其の捌 : 【空欄 ①】
がたがたがたがたがたがた
目を開けたとき、俺は既に、列車の中にいた。体を大の字に広げて、床面に倒れている。
クリーム色の天井をぼーっと見つめたまま、俺は近くにいるはずのそいつに声をかけた。
「椅子に引っ張り上げてくれたっていいじゃないか、トトキ」
「いやだよ。きみ、重いから」
傍らの椅子についていたトトキは、広げていた新聞の頁をめくった。
俺は体を起こし、トトキと向き合う座席に腰をおろした。自殺して、トトキの列車に拾われた数日前の再現をしている気分だった。
「……青衣は、どうなった?」
「悪夢から解放され、先に現世に戻っているはずだ。良かったね、きみも現世に戻れるんだ。『小野篁』という、黄泉ノ国の使者として。本当に運がいい」
「それって、死人が動いているってことになるのか?」
「そうさ。生きている人間とよく似た〈皮〉をまとってね。せいぜい苦労するといいよ」
新聞をめくりながら、トトキが笑う。
「今回は、まぁ、シラヌイ様の口添えもあったし。あなたは本当に運が良かった。らっきーだった」
「シラヌイといえば、結局何者だったんだ?」
トトキは新聞を畳んだ。こちらの質問に真剣に答えるつもりがあって、新聞を読むのをやめたのだろう。
「彼の本当の名は、スサノオノミコトという」
「……え」
「黄泉ノ国から還ったイザナギは、穢れを落とすため禊をした。彼の有名なアマテラスやツクヨミのあと、最後に生まれたのがスサノオだ。スサノオは、母に会いたいといって父を困らせたそうじゃないか。そして、最後には母のいる黄泉ノ国へと下りた」
「あれ、でもさ。トトキ。イザナギって、ひとりで子ども生めるのか?」
「は?」
「だって、黄泉ノ国から還ってきて、河原でひとりで生んだんだろう?」
間が空いた。
だってひとりで子どもが生めるのなら、男神と女神が夫婦になる必要はない。
「……あー」
トトキは気まずそうに視線をそらした。
「黄泉ノ国でも、ふたりはやっぱり夫婦だったってことなんだろう。常識的に考えれば、子どもたちは、黄泉ノ国でイザナミの腹から生まれたんだ。そうでなければ、スサノオが「母」について知る機会はないし、「母に会いたい」などと口にするはずもない」
トトキの云わんとしていることは、だいたいわかった。直接的な表現を避けようとしていることも。
「つまり、イザナギとイザナミは、いまも昔も深く愛し合っているってことか」
「……ま、そういうことだね」
トトキはこの話題を終わらせたいらしく、畳んでいた新聞を再び広げた。
白々しい。
「そうだ。秋尋さん。ひとつ、言伝がある。黄泉ノ国の住民は、特権として、ひとつ願いを叶えてもらえるんだ。あなたはなにを望む?」
俺はすこし考えた後、云った。
それを聞いたトトキは、「いいの?」と目を細める。
「秋尋さんは、また辛い思いをするんだよ?」
「うん、いいんだ。今回のことで、一番泣かせたあいつに、ちゃんと云ってなかったからな」
一両編成の小さな列車は、まっくらな闇を分け入るように、奥へ奥へと進んでゆく。
枕木の振動がかすかに伝わる以外、何の音も聞こえなかった。
どこか遠くで、ピー、と汽笛が鳴った。
「もうすぐだね」
笑みを浮かべて、トトキが云った。
「秋尋さん。覚悟はできている?」
目がくらみ、なにも見えなくなった。
なにも聞こえなくなった。
またしばらくすると、がらがらがら、と枕木が鳴った。
その音は、ひとつずつ、ひとつずつ、すり替わっていった。
がらからがらからがらから
やがて、まったく違う音にすり替わった。
からからから。
なんの音だろう、と耳をすましてみる。
からからからから。
あぁ、と思い至る。絵馬の音だ。
こっちだよ、こっちこっち。としきりに呼んでいるようだ。
「着いたよ」
トトキの声で、ぱっと目を開ける。




