其の壱 : 【黄泉路にて ②】
そいつはさ、大崎青衣っていう。見た目も名前も女みたいだけど、男。小学校からの付き合いなんだ。
でさ、すこし、変わっているんだ。名前も性格も、根本的に、なにか、違っているんだ。俺たちと同じ眼球で、同じものを見て、俺たちと同じ手足で、同じ距離を歩いたって、なんか、違うんだよ。うまく説明できないけど。
そいつ、高校入試の前日、塾の帰りに、思い出したように云ったんだ。合格祈願をしていこう、と。
あいつらしくないからさ、俺は「珍しいな」って、口にしていた。
「珍しいな、青衣。おまえの口から『祈願』なんて言葉が出るなんて。神様なんか信じる性格じゃないだろう」
「ほうかな? ほうでもはひよ」
口を不自然にもごもごさせながら、青衣が答える。訳すると、そうかな、そうでもないよ、と云っている。
「……飴を舐めながら喋るのはやめろよな」
「ほいほい」
青衣は頷きながら、コーラ味のチュッパチャップスを取り出した。
女もののような青衣という名を、本人は案外気に入っているようだった。実際、顔立ちは女みたいに細く、整っていて、肌は薄く化粧を施したかのように白い。
「神様なんて信じてないけど、なんだかんだ云っても、最後はやっぱり神頼みかなと思ってさ」
「んー、まぁ、そうだな。高校受験の合格祈願に。もう暗いけど、ちょっとくらいなら」
既に暗くなっていた真冬の夜空には、数え切れないほどたくさんの星が散らばっていた。
「えー、青くんひとりで行けば。時間がもったいない」
静電気を気にしながら、ショートボブの髪をかきあげたのは、一紗だった。青衣と同じく、小学校からの幼なじみだ。
わずかな時間を惜しむように、この暗がりでも英単語帳を開いている。
「わかってるの、私たちの第一志望の英徳高校は、県内でも有数の難関校なんだよ。神様に頼みごとしている暇があったら、英単語のひとつでも頭に叩き込みなよ」
高校受験を前に、ピリピリとした空気になるのは仕方のないことだ。だが、一紗は、それがあまりにも極端に態度に表れる。
焦りと、不安と、そして一紗の思い入れの強さが、そうさせる。
「そうカッカするなよ。今年は、隣の市にできた新設校に志願者が殺到して、英徳高校の競争率はだいぶ下がったじゃないか。ラッキーだよ。志願者のうち、三人に二人は入学できる計算なんだから」
だからそう焦らなくても、と続けたかったわけだが、一紗の鬼のような形相を見ると、どうやら裏目に出たらしい。
「全ッ然わかってないじゃない。逆でしょ。三人のうち、ひとりは落ちるってことなんだからね」
条件反射で、耳をふさいだ。怒りの矛先が俺自身に向くのはいつものことだ。
「悪い悪い。そういうつもりじゃなくて。ほら、困ったときの神頼みって言葉もあるだろう。たまにはいいじゃないか。なっ」
俺は笑ってやり過ごすしかない。それが善処策だと経験で知っている。
一紗は呆れたように単語帳をしまった。非難めいた眼差しを向けてくる。
「秋尋はいつも青くんの味方するんだよね。神頼みもいいけど、高校入試は個人の実力がすべて。私たち三人とも、小学校はずっと同じクラスで、中学では同じ塾だったけど、いつまでもどこまでも一緒ってわけにはいかないんだよ」
「はいはい、受験の厳しさなんて、云われなくても知ってるよ。だからこそ、」
「三人で行きたいんだ」
俺の言葉を継いだのは、青衣だった。
「一緒にいられる時間は、あとわずかなのかもしれない。これが最後かもしれない。だからさ、行きたいんだ。三人で」
青衣は不思議な奴だ。
ふだんの青衣は、「優等生」の典型だ。頭もいいし、気も利く。どちらかといえば大人しくて、物静かな人間だ。だけど、俺たちの前でだけは、ちがう。口調は昔からのすこし乱暴なものに戻るし、時折、こんなふうに、強く何かを主張する。有無を言わせぬ、口調で。俺は、そういうところ、嫌いじゃないけど。むしろ嬉しい。
青衣が強気になると、一紗は逆に自分の主張を引っ込める。
この日も、「しょうがないなぁ」と白旗をあげた。
ふたりの付き合いは俺よりも長い。父親同士が同じ会社に勤めているため、別棟だが同じ敷地内の社宅に住んでいるのだ。物心ついたころからずっと一緒にいるので、互いの性格はよくわかっている。
「こっちだよ。すこし歩く」
渋々了承した一紗と俺が、青衣の案内で向かったのは、街外れだった。
街灯の少ない薄暗い道を、川沿いに歩いていくと、不意に、目の前に石段が現れた。短いけれど、勾配の急な石段の上には、朱塗りの明神鳥居が建っている。
「比良坂神社、ね」と、石段下にあった石碑を一紗が読みあげる。
地元に住む俺も一紗も、知らない名だった。
「昨日の雪が残っていて滑りやすいから、足元には気を付けて」
青衣は慣れた様子で石段をあがっていく。
滑る、と聞いて、人一倍受験に敏感な一紗は、冗談じゃないという顔をした。だが青衣がさっさと上がっていってしまうので、左手で手すりを掴み、右手で俺の腕に捕まるという、万全の体勢でついてくる。
「一紗、歩きづらいんだけど。つーか、巻き添えになるじゃん、俺」
「うふふふ、私が滑ったら、秋尋も道連れにしてやるんだから。絶対に、放さないんだから。絶対に」
俺の腕に力をこめながら、一紗は、真剣な眼差しを向けてくる。
いつまでも一緒にはいられない。そう云った当の本人が、こんなにも、必死な顔をする。必死になって、俺にしがみついてくる。
一紗は、本当は、あんまり成績がいいほうじゃない。頭の問題ではなく、帰宅の遅い両親にかわって、幼い弟妹や年老いた祖父母の面倒を見ているから、どうしても勉強する時間が限られてしまうのだ。第一志望に俺と同じ高校を選んだのは、どう考えても無謀だと思えた。
だけれど、一紗には、一紗なりに、ゆずれない想いや、願いがあるのだろう。
俺には俺の意地があるように。
「だったら、両手で、こっちに掴まれば」
そう声をかけると、一紗は手すりを掴む手を放し、俺の腕にしがみついてきた。ようやく笑顔を見せる。
「しっかりと掴まれよ」
明日、明後日、一年後、十年後、一緒にいるのかはわからない。だけど、いまは、一緒にいる。同じ時間と同じ空気を共有している。
だから、これでいい。
頂上までは、そう時間はかからなかった。
先に到着していた青衣は、鳥居の下で、俺たちを待っていた。だが見つめている方向は、俺たちではなく、空のほうだった。
なにが青衣をそんなに夢中にさせるのかと振り返ると、無数の星が散らばる夜空に、上弦の月が、ふわりと浮かんでいるのが見えた。
「星、すごい数だな。あの星の数と英単語の数、どっちが多いかな」
青衣のもとにたどりついたところで、声をかける。青衣はこちらに視線を向け、数えたって埒が明かないよ、と苦笑い。
一紗は月に息を吐きかけながら、「合格発表のころには、月も満月になっているかな」と呟く。
青衣は、どうかなぁ、と首を傾げる。
「この先に、御神体を納めた祠があるんだ。すこし変わっていて、岩肌に掘られた洞窟の中にあるんだよ」
「詳しいな。青衣は、よく来るのか?」
「んー、たまに」
云いながら、視線をそむける。
「比良坂って、そういえば、聞いたことある。黄泉比良坂。イザナギノミコトが、妻イザナミノミコトを追って黄泉ノ国に降りたものの、そこで変わり果てた妻の姿を目にして、逃げ帰ってきた、あの世への入口だって」
「へぇ、ずいぶんと薄情な神様だよな、イザナギって」
「まぁ、神話だしね。……でも、秋尋なら、どうする? たとえば、好きな人が、急にいなくなって、ようやく探し当てたとき、その人が変わり果てた姿になっても、それでも、抱きしめたり、キス、したりする?」
控えめな問いかけに、俺は「わかんね」と即答した。一紗は不満そうに口を結ぶ。
「ふたりとも、こっちだよ」
先に行っていた青衣が手を振る。
砂利が敷き詰められた小さな境内には、手水舎、社務所、絵馬奉所がこぢんまりと佇んでいる。肝心の社は、と探してみると、参道と書かれた看板の向こうに、もうひとつの鳥居が見てとれた。その先には、対岸の岸壁がそそりたっている。木と縄だけで編み上げた簡易な打ち橋が、対岸に向かって伸びていた。
「じょ、冗談よね」と青ざめたのは、高所嫌いの一紗だ。
橋のはるか下手には、雪解けの影響を受け、ごうごうとうねる川が流れている。
黒々とした水面に、時折、境内の灯りがちらりちらりと揺れては、すぐ見えなくなる。
及び腰の一紗に対し、青衣は橋を身軽に渡り、既に対岸に移っている。
「青衣、待てよ」
追いかけようとした俺は、一紗に腕を掴まれ、引き戻される。
「行かないで、秋尋。ひとりにしないでよ」
青衣は、対岸で、俺たちを待っている。
早く、と急かすでもなく、大丈夫だよ、と促すでもなく、見ている。
そういうときの青衣の眼は、不思議だ。ちょうどこの下を流れる川のように、真っ黒な瞳のなかに、戸惑う俺の姿を映し出す。鏡みたいだ。
青衣はひとつ瞬きすると、鏡のような瞳を、空へと持ちあげた。
また月を見ている。
なんの感情も乗っかっていない眼で。
なにを考えているのか、口にもしないで。
――ひどく、心がざわついた。
帰りの時間を気にして、月という時計を見上げる、そんなふうに見える。月を見つめる青衣を見ていると、そんな不安におそわれる。どこか、遠いところへ帰ってしまうような気になる。
心がざわつくんだ。どうしようもなく。
この気持ちを、なんと呼べばいいのか、わからない。