其の弐 : 【死亡動機 ②】
――単純な、黒。
黒。黒。黒。
たぶんそれ以外の色はここにはない。
秋尋は、目を開けているつもりだった。足を開き、肩を張り、手指を動かしているつもりだった。
だけれど、見えない。開いているはずの目には、なにも映らない。それほどまでに暗く、光源がなにひとつない場所だった。
動いているのか確かめようもない手足の感覚はしだいに麻痺して、自分の体が「ある」のか「ない」のかわからなくなる。
生きている気が、まるでしない。きっと、臨終とはこういう感覚なのだろう。
自分を包んでいた「生」という光が消え、「死」という闇の存在に気付くこと。そして、「あぁ、死んだんだ」という実感にかわること。それが死。
『死にたいんだろう』
ふいに、誰かに問いかけられる。体の奥底に、するりと入り込んでくるような声だった。
『死にたいんだろう』
体の中で、幾重にも、反響する。
それは、青衣の声だった。
神社の橋から飛び降りる直前、青衣が口にした言葉だった。
『死にたいんだろう。だったら、おれが連れて行ってやる。――ふたりなら、怖くはないだろう?』
「あぁ、あぁそうさ。死にたいと思った」
秋尋はそう呟いた。
なにも見えなかったはずの目に、過去のある光景が浮かんだ。
合格発表の掲示板だ。多くの受験生がその前に群がり、歓喜の声を上げている。
秋尋は、探す。自分の番号を。必死に。
だけれど。
見つからない。
「……くそっ」
役に立たない目蓋を閉じ、ポケットに手を入れて、じっと自分の心音に耳をすませた。鼓動が、弱くなっていくのがわかる。
『死にたいんだろう? 死ねば、楽になる』
答えを急かすように、声が、また。
体が重くなってきた。沼に沈んでいくようだ。暑くも寒くもないこの空間は、ひどく気持ちいい。無性に、眠くなる。
「……そうだな、俺、このまま、」
(死んでもいいかもな)
そのとき、忘れていた指先の感覚が、なにかを捉えた。ポケットの奥底にしまいこんでいた包み紙の存在を、秋尋に伝える。
目を開いても、相変わらずなにも見えなかったが、包み紙のなかに、丸い塊があることはわかった。
「……のど飴」
なんだっけ。これ。誰に渡そうとしていたんだっけ。あぁそうだ、青衣に。
あいつ、扁桃腺が腫れやすくて、風邪引きやすくて、意外に体弱いくせに、ぎりぎりまで我慢するんだ。ちっともへーきじゃないくせに、大丈夫って笑ってるんだ。
だれも心配させたくなくて。
あいつに、渡さなくちゃな。それまでは、死ねないな。
そう思って、のど飴を強く握りしめた瞬間、周りを包んでいた闇が、ざわりと動く気配がした。
壁紙が剥がれ落ちるように、一面に張りついていた百足たちが移動しはじめる。闇が欠け落ちた部分からは、やわらかな光が漏れていた。
「こっちだ」
光の向こうから、手が、伸びてきた。
秋尋は、急に息苦しくなり、無我夢中で、しがみついた。
「…げほっ、ごほっ」
どろりとした泥の中から、ゆっくりと引き上げられた。外の冷たい空気を吸った瞬間、激しく咳き込んだ。
幾度か咳き込み、ようやく落ち着いてきた秋尋は、自分を救い出してくれた主の顔を見上げた。
「へいきか?」
見覚えのある顔が、そこに、あった。
「――あおいッ」
口を突いて出た言葉に、相手は目を瞬かせた。秋尋は構わず手を掴む。ぎゅっと、強く。
「あおい、俺、おまえを」
云い差して、秋尋は、青衣には無いものに気付いた。
するどい、牙。
銀色の長い髪。
朱墨のような眼。
そして。旋毛から生えている二本の角。
見たことがある。面識という意味ではなく、知識として知っている、という意味で。
「えーと、青衣。なんで鬼のコスプレをしているんだ?」
「……ほんものだ。ついでにおれはアオイって名前じゃない」
秋尋は体を引いて、目の前にいる少年の顔を見つめた。
青衣とは、似ても似つかない。
どうして見間違えたのか、秋尋自身にもわからなかった。
「失礼しました。でも、なんで、鬼のコスプレを?」
「だーかーら」
鬼のコスプレをした銀色の少年は、秋尋の手を掴んで、自らの頭部の角に引き寄せた。
「すげー、本当にほんものみたいだ」
触れた瞬間は冷たいと感じたが、しだいに肌に馴染んでくる。
「……もういい」
感心する秋尋の視界に、異様にぎらつくものが映った。
「ヌイ様。この人間、食べても良いので?」
異様なものの正体は、ぎょろりと大きな目玉だった。巨大な顔面に、片目だけが埋めこまれている。ぎょろぎょろとせわしなく動いて、秋尋に焦点を合わせた。体は巨岩のように大きく、全身が血走ったように赤い。
「うわっ、赤鬼のコスプレッ」
尻餅をついて、後ずさりしたところへ、再び手が伸ばされる。銀色の少年だ。
「それ以上、後ろへ下がらないほうがいーぞ」
云われて振り向くと、墨を混ぜ込んだような黒い池が口を開いていた。差し込む太陽光を拒み、水面だけがキラキラと輝いている。底は見えず、時折、黒い魚が金色の尾びれを揺らして横切った。
「人間の子ども、よく覚えておけ。この魚たちは、黄泉ノ国の沼地に棲む塵魚だ。美しい金色の尾びれで魂を誘い、一口で呑みこんでしまう。あぁ、覗きこむのも控えたほうがいいぞ。跳躍して、喰らいついてくるから」
釘を刺され、秋尋は体をそらした。「魂を喰う」。それがどんな状態なのかは想像するしかないが、少なくとも、あまりよくないことであるらしい。
「感謝しろよ。おまえ、いま、上から降ってきて、大百足にぱくんと呑みこまれたんだ。まぁ、すぐに吐き出したけどな。もしおれが助けてやらなきゃ、おまえ、いまごろ池に落ちて、奴らの餌になっていた。ついでに大百足も追い払っておいた」
「俺、かなり危なかったんだな」
池から離れ、身の安全を確認した秋尋は、改めて傍らの銀色の少年に目を向けた。
背丈は自分たちとさほど変わらない。生成りの質素な腕から現れた手足は、むしろ細いくらいだ。
「俺を助けてくれたのか? どうして」
「だって、勿体無いだろう。おまえみたいな極上の魂が、たかだか塵魚の腹の足しになるなんて」
「……はぁ」
首を傾げる秋尋を、銀色の少年は笑いながら見ている。
「おれはシラヌイ。で、このドンくさい赤鬼はアカガネ。舌がまわらねぇから、おれのことヌイって呼ぶんだ」
「面目ない」とアカガネが頭を下げた。
「気にすんな。おまえにはそもそも面目なんて高尚なものはない。片目だし」
「はぁ、面目ない」
「だからなー」
ふたりのやりとりを見ていた秋尋は、どこか安堵したように息を吐いた。
「俺は、秋尋。ふたりは、ここに棲んでいるのか?」
見渡した場所は深い森の中だった。くすんだ色の木々や落雷で真っ二つに裂かれた倒木が横たわる、物静かで寂しい場所だ。
「いろいろあってな。ここなら何をやっても誰にも見つからないし、叱られないし、誰にも、迷惑かけない。泣かせることもない」
ほんの一瞬、シラヌイの顔に影が差した。一瞬のことだ。
「なぁ、シラヌイ。最近ここに落ちてきた俺の幼なじみを知らないか?」
「幼なじみ?」
「青衣っていう。なんでかわからないけど、あんたの顔が、一瞬、青衣に見えた」
顔を見ても、やはり、別人だ。
姿形も、まとう雰囲気も違う。
だけれど。なぜだろう。シラヌイの中に、複数の人間の気配が重なっているような気がする。ひとりなのに、ひとりではないような。
一方のシラヌイも、秋尋のほうをじって見つめながら、おもむろに腕組みをした。
「なぁ、秋尋だっけ。おまえ――なに?」
質問の意図を考えつつ、秋尋は答えた。
「なにって。ふつうの人間。男。中学三年。家族構成は母親と俺の二人暮らし」
「そんなことじゃねぇよ。おまえの匂い、変だ」
くさい、ということだろうか。
秋尋は急に心配になって鼻を動かした。
「血の臭いかなぁ。でも、こっちにシャワーなんてないだろうし」
「そういうことじゃない。まぁ、いいさ。死者の頭数の管理はトキ爺の仕事だし」
シラヌイはくるりときびすを返すと、近くに生えていた巨木の枝に飛び乗った。軽く三メートルは跳んだだろうか。
人間とは思えない跳躍力に、秋尋は目を瞠る。
「なぁ、俺も、聞きたいことがあるんだけど」
「あん? アオイだっけ。しらねぇよ」
シラヌイは生あくびを噛み殺している。
「それはわかった。聞きたいことは違うんだ、黄泉ノ国への行き方を教えて欲しい」
「行ってどうする? アオイを探すのか?」
「そのつもりだ」
シラヌイはゆっくりと顔をあげ、秋尋の顔を見た。
「勝手にしろ。ただ、あまりこの世界に長居できないことは知っているよな」
「トトキから聞いた」と秋尋は頷く。
「そうだ。死にかけた人間には肉体の限界ってものがあるし、死者には往くべき場所がある。だけど、それとはまったく別の〈黄泉ノ国の住民〉というものがある。黄泉ノ国に住み、この国の王である女神イザナミを支え、力になる〈選ばれた〉存在だ。時には、此岸とこの国を行き来することもできる」
「あんたもそうなのか?」
シラヌイは、はっと鼻で笑った。
「おれは例外中の例外。黄泉ノ国の住民には人数制限があるうえに、ある条件があるんだ」
「ジョウケン」
シラヌイは体を起こし、じっと秋尋の顔を見た。
「そうだな、あんたなら、合格かもな」
秋尋の心に、刃物のような朱墨の瞳を向ける。
そこへ、列車のブレーキ音が鳴り響いた。
「秋尋さん。あぁ、ここにいたのか。どこに落ちたのかと――と、」
トトキはシラヌイの姿に目を留め、「いらっしゃったんですか」と堅苦しい挨拶をした。
「あぁ、トトキ。また列車に乗って遊んでいたのか? まだまだ子どもだな」
トトキは大人びた笑い方をした。
「貴方に比べれば誰しもが子どもです」
「そろそろ向こう岸に渡ったらどうだ? 親兄弟も待っているんだろう?」
「いえ、まだぼくにはやらなくちゃいけないことがありますから」
「そうか? 程々にしておけよ。女神に見つかったらコトだぞ」
「わかっています」
トトキも、シラヌイも、笑っている。
鏡のように、同じ笑い方をしている。
「さ、秋尋さん。行こう」
トトキは回れ右をして、秋尋の腕を掴んだ。見た目からは想像も出来ない強い力で、引っ張っていく。
シラヌイは秋尋の存在など忘れたかのように、目をつぶっている。
「シラヌイ、助けてくれてありがとう。あんた、優しいんだな」
無邪気に手を振る秋尋に、トトキが毒を吐く。「莫迦が」と。
ふたりの乗った列車が見えなくなったところで、ぐぅ、と腹が鳴った。アカガネの腹の音だった。
「あの人間の魂。ウマそうでしたね」
「秋尋か? あぁ。力が強いんだろうな。涎が出そうだったよ。だからわざわざ拾ったのにな」
シラヌイはアカガネが差し出した林檎を受け取り、がぶりとかじりついた。
「アオイ――ね。まさかそんな名前で呼ばれるとは思わなかった。おかげで食欲が削がれた」
「アオイはヌイ様の知り合いで?」
「いや、知らない。だけど、確かに体が反応した。これまで喰った魂の中に、〈アオイ〉と縁のある魂があったのかもしれない」
シラヌイはそっと腹を撫でた。
「それにしても、人懐こいガキでしたね。オイラを見て驚いていましたけど、逃げたりしませんでしたしね」
「そうだな。不自然なくらい、騒がしかったな」
がり、とまたひとかじり。
「処世術ってやつだろう。驚いたり笑ったり叫んだり、感情をありのままに表現して自分の弱さを見せて相手の出方を窺うってやりかただ。無意識かもしれないが、そうやって相手を見極めているんだ。自分にとって、敵か、味方か。信じてもいいのか、否か」
まだ世間知らずのままでいい子どものくせに、判っているんだ。自分が強くないことを知っている。
「きっといっぱい見てきたんだろうな。弱い自分を。強さを誇れない自分を」
それに。あんなに声をあげて。
あれではまるで、子どもだ。
助けてくれ、気付いてくれと泣き叫ぶ迷子の子どもだ。
「それにしても、ほんとうに美味そうだったな。蜜が滴るような極上の魂。トトキが目をつけるのも頷ける。あれに比べると、この魂が急に味気ないものに感じる」
シラヌイは、食べかけの林檎を、池に投げ込んだ。
たちまち塵魚が群がる。口という口を突き出し、牙を向き、林檎を食いちぎる。
瞬く間に林檎は噛み砕かれ、ばらばらになって、塵魚の腹におさまった。
あとには、何事もなかったかのように、波紋だけが広がった。