだけど、黒い服を着た、痩せた爺さんたちに見える」
確認のため振り返ろうとする秋尋を、トトキが制した。
「餓鬼だよ。彼らも魂を喰う。死んだばかりの魂は極上の味がするらしいからね、こうしてあとをついてまわり、列からはぐれる魂を待っているんだ」
トトキは手にしていた提灯を揺らした。
「祝と書かれたこの提灯は、結界のように、ぼくらを守ってくれる。暗闇に生きる餓鬼にとっては、太陽のように眩しいものなんだ。だからこの光の中にいれば、奴らはぼくらを襲えない」
「そうなのか」
「だからといって、身の安全が保障されたわけではないよ。奴らとは目を合わせないほうがいい。魂に干渉して、引きずり込もうとするから」
そう云って早足になったトトキを、秋尋は必死で追いかけた。
「それにしても、秋尋さんは『力』が強いんだね。塵のように朧な餓鬼の存在に気付いた人なんて、いままでいないよ。霊力ってものは、魂というより、宿った肉体に付随しているほうが多いから。あなたは違う。そもそもの魂の力が強いんだ。そんなに強いと、いろいろ不便もあったんじゃない?」
俗に云う心霊現象のことを思い出し、秋尋はぶるりと体を震わせた。
「まぁ、な。いろいろ。見たくないものは、いっぱい、見た。それに、目をつぶってても、足音がするんだ。すぐ耳元で。笑い声も。マジで怖いし」
トトキはふぅん、と軽く頷いたあと、聞こえるか聞こえないかくらいの声で、呟いた。
「……後継者にしてみても、いいかな」
「ん? いま、なんて? なにを試すって?」
「あはは。地獄耳だね。さて、先を急ごう」
駆け足になるトトキを、秋尋は追いかける。
「いま、話をそらしただろう」と叫びながら。
古乃原は、城下町だったという歴史もあり、民家が密集し、狭い路地が血管のように張り巡らされている。祖先は他の地域からやってきた開拓民で、住民それぞれが、自分に都合よく道を整え、舗装した結果、地元の秋尋でさえ、ひとつ道を間違えれば、見知らぬ家の庭先へ出てしまうほど、複雑な街並みをしている。
そんな街並みを、死者の列は進んでいく。
一行は、秋尋の自宅の近くを通りかかった。母子ふたりには広すぎる二階建ての一軒家だ。離婚した父が残していった。
当然のことながら、家の明かりはついていない。真っ暗な闇と同化して、沈黙するだけだ。
幼いころは、この真っ暗な家に帰るのが、イヤでイヤでたまらなかった。母はいつも昼過ぎには出掛けて、そのまま翌朝まで戻らない。
待つ人がいない秋尋は、学校が終わると、青衣や一紗の家に長居して、そのまま夕食をご馳走になることが多かった。事情を承知している親たちは、泊まっていけと勧めてくれるが、秋尋が頷いたことはなかった。いつだって、暗くて冷たくて怖いこの家に、震えながら、帰った。
だって、自分が帰らなければ、翌朝帰ってくる母親が、ひとりぼっちで、淋しい想いをすると思っていたからだ。
それに、母親に会える時間は、朝しかなかった。その瞬間を迎えるためだけに、長い夜を耐えたのだ。
「母さん、まだ、泣いているかな」
秋尋の独り言に、トトキはなにも応えなかった。秋尋も、答えを求めなかった。トトキに訊かなくても、わかっていることだ。
「はい。到着しました。ここが、皆さんの本日の宿です」
辿り着いた『宿』を、秋尋は見たことがあった。一度だけ、中を訪れたこともあった。ほんの数週間前に。
「ここって――英徳高校、だよな」
古く、歴史ある校舎に、死者たちが次々と吸い込まれていく。
「きみには、そう見えるんだね。病院や温泉旅館に見える人が多いけど。いつだったか、ここは火葬場じゃないか、と嬉々として云っていた人もいたね。その人は、自分の遺体が焼かれる様を見たいと思っていたらしい」
「つまり?」
「ここは、きみが一番来たかった場所、のはずだよ。心当たり、あるだろう」
トトキは意地悪そうな目つきになった。