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其の壱 : 【黄泉路にて ③】

「待てよ、青衣、待っててくれ、そこにいてくれ。すぐに行くから」

 俺は嫌がる一紗をなんとかなだめすかし、青衣のもとへ行くことに決めた。

「なぁ一紗、俺がかわりに参拝してきてやるから、おまえはここで待っていればいいから。な、それならいいだろう」

 一紗は鼻をすすりながら、うん、と小さく呟いた。そのくせ、「お賽銭は自分のお金じゃなくちゃダメなのよね」と、律儀に財布から五百円玉を取り出すあたり、ちゃっかりしている。

 俺は五百円玉を預かり、橋に向かった。

 足を進めるたび、ぎしぎしと踏み板が鳴った。はるか下流を流れる濁流の音が、自然と歩みを遅くさせる。

 慎重になればなるほど、踏み板は強く響き、橋は揺れた。先ほど青衣が駆け抜けたときには、ぎしりとも鳴らなかったのに。変なものだ。

 前方には、剥き出しの岩肌がある。色合いの違う岩盤が、ぶ厚い層のように重なり合ったその一角に、社は隠れていた。

 ようやく対岸に辿り着いたとき、ほんの一瞬、青衣は淋しそうな顔をした。

「一紗ちゃん、ごめん」

 対岸にいる一紗に手を振る。一紗は鳥居の支柱にしがみついたまま、恨みがましい目で俺たちを見ていた。「さっさと帰ってきなさいよ」と強がるのも忘れない。

「秋尋も、ごめん。すぐそこだから」

 青衣はこちらに向き直り、洞窟の奥に向かって歩き出した。自然が作り出した洞窟内の窪みには蝋燭が並べられ、曇り空のようにぼんやりと足元を照らしている。

 濁流の音が、洞窟内で反響して、どこか遠くで響いているような気がする。雨垂れだろうか、時々、ぴちゃん、と音がする。

 ぞわぞわと鳥肌が立った。それを見て、青衣は意地悪な目つきになる。

「あれ、秋尋。どうしたの? おまえがキライな〈脚のない人〉でもいた?」

「だっ…ばかっ、云うなッ。せっかく意識しないようにしてるのに」

「十五にもなって、まだ幽霊が怖いなんて、笑える。手でも握っててやろうか?」

「結構だッ」

 俺は、昔から、その手のものが見えるタチだった。明るい日差しの中では、煙るようにおぼろげに。夜や日陰の中では、一瞬、生身の人間と見まごうほど、明確に。

 ただ彼らの存在は、水面の向こう側にいるように不確かだった。なにもわかっていなかった子どものころは、声をかけたり、触れようと手を伸ばしたこともあったが、彼らからはなんの反応も感触もなく、しだいに、別世界の住人として、見て見ぬ振りをするようになった。

「たぶん、あいつらは、神仏が棲む聖域には入らないと思う。俺が気にしているのは、この、ちょっとした衝撃で、いつ崩れてもおかしくなさそうな洞窟内の造りだよ。木材やコンクリートで補強された形跡もないし」

「平気だよ。そうしたら、桃と櫛と鬘を投げて逃げればいい。イザナギノミコトがそうして黄泉ノ国の追っ手を振り切ったように」

「……歴史の問題のつもりかよ」

 俺はため息をついた。

 ぱしんと、本当に軽く、青衣の頭を叩いてみた。青衣はきょとんと目を丸くする。

「いくら明日が大事な入試だからって、こんなところでまでそういうこと云うなよ。だいたい、日本神話は入試問題には出てこないと思うぞ」

 青衣は俺が叩いたところを軽くさすりながら、そうもそうだ、と笑う。

 あぁ、良かった。いつもの青衣だ。

 祠は、すぐそこにあった。思ったよりもずっと小さな祠だ。大きく刳り貫かれた窪みの中で、数え切れないほどたくさんの蝋燭に包まれている。

 青衣と並んで、賽銭箱の前に立った。

「秋尋。お金、いくら入れる?」

「俺は、一紗から預かった五百円玉と……げ、俺の財布、三百円しか入ってない。参考書や問題集に金つかっちまった」

「へぇ、ずいぶん安上がりな神頼みだね」

「笑うな。俺の全財産だぞ。こういうのは気持ちが大事なんだ」

「『地獄の沙汰も金次第』って云うけど?」

「だから、もうそういうのやめろって」

 含み笑いをする青衣を小突き、賽銭箱に、八百円を投げいれる。

 硬貨が触れ合う音はしない。どこか深い谷底に呑まれていったようだった。

 ――英徳高校に合格できますように。

 そう願ったあとで、横目でちらりと、青衣を盗み見る。青衣は手を合わせたまま、まだ何か願っているようだった。

 俺も、あとふたつ、願う。

 ――母さんが、体を壊さず働けますように。

 それから。

 ――この三人で、ずっと、一緒に…。

「叶えばいいな」

 となりで、青衣が呟いた。

「叶うといいな。秋尋の願い」

 なんのてらいもなく、本心で、そう云っているのがわかるくらい、さりげない言葉で。

 俺は再び目を閉じて、手のひらを合わせた。

「青衣の願いも、叶うといいな。あと、一紗の願いも。みんなみんな、叶うといいな」

 最後の願いを心の内で唱える。

 ――この三人で、ずっと一緒に、いられますように。

 三百円でこんなことを願うなんて、我儘だろうか。欲張りだと、神様は、怒るだろうか。

 だけどもう財布の中は空っぽだ。ポケットをあさってみると、のど飴が入っていた。

「きょうはこれで勘弁してください。神様」

 のど飴を賽銭箱にそっと入れると、にやにやと笑う青衣と目が合った。

「のど飴ねぇ。まぁ、神様も物珍しさに喜ぶかもしれないけど。それにしても、のど飴ねぇ」

「おまっ、見るな、莫迦ッ」

 俺にとっては、金と同じくらい大事なものなんだ。

「そんなことより、おまえ、なに願った?」

「秘密。こういうのは、云わないものだろう」

「あっそ。じゃ、帰るか。一紗が待ちくたびれているだろうしな」

「戻ったら、きっとまた小言を云われるだろうな。秋尋秋尋って、そればかりだ」

「うるせー」

 青衣と並んで外に出ると、一紗の姿はなかった。

 先に帰ったのか、と訝しみながら橋を渡ると、灯りがついた社務所の前で手を振る一紗の姿が目に入った。

「社務所がしまる前にと思って、買っておいてあげたの」

「青衣くん、いらっしゃい」

 社務所にいたのは、高齢の女性で、青衣の顔を見るなり、笑顔になった。青衣も会釈を返す。

「タヱさんだよ。十年前、宮司のご主人を亡くしてからは、ひとりで神社の管理をしていらっしゃるんだ」

「そうなの。ご覧のとおり、街外れの目立たない神社でしょう? 参拝者も少なくてね、青衣くんみたいな若い子が来てくれると嬉しくなるの。はい、お願い事をどうぞ」

 タヱさんは皺だらけの手で、絵馬を差し出した。あまり見たことのない拝み女の絵柄だった。

「そういえばこの神社は、なんのご利益があるんですか?」

 一紗の問いに答えたのは、タヱさんではなく、勝手知った様子の青衣だった。

「学業成就、厄除け、安産祈願、平癒快癒。なんでも」

「……なんか、いい加減」

「そんなものだよ、神社って」

「神様に対して失礼でしょ、その云いかた」

 などとつまらない云いあいをする一紗と青衣を横目に、俺はタヱさんから、「必勝」と書かれたお守りをもらった。

 金はいらないと云う。ありがたく、頂戴した。

「この神社、本当はね」

 内緒話でもするように、タヱさんは声をひそめる。

「黄泉がえりを祈念する神社なの」

「黄泉がえり、ですか?」

「そう。忘れてしまった記憶や失せ物を取り戻す、というのが建前だけど、本当はね、ちがうの」

 ふふ、と口元を覆うタヱさんの笑顔は、無邪気な少女のようだ。

「事故や病気で、肉体が昏睡状態にあるとき、魂はどこにあると思う? 黄泉ノ国にあるの。川の中洲のような小さな国でね、そこで、生きて此岸に戻るか、死んで彼岸に渡るか、審判を待つの。その采配はすべて、黄泉ノ国を治める黄泉津大神さまの心根しだい。この神社の御神体はその黄泉津大神さまなの」

「黄泉津大神って?」

「夫イザナギに見捨てられた、イザナミノミコトの異称よ」

 タヱさんは、少し淋しそうに笑った。

「もし、貴方が誰かの黄泉がえりを祈念するときが来たら、絵馬に「返してください」と書き入れ、絵馬奉所に結びなさい。心の中で、返して欲しい人のことを考えながら、ね。絵馬の数はより多いほうがいいわ。できることなら、祈願は満月の夜になさい。運が良ければ、死者の魂を運ぶ黄泉路列車に出くわすこともあるから」

「……はぁ、どうも」

 本気なのか、冗談なのか。

 俺は曖昧に頷いた。タヱさんは厚意のつもりだろうが、俺には必要のない祈願だし、いまはなにより、受験のほうが大事だ。

 受け取った絵馬には、俺だけでなく、ふたりも同じ文言を書いた。無論、英徳に合格しますように、だ。

「よし、そろそろ帰ろう」

 歩き出した青衣の背中に、一紗が、ちょっと待って、と声をかける。

「あの、すこしだけ待ってて。絵馬に書き忘れたことがあるの。すぐ戻るから、絶対に置いていかないでね。いい、秋尋」

 慌しく絵馬奉所へと戻っていく。

「なんだよ、書き忘れたことって」

 肩をすくめる俺を横目に、

「おれは、見当がつくよ」

 と青衣が自信ありげに呟く。

「英徳に合格しますように。その言葉の前に、こう書き加えるんだ。好きな人と一緒に、ってね。わかってるだろう、秋尋」

 肘で軽く小突かれる。

 俺は、顔が赤くなるのを見られまいと、青衣に背を向けた。

「……いまは、それどころじゃないだろう。英徳に受かることが、一番大事だから」

 一紗の気持ちに気付いていないわけではない。ただ、いまは、その気持ちに真っ向から向き合って、考えたり、悩んだりすることができない。だから、先延ばしにしたかった。

「そういえば、おれ、秋尋の志望動機を聞いていなかった」

「聞いたら、呆れると思うぞ」

 そう前置きして、話してみる。俺の、不純すぎる志望動機を。

「俺の両親が、まだ小さいころに離婚したのは知っているだろう。母さんは、俺を大学まで行かせるために、必死に、働いている。夜の仕事にまで手を出して、近所から冷たい目でも見られても、やめない。母なりの意地なんだと思う。俺は、難関といわれて、県内でも一目置かれている英徳に受かったっていう、ネームバリューっていうか、付加価値が欲しいだけなんだ。母さんを蔑んだ世間を見返してやりたい。母さんを認めさせたい。それだけの理由だよ。不純だろう?」

 引きつった笑いを浮かべてみる。だけど青衣は笑わなかった。

「なんでさ? 動機なんて、人それぞれだ。見栄や体裁のために、名のある高校に行く。それが不純かどうかなんて、他人が決めるものじゃない。秋尋はそれだけの努力をした。胸を張っていい。おれが保証する」

 俺は恥ずかしくなる。くすぐったい気持ちになる。嬉しくて。


『秋尋はそれだけの努力をした』


 お世辞まみれの着飾った言葉じゃなく、そういう、まっすぐな言葉を、だけど一番欲しい言葉を、青衣は不意打ちで口にする。

 だから俺は、どんな顔をすればいいのかわからなくなる。

「……それで、青衣。おまえの志望動機は? 頻繁にここに来ているんだろう」

「合格祈願が目的じゃない」

「じゃあ、なんで?」

 青衣は、また、月を見ている。

「最近、夢見が悪くて。いつも、決まった悪夢を見るんだ。その夢に登場する人は、おれが幼い頃、いなくなった人なんだ。その人に会いたい。会って、謝りたいことがある」

 その瞬間、急に、心の中に、風が吹いたような気がした。青衣の存在を、遠くに感じる。夜空に浮かぶあの月よりも、さらに、遠くに。

「……俺の、知っている人か?」

 乾いた舌をまわして、そう訊くのが、やっとだった。

「なんてね。単に、好きなんだ、ここの雰囲気。ほら、祠のほうから聞こえてくる風穴の音。まるで、泣き声みたいだろう。黄泉ノ国にいる誰かを呼び続けているようだろう。それがひどく、心地よくて、だから、」


 からからからからからからからからから


 唐突に、絵馬が鳴り響いた。

 青衣が、はっとしたように顔をあげる。

 絵馬は鳴る。鳴り響く。咎めるように、叫ぶように。


 からからからからからからからからから


 突風だ。目を開けていられない。

 とっさに顔を隠し、身を低くする。だけど青衣は動かない。

「あおい、あおい?」

 薄く目を開けて、傍らを見やる。青衣は焦点の合わない濁った目で、祠のほうを見ていた。俺はその視線の先を追いかける。


 子どもだ。

 風で目が痛くて、よく見えないけど、ちっこい、ただのガキ。

 橋の、向こう側。まっすぐ、立ってる。

 なのに。なんだ、あいつ。

 なんて眼で、笑ってる?


「セイタッ、セイタなのか?」

 青衣は叫んだ。俺の知らない名を。

 そして駆け出そうとする。俺はとっさに、その手を掴んだ。冷たい手だった。ぞっとしたが、力任せに握った。

 青衣は俺の手を振り払おうとしながら、かわいた声で笑った。

「……きっと、あの人だ」

「あお、い?」

「おれ、昔、人を殺したことがある。おれ、せいたを、おれの□□を、殺したんだ」

 なに、なんだよ。聞こえない。風の音がうるさくて、聞こえないんだ。

「おれ、□□を、殺したんだ」

 まるで、そこだけ音が抜けたみたいに、聞き取れない。空白だ。

 いつの間にか、風がやんでいた。俺たちだけが取り残されている。一瞬見えた子どもは、影も形もない。

「……青衣、へーきか」

 声をかけながら、立ち上がって肩に手を伸ばした。だが、振り払われた。青衣は振り返りもしない。

「お待たせ」

 一紗が、息を切らしながら駆け寄ってきた。そのままの勢いで、ごく当たり前のように俺の腕に飛びついてくる。

 俺はいつもの調子でそれを振り払いながら、青衣に視線を向ける。

 青衣は。

 青衣は、月を見上げている。

 その横顔を見ていて、また、心が、ざわついた。

 単に、受験を前に、神経が昂ぶっているだけだろうか。だったら、受験が終わったら、こんな不安に襲われることもなくなるのだろうか。

 受験が終わったら。

 きっと、すべてが、元通りに。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「合格発表の日、三人で待ち合わせをしていたのに、青衣はなぜか来なかったんだ。携帯もつながらなかった。俺と一紗は、受験から解放されたこともあって、カラオケやゲーセンを楽しんでから、夜遅くに帰宅したんだ。そしたら、赤飯を炊いて待っていた母が、俺が口を開くより先に、叫んだんだ」

 青衣が、朝早くに家を出たきり、帰らない。携帯もつながらない。数日前から、死後の世界について口にしていたらしい。遺書を残したという話もある。死ぬつもりかもしれない。

「俺は、心当たりを全部探して、最後、比良坂神社で、青衣を見つけたんだ。いまにも、飛び降りそうな勢いだった。俺は、無我夢中で、止めようとして」

「それで?」

 少年の言葉は、真っ直ぐに切り込んでくる。

 その眼は鋭く、瞬きもしない。

 秋尋はすこし口ごもって、そして、答えた。

「俺は、青衣に、殺されたんだ」

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