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黄泉国奇譚  作者: 芹澤
28/31

其の漆 : 【女神 ⑤】

 目を開けると、見覚えのある宇津川の河原に佇んでいた。

 もう日が暮れる時間だというのに、ちいさな男の子が、川に入って、水底を虫捕り網ですくっている。

 その後ろ姿には、覚えがあった。

「あおい」

 秋尋の声は届いていないようだった。

 夕陽を浮かべ、影が濃くなった河原は、水音の激しさに包まれている。

 だけれど、目の前に居るのは、間違いなく青衣だ。幼い頃の青衣。

 ここは、青衣の夢なのだ。

「俺を呼んだのはおまえか? 青衣」

 夢のなかだと承知しつつ、秋尋は声をかけてみた。小さな眼差しは、水面に吸い寄せられたままだ。

「あーヤバイな。ちょっと無理だったか」

 場にそぐわない呑気な声が聞こえた。

 驚いて顔を上げた先に、シラヌイの横顔があった。

「シラヌイ。おまえ、なにを?」

「アオイがおまえに会いたがっていたからさ、ちょっと手を貸してやったんだ。悪夢の中に、秋尋の魂を引きずり込むって荒業を。ただ、本人が悪夢に捕まってしまった」

「青衣は、どうなるんだ?」

「このまま悪夢に捕まって、生きることも死ぬこともできない。解放できるのは、たぶん、おまえだけだ。一緒に帰ろう、と云ったんだろう」

 青衣の悪夢とは、一体、なんだろう。秋尋は幼い青衣を振り返った。

 宇津川の下流のダムは、水量に応じて水門の開閉がされるが、日に日に気温が上がるこの時期は、雪解けの水が激しく、開放されたままになっていた。

 水門へと向かって流れていく水のうねりは荒々しく、激しい。子どもが呑まれたらひとたまりもない。だからこの時期は河原へ近付かないようにと、電力会社から注意喚起のチラシとともに警報が鳴らされる。

 何か言葉を引き出そうと、秋尋は、しきりに虫捕り網が差し込まれる水底を見てみた。

「青衣。底のほうに、何か、見付けたのか?」

 秋尋の声が聞こえたのか、ややあって、青衣が小さく頷き返した。

「底のほうに、きらきらと光るものが見えたんだ」

 青衣は再び虫取り網を動かす。

「なぁ、青衣。もう暗い。帰ろう?」

 できるだけ優しい声で、秋尋は呼びかけた。

 網を突っ込んだまま、青衣はうつむいた。

「おれ、ほんとうは、死にたいと思っていたんだ」

 急に大人びた口調になって、青衣が言い出した。

「兄が、いたんだ。セイタという名前だった。兄といっても双子で、ほんの一分か二分早く産まれただけなのに、なにかと悪事を働くおれに代わって、いつも謝って、叱られている。それなのに笑ってるんだ。理由を訊くと、一分だろうが、一秒だろうが、青衣を押しのけて先に生まれたのは自分なんだから、弟の代わりに謝ったり叱られたりする責任があるって」

 青衣の肩が震えた。

「兄が死んだあと、おれは、それを認めることができなかった。冥福を祈ることすらしなかった。別世界のように変わってゆく周囲の人間が怖くて、逃げ道を探して、そして、秋尋を選んだ。本当は、誰でも良かったんだ」

 しぼり出すような声で、青衣は続ける。

「はっきり云う。おれは秋尋を兄の代用にした。身代わりにしたんだ。兄が一緒にいたらこうするだろう、こう云うだろう、そんなことばかりを考えていた」

 秋尋は、悔しかった。青衣がこんなに苦しんでいることを知らなかったことや、どんな想いで笑顔を浮かべていたのか気付かなかったことが。たまらなく悔しかった。

「変わらないものが欲しかった。変わらず傍にいて、変わらず笑ってくれる存在が欲しかった。だけど、部活をはじめた秋尋は、どんどん変わっていった。だからおれは、秋尋から距離を置いて、次を探したのに、気がつけばいつだって、秋尋の情報を集めていた。自分で自分がわからなくなっていった。秋尋は変わっていく、一紗ちゃんは見違えたように勉強して将来のことを語る。一方のおれは、右にも左にも動けなくなって、息苦しくなって、死にたい、と、そう思った」

「どうして、云ってくれなかったんだ」

「云うもんか。止めるとわかっている奴に、どうしてこんな話ができるんだ。死にたいと一言口にした時点で、おれとおまえとの友情は、終わる。おまえはおれが死なないよう監視し干渉するだろうし、おれは死への憧れを益々強め、見境なく死のうとするだろう。そんなねじれた関係になりたくなかったんだ」

 ふたりは、とてもよく似ていた。

 変わらないものを求めた秋尋。

 変わることを恐れた青衣。

 別々の方法で、それぞれが選んだのは、同じ、死という逃げ道だった。

 互いを想う気持ちが、互いの首を絞めあったのだ。

「だから、ほんとうは嬉しかったんだ。川に落ちる直前、おまえは云った。ふたりでいけば、怖くはない、と。おれ、嬉しかったんだ。死にたいと思いながら、おれは、死ぬ覚悟ができなかったから」

 振り返った青衣は、瞳にたくさんの涙をためていた。

「秋尋、おれを生き返らせてくれてありがとう。だけど、おまえに返すよ。おれとおまえの生死をまた交換すればいいんだ。そうしたら、おまえは生き返れる」

 秋尋が「おまえ」と云いかけたところへ、懐中電灯の光とともに足音が近付いてきた。

「青衣、そこにいるのか?」

 セイタだった。石垣を伝って、青衣のもとへと近付いてくる。

「兄ちゃん」

 答えた青衣の虫取り網が、なにかに引っかかった。幼い青衣は、急に網が引っかかったことでバランスを崩し、落水する。そこへ、勢いを増した水が押し寄せてきた。

 青衣の小さな体は、瞬く間に水にくるまれ、下流へと連れ去られる。

「青衣ッ」

 セイタが駆け寄ってくる。勢いそのままに、なんのためらいもなく、河に飛び込んだ。

 ふたりの姿は、暗闇に紛れて見えなくなる。

 秋尋はその姿を追いかけた。辺りは真っ暗で、足元は不安定な砂地。

 それでも追いかけた。

 ダムがもうすぐそこという場所で、岩にしがみついている人影を見付けた。青衣だ。秋尋が近くまでいって手を伸ばすと、ぱしん、と振り払われた。

「……ねぇ、虫取り網をとってきて」

 様子がおかしい。

「早く。兄さんを拾い上げるんだ。早く」

 急かされるまま秋尋が虫取り網をとってくると、青衣は奪い取るようにして手に取り、岩のうえに立った。水の中にゆっくりと網を入れる。

「何をするつもりだ?」

 青衣は竿の先端をぎゅっと握りしめ、無心に底をさらっている。

 ぱしゃん。

 ぱしゃん。

 時折網をすくいあげるが、川底の小石や、なにかの植物の種子が包まれているだけだ。

「青衣、何をしているんだ。そこに何があるんだ」

「ここに、兄さんが掴まったんだ。声をかけてくれたんだ。大丈夫だから、しっかりしがみついていろよって。それから、なにか云ったんだ。ごめん、と云った気がする。よく聞こえなかったんだ。水の音がうるさくて。だからおれは、兄さんに近付こうとして手を離しかけた。それを制止しようとした兄さんが先に手を離して……。おれは、流れてゆく兄さんの手を掴んだのに、その手を離してしまった。そして、」

 水に呑まれるのを、見た。

「ここにいるんだ。ここで沈んだんだ。兄さんは、ここで死んだんだ」

 青衣は、虫取り網を無闇にかき回す。

 秋尋は気付いた。青衣たちが流されてから少なからず時間が経っているはずなのに、まだ夕陽が浮いている。いや、位置が変わっていないのだ。時間が進んでいない。

「青衣、これは」

 そこへ、懐中電灯の光とともに足音が近付いてくる。

「青衣、そこにいるのか?」

 セイタだった。石垣を伝って、青衣のもとへと近付いてくる。

「兄ちゃん」

 答えた青衣の虫取り網が、なにかに引っかかった。幼い青衣は、急に網が引っかかったことでバランスを崩し、落水する。そこへ、勢いを増した水が押し寄せてきた。

 青衣の小さな体は、瞬く間に水にくるまれ、下流へと連れ去られる。

「青衣ッ」

 セイタが駆け寄ってくる。勢いそのままに、なんのためらいもなく、河に飛び込んだ。


「――やめてくれッ」


 秋尋は叫ぶ。

 同じことが繰り返される。

 ここは、悪夢なのだ。

 どうしたら、止められるのだろう。悪夢を断ち切れるのだろう。青衣を悪夢から救い出せるだろう。


『――走ればいい。あなたはいつも、そうしているだろう』


 耳元で、からかうような声がした。トトキの声だ。

 はっとして顔を上げた秋尋の目の前で、セイタが流されていく。

 秋尋は爪先を蹴った。

 風が背中を押してくれる。このまま走ればいい、すぐに追いつくさ、と。

 あっという間に距離を縮め、さらには追い抜くと、流れに逆らって、河を横切った。

 流れてきたセイタを捕まえる。

「大丈夫か、セイタ」

「おれより、青衣は」

 見れば、青衣は、また同じように虫取り網を手に、川底をさらっている。

 悪夢から、抜けられずにいる。

 秋尋の手を借りて川岸へあがったセイタは、青衣の背中に近付いた。青衣はこちらを振り向こうともしない。

「あおい」

 秋尋は、そ、っと名前を呼ぶ。

 青衣には届かない。

「青衣」

 もっと大きな声で名前を呼ぶ。

 水音にかき消される。

「青衣、こっちを向けッ」

 肩を掴み、青衣を振り向かせる。驚いた拍子に虫取り網が落ち、川下へと流され、すぐに見えなくなった。

「青衣。おまえは云ったよな、変わらないものが欲しいって。だから俺を選んだって。だけど青衣、変わらずにいることは難しい」

 秋尋はちいさな青衣の肩を抱いた。

「沖野が云ってたんだ。変わらないこと、動かないこと、それは死ぬことと同じだって。俺はこれからも変わりたい。変わり続けたいと思う。だけど、変わらないものもある。おまえや、一紗や、母さんたちに対する気持ちだ。これだけは絶対に、変わらない。何十年、何百年経っても、変わらない」

 青衣は信じられないような表情で瞳を瞬かせている。

「だから、生きよう。そして、証明しよう。何十年経っても変わらないものがあると、証明しよう」

「……う」

 瞳にたくさんの涙を浮かべる青衣。

 秋尋の言葉を受けて、セイタが微笑みかけた。

「青衣。おまえはこれから、いままで以上にたくさんの思い出を積み上げていくんだろうね。人生っていう解答用紙の多くはまだ空欄ばかりだ。それをひとつひとつ埋めていく。それがすべて埋まったところで、ぼくに解答用紙を見せてくれればいいよ」

 青衣は、黙って、唇を噛んでいた。セイタは前かがみになり、青衣の髪を軽く撫でる。

「覚悟しておくといい。ぼくの採点は辛口だ。おまえがとんでもない解答をしていたら、別室に呼び出して説教してやるから」

「それから」と、セイタは釘を刺すように続けた。険しい表情で。

「解答用紙が空欄ばかりだったら、赦さないからな」

 兄弟は顔を見合わせる。

 青衣は、ともすれば漏れそうになる嗚咽をこらえるように、震える唇を無理やり引き上げた。

「うん、うん、うん、わかってる。わかってるよ、云わなくても、わかってたんだ。ただその言葉が、欲しかっただけなんだ」

 死ぬ覚悟を固めるのは、何気なく放たれた一言だったりする。

 だけれど同時に。

 生きる決意を固めるのも、同じ一言だったりする。

 人の心は振り子のように揺れている。それを止めるのも、動かすのも、案外、簡単なのだ。

 セイタは、青衣から離れ、満ち足りた表情で、秋尋を見上げた。

「秋尋、色々と迷惑かけたね。ごめん。でももう、大丈夫だ。青衣の悪夢は終わった。おれは、帰るよ」

 そう云って振り返った先に、シラヌイの姿があった。

「十年前に死んだおれは、裁判を受けることを拒んだんだ。湯に入る度、記憶が消えると知って。トトキの目を盗んで死者の列から逃げ出したものの、餓鬼に襲われた。そこを、シラヌイ様に助けてもらった。そして自ら、魂を差し出したんだ。シラヌイ様の中に留まり、いつか、また、青衣に会うために」

「……青衣に会ったおまえは、これからどうなるんだ?」

「うん、シラヌイ様の一部になる。そういう約束だったからね」

 他人事みたいに、セイタは呟く。

「……ごめん、こういうとき、なんて云ったらいいのか、わからない」

「秋尋はそのままでいいよ。青衣はそこが気に入っているんだろうから。変わったら、秋尋は秋尋じゃなくなる。せいぜい頑張って」

「その厭味ったらしい云い方は、青衣とそっくりだな」

「まぁね。……青衣を、よろしく頼むよ」

 セイタはひらりと手を振って立ち去っていく。

 秋尋は思った。

 ――さよなら、とは云わないんだな。

 きっと、再び会うときまでとっておく言葉なのだ。いつか、青衣が人生を全うしたそのときに。

 東の空が明るくなってきた。悪夢が終わるのだ。

 

 ざわざわざわざわざわ


 ふいに、女神の声が聞こえた。

「そなたたちは面白い。ころころと、あちらこちらへ感情が転がっていく。見ていて飽きぬ」

 格好の見せ物になっていたことに気付き、秋尋は顔を赤らめた。

「皆川秋尋。そなたを『小野篁』に任じ、此岸における無期限の駐在を命じる。人としての生を、せいぜい謳歌するがいい。わたくしも、おまえの姿を愉しませてもらう」

 女神の声が遠のいていく。しだいに視界は黒く黒く塗りつぶされ、やがて、何も見えなくなった。

 右も左もわからなくなった秋尋に、サキの声が降ってくる。

「秋尋。トトキが列車を用意しているわ。それに乗って、現世に戻りなさい。きっと飛ばしてくれるわよ」

 暗闇を裂くように、白く輝く封筒が舞い降りてきた。

「最後のお願い。それを届けて欲しいの。あの人たちに」

 どこにいるかもわからないサキへ、最後の言葉をかける。

「必ず、届けます。サキさん、ありがとう。また、」

 ためらいつつ、「また、いつか会おう」と続けた。

 サキの笑い声が返ってくる。

「気休めの約束なんてしなくていいの。あなたはあなたの人生を、まずはちゃんと全うすること。そのあとで、また会えたらいいね」

 最後まで、サキの声は明るい。

 暗闇に差し込む太陽のようだ。

「さようなら」

 秋尋は呟き、そっと目を閉じた。

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