其の弐 : 【死亡動機 ①】
「青衣は、俺の腕を掴んで、濁流に飛び降りた。呪いのような言葉を吐きながら。だけど、俺にはわからない。わからないんだ」
飛び降りる直前、青衣が口にした言葉がある。その言葉は、何度も何度も、秋尋の頭の中で繰り返される。
「あの言葉も、遺書の話も、濁流に飛び込むなんてばかげた行為も、俺には、青衣自身が望んだこととは思えないんだ。なにか別の意思が働いているような気がしてならない。だから、確かめたいんだ。俺を殺そうとしたのが、ほんとうに、青衣自身だったのか」
だって、問題には、こう書かれていた。
昨夜、あなたを殺したのは、誰ですか?
「正しく」答えなさい。
探しにいくのだ。
「正しい」答えを。
青衣に会って、確かめるのだ。
そう強く思うと、胸の奥のわだかまりが、ゆっくりと消えるのがわかった。
決意を固めた秋尋は、ゆっくりと顔をあげた。心が決まった。進むべき道が決まった。背筋がピンと張るような気がして、胸がどきどきした。
「清々しい気持ちに酔いしれているところ、水を差すようで悪いけど」
針のように鋭い言葉が、少年の口から発せられる。
「――周りの人たちに、どれだけの迷惑をかけるのか、わかってる?」
少年は声音を低くした。
「それは、」
「わかってないだろう。わかるはずもない。きみはまだ十五歳。多感な子どもで、ある意味、世間知らずで、周りのことなんてなんにも見えていない。きみはいいさ、友人に会いたい。自分なりの正義や信念を貫いて行動しているつもりだろうけれど、現世に残された家族や友人は、後ろ指さされ、陰口をささやかれ、くわえて目覚めないきみの容態に一喜一憂する。いい迷惑だよ。行方をくらましたアオイという人とやってることは同じだ」
饒舌になる少年とは対称的に、秋尋は体を小さく小さく縮めていく。いまになって、自分がしでかしてしまったことの重大性に気付いたようだった。
「きみにできることは、いますぐ現世に戻って、親や友人や近所の人たちに心配かけたことを謝ることだよ。彼女たちの声が聞こえないとは云わせない」
少年は背にしていた窓硝子を、手の甲で、かつんと叩いた。
――あきひろ。なんで、秋尋。なんであんたが死ななきゃいけないの。
それは、一紗の悲鳴だった。
――秋尋、死なないで。秋尋、秋尋。帰ってきて。お願いだから。
それは、母親の、泣き声だった。こんな声は、聞いたことがない。
「――わかるね。列車を引き返すよ」
少年はランドセルから小さな鈴を取り出した。それがこの列車を動かす合図らしい。
「待ってくれ」
少年の鈴を持つ手を、秋尋は握りしめた。
汗が出てきた。
「確かに、俺はなにもわかっていなかった。反省するよ。謝る。母さんにも、一紗にも、迷惑かけた人たちみんなに。だけどそれは、青衣を見つけてからだ。いまやれることをやらずに、後悔するのは嫌なんだ」
「……」
「青衣は、現世に必要な存在なんだ。青衣の母さんは一人息子だからすごく大事にしていて、弁当だってなんだって手を抜いたことないんだ。親父さんは仕事で忙しいのに、合間をぬっては家族で外食や旅行に行ってる。同じ社宅の人たちも、青衣を見かければ声をかけるし、菓子をあげるし、一紗だって、青衣のこと頼りにしている。青衣はすごく大切な存在なんだ。青衣がいなくなったら、みんなみんな、悲しむ」
しぼり出すような決意の言葉。だが、少年は、じっと秋尋の目を見ているだけだった。
秋尋の決意のほどを見定めている。黄泉ノ国へ行くための合否を、試されているのだ。
そう思うと、無性に喉が渇いてきた。
長い、長い、果てしない沈黙のあと、「わかった」と答えがあった。
「おにいさんの云いたいことはよぉくわかった。ついでに、どれほど考えなしなのかもわかった」
秋尋は恐る恐るといった様子で少年を盗み見た。
「考えなし?」
「だって、青衣という人が仮に黄泉ノ国にいたとして、あなたの体がそれまで生きている保障はないんだよ。魂が離れている期間が長いほど、生存率は低くなる。死んでしまったら、何の意味もないだろう。そこのところ、どう考えてるの?」
「……や、なんにも」
歯切れの悪い返事とともに、秋尋は視線を落とす。
「ほんと、バカ正直だね。でもそういう無鉄砲な人、嫌いじゃないよ」
そう云って、少年は顔をくしゃくしゃにして笑った。
「ぼくの名はトトキ。これも何かの縁だ。きみがその友人を見つけるために足掻き、途方に暮れる、あるいは、意気揚々と現世に戻って、周りに平謝りするまで、見届けるよ」
「見届けるって」
「助けてあげてもいいってことだよ。合格だ」
助かった。秋尋は心底安堵した。
そんな秋尋の姿を、トトキは鋭い眼差しで見つめている。
「だけど云っておく。黄泉ノ国で探し人を見つけるのは簡単じゃない。多くの死者が混在するし、夢や、他の世界の影響もある。くわえて、あなたの決意を試すものや、心を揺さぶるものもあるだろう。乗り越える覚悟はある?」
強い口調で問われ、秋尋はぞくりと体を震わせた。
「もし、ダメだったら」
「そうなったら、あなたは望みを果たせないまま死ぬ。それだけだ」
話は終わり、とばかりにトトキは新聞をたたみ、傍らにあったランドセルに納めようとして手を止めた。
「それから、勘違いしないで欲しい。ぼくはあなたの行く末を見届けるけれど、あなたの〈味方〉になるわけじゃない」
頼るな。甘えるな。そう釘を刺されているような気がして、秋尋は拳を強く握った。
「それから、さっきの。アオイはみんなにとって大事だっていうあの云い方。……なぜだろう、ぼくには、アオイという人に対する厭味にしか聞こえなかった」
きょとんと目を丸くする秋尋に、トトキは目を細くする。
「自覚がないの? それこそ厄介だね。ぼくには、アオイを必要とする『みんな』という括りに、肝心のあなた自身は含まれていないように聞こえたけど」
「――ッ、そんなことは、」
次の瞬間、不自然に列車が揺れ、新聞がばさりと床に広がった。
「うわっ」
秋尋はバランスを崩し、尻餅をついた。体勢を立て直す間もなく、立て続けに車体が揺れる。上下左右、乱気流にでも巻き込まれているように、天地がひっくり返る。
右へ左へと転がる秋尋に対して、トトキは仁王立ちのまま、びくともしない。軽く舌打ちして、窓の外に向かって怒鳴った。
「また、あいつか」
列車の大きな窓を、なにかが、横切る。
そちらを見て、秋尋は、固まった。
一瞬、生垣と見間違えた。秋尋の家との境界線を明確にするため、隣家の住民が同じようなものを造っていた。春先に真っ白な花を咲かせるので、秋尋はそっと触ってみたことがある。
爪の間に棘が刺さり、血が流れた。
だから、知った。隣家の住民が、わざと生垣を造ったことを。白い花が意味する、秋尋たちへの敵意を、知った。
だが、目の前にある生垣は、黒い。それどころか、うねうねと動きはじめた。
その正体に気付いてしまった秋尋は、腹の底から悲鳴を上げた。
「ぎゃーっっ脚っっすげー多いっっ気持ちわるいーっっ」
「黄泉ノ国に生息する大百足だよ。この列車を仲間だと思ってじゃれてきているんだ。はた迷惑な」
トトキは慣れているらしく、乗車口のひとつを自力でこじ開けると、吹き込む冷風を物ともせず、叫んだ。
「毎度毎度いい加減にしろッ、与太ガキめッ」
「……」
不相応な言葉遣いに、秋尋は再び固まる。
(与太ガキって…。トトキって、若いのに、昭和の頑固親父みたいだ)
拳を振りあげて激昂するトトキの声を受け、どこからか、黒い蝶の群れが集まってくる。
列車に巻きついて離れない大百足の巨体にとりつき、翅を動かす。大百足はくすぐったいらしく、巨体をくねらせる。
「と、トトキ、あの蝶はどこから」
「あれは、黄泉ノ国に棲む地獄黒蝶。いまは鬼籍を管理するぼくの式鬼として働いている」
大百足は諦めが悪いらしく、黒蝶のくすぐりに対してもなかなか屈しない。
「あいつ、なかなか離れないな」
「おかしいな。いつもは、こんなに、」
途端、大百足が動いた。黒蝶たちを振り払い、トトキが開けた扉に頭を突っ込んでくる。大きな体と無数の脚でのた打ち回り、窓硝子を叩き割っていく。再び車体が揺れた。
ぐるりと、世界が回転する。
「秋尋さんッ」
あっと思ったときには、秋尋は、宙へ投げ出されていた。
視界の端に、真っ黒な、谷底が見えた。
口を開けて、待っている。
「秋尋さん」
トトキは慌てて窓から顔を出したが、秋尋の姿は闇に呑まれ、どこにもない。
大百足は先ほどまでの勢いが嘘のようにおとなしくなり、列車から離れていった。その姿は、谷底に広がる森へと消える。秋尋が落ちた方向だ。
「大百足は秋尋さんの匂いに引き寄せられてきたのか」
トトキは、闇を孕む広大な森をひとしきり見渡したあと、車内に引っ込んだ。
「見届けるとは云ったけど、ぼくには、彼を助ける義務はないしね」
トトキはシートに腰を下ろすと、鬼籍を開き、本来迎えに行くはずだった客の名に目を落とした。
「さて、ぼくの客人はどこに行ってしまったんだろう。おまえたち、探しに行ったんじゃなかったのか?」
視線を向けられた黒蝶たちは、なにかを訴えるように、慌しく飛び交った。
トトキは訝しげに眉を寄せる。
「さっきまで乗っていた? じゃあいまは、どこにいるんだ?」
すると黒蝶たちは、道案内でもするように、一列になって、谷底の森へと降りていった。
そこに落ちたのは、皆川秋尋という少年だ。トトキが迎えに行った客ではない。
「どういうことだ」
がたん、と音を立てて、黄泉路列車が揺れた。宙を空転していた車輪が、線路をつかまえ、本来の回転をはじめたのだ。
真っ暗だった外の景色が、一転する。光が差し、眩い朝日に包まれた街並みが見える。
列車は間もなく、黄泉ノ国に入る。