其の捌 : 【空欄 ②】
俺は、合格発表の掲示板の前で、呆然と佇んでいた。
からからと鳴っていた絵馬の音は、いつの間にか、受験生たちの歓声にすり替わっている。
振り返ってみるが、黄泉路列車はどこにもなく、トトキの姿もない。
夢から覚めたばかりのように、しばらく動けなかった。
空の高いところに昇った太陽が、ぎらぎらと照らしつけて、俺の体を地に縫いつけようとしていた。
現世に戻ってきたのか?
実感がわかない。さえずる鳥の声も、どこかよそよそしく聞こえる。
ひとつ、ふたつ、と息を吐く。
「秋尋、の、番号は?」
傍らにいた一紗が、不安そうに呟いた。
自分は戻ってきた。合格発表のそのときに。
まだだれも死んでいない、なにもはじまっていない、そのときに。
これが、俺の願いだった。
「ねぇ、秋尋。秋尋は」
不安そうに身を乗り出す一紗。俺は笑って、その肩を叩いた。
「ないよ。ごめんな」
「そんな……」
顔を強張らせ、一紗は絶句する。
時間は戻った。だけど一紗を泣かせた事実を、俺は、忘れない。
「一紗。合格、おめでとう」
一紗はきょとん、と目を丸くする。
どうしても伝えなければいけない言葉があった。あのとき、俺は、自分のことに頭がいっぱいで、一番大切なこの言葉を云っていなかった。
「おめでとう。おまえ、頑張ったもんな」
見る見るうちに、一紗の瞳に涙がたまる。
しまいには、大声で泣き出すはめに。
「か、一紗、なんでおまえが泣くんだよ。おまえの泣き顔、すげー不細工だぞ」
「うるさい、うるさい、秋尋のばかーッ」
力のない拳で、何度も叩かれた。
俺は笑いながら受け止める。
やっぱり一紗は、泣き顔よりも、笑顔のほうがいい。
「そこのバカップル、さっさと掲示板から離れろ。他の学生が見れないだろう」
遠慮のない物云いでふたりの間に割って入ったのは、青衣だった。
「あ、ちょっと青くん。どこに行ってたの?」
たちまち目を吊り上げる一紗を無視し、青衣は掲示板の番号に目を通した。
「うん、やっぱり、時間は戻っても現実は変わらないか」
青衣の言葉に、俺は、どきりとする。おそらく、青衣には、これまでの記憶が残っている。
「秋尋。一紗ちゃん」
青衣は俺たちを振り返り、きっぱりと云った。
「悪い、おれ、不合格だ」
『えっっ』
この言葉には、俺だけじゃなく一紗も固まった。
塾の模試では優秀な結果を残し、合格間違いなしと云われていた青衣である。
「試験の前日にお参りに行っただろう。あの日、家に帰ってからずっと体調が悪くて。試験当日も、サイコーに具合が悪かった。問題文もろくに読めなかった。だからダメだと思っていたんだ。瀧本くんのところに行くと云ったのも、ほんとうはもう限界で、保健室で休ませてもらおうと思ったからで」
早口で喋りながら、なぜか青衣は涙目になっている。
「引っ越しの話で揉めたとき、両親と賭けをしたんだ。英徳に受かったら、おれは海外にはいかず、ここに残るって。勝算は十分にあった。自信もあった。まさか、こんな形で、ふたりと……別れるとは、思わなくて」
あの青衣の目から、涙がこぼれてくる。
次から次へと。
俺は、気付いてしまった。
もしかしたら、姿を消していたとき、青衣は、ひとり泣いていたのではないか、と。
あの神社で、携帯を切り、朝からずっと、泣き続けていたのではないかと。
腫れて赤くなった目元と、涙の痕がそれを証明している。
「おまえたちと離れるのは、正直、つらい。だけどこれは両親との約束だし、おれの力不足だ。だから、次に会うときまでには、こんなふうに、つらくて、苦しい思いをしない自分になる。努力する。成長する。だから、今回は、さよならだ」
感極まって、一紗が再び大声で泣き出した。
青衣も泣いていた。
俺も、いつの間にか、泣いていた。
泣き虫で、意地っ張りで、しょうもない、似たもの同士の俺たちは、こうして、春の訪れとともに別々の道をゆくことになった。
その夜、俺はこんな夢を見た。
はじまりは、小言。
「あなたは、私が見ていないと、勝手なことばかりするんですから」
狭いボックス席の窓際に腰掛けていたタヱさんは、これ見よがしにため息をついた。
通路を挟んだ向かい側のボックス席では、トトキが新聞を広げている。たぶん、聞こえない振りをしているのだ。
「そうやって聞こえない振りをするのは昔と変わりませんね。もう老眼鏡はいらないんですか?」
「バカにするな。ちゃんと見えている。おまえは随分と皺が増えたな」
嫌味を受けたタヱさんは、すっと居住まいを正した。
「ええ、お陰様で人生を楽しませて戴きましたから。夫に先立たれた妻は長生きするらしいですよ」
「そゃあ良かったな」
「でも先日、女学校時代からの友人が亡くなってしまったの。遺影を見たけれど、とてもいい顔で。ああ、私もあんな笑顔で逝きたいと思っていた」
そこで、沈黙がおりる。トトキは新聞をめくり、タヱさんの言葉を待っていた。
「長生きするということは、必ずしも良いことばかりではないんですよ。体の自由はしだいにきかなくなるし、たくさんの友だちを見送らなくちゃいけない」
タヱさんは、窓のほうを見ている。
見ているのは、窓の外の暗闇ではなく、窓硝子に映る、自身の顔であり、反対側に座るトトキの姿だ。
「やっとここに来られた。もうすぐ、あなたが見せたがっていた黄泉ノ国の桜が見られるんですね」
「……あぁ、きれいだよ。昔みたいに、手作り弁当を持って、花見をしよう。あの桜は、一年中、枯れることがないんだ。毎日だって花見できる」
「あら、毎日私にお弁当を作れと云うの?」
タヱさんはゆっくりと立ち上がると、トトキのとなりの席に移動した。新聞を取り上げて、顔を覗きこむ。
「いいですよ。おかずは何にしましょうか。あなたが好きな野沢菜漬けは、向こうでも漬けられるんですか?」
「ああ。煙をこねれば、何でも作れるよ」
「まぁ、楽しみ」
いつの間にか、タヱさんの姿は、幼い少女の姿になっている。長い黒髪を左右で結んだ、小学生くらいの女児に。
「そのまえに、ちょっと寄り道をしよう。この列車なら、どこでも行ける。息子が独り立ちしたら、ふたりで色んなところに旅行に行く約束をしていただろう」
「そうでしたね。じゃあ、旅の間は、お互い名前で呼び合いましょう。重嗣さんがいいですか? それとも、重嗣を「じゅうじ」と読み替え、漢字に当てはめた十時と呼びましょうか。むかし、私がつけたあだ名でしたね」
トトキは新聞を取り返すと、「どちらでもいい」とぶっきらぼうに答えた。
列車は暗闇を進んでいく。ふたりはこれからどこへ行くのだろう。どんな旅をするのだろう。
たぶん、俺にはもう、ふたりの旅の行く末を見ることはできないだろう。
でも、きっと、良い旅になるだろう。
遠ざかる列車の車内からは、明るい光と楽しげな声がもれてくる。




