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黄泉国奇譚  作者: 芹澤
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其の漆 : 【女神 ④】

 目の前に、自分の顔があった。

 いや、違う。鏡に映る自分の顔だった。

 周りの景色は黒く塗りつぶされ、自分の顔だけが、ぶらりと宙に浮いている。

 サキはどこに行ったのだろう。女神の座所に着いたのだろうか。

 呆然と眺めていると、鏡の中の自分が、口を開いた。

『憎い』

 秋尋自身の声で、そう呟く。

『あぁ、憎い。青衣が憎い。トトキが憎い。なにもかもが憎い。一体俺が何をしたって云うんだ』

 きぃ、と音を立てて、鏡が反転した。そこには、青衣の顔が映る。唇が動く。

 だが響く声は秋尋のものだ。

『俺は青衣を迎えに来ただけだ。あの暖かい日々を取り戻したかっただけだ。それなのに』

 きぃ、と音を立てて、再び鏡が反転した。次に映ったのは、トトキの顔だ。

『他人の事情なんて知ったことか。俺には関係ないじゃないか』

 再び、鏡がまわる。

 父の顔が映った。遠い昔に見た顔、そのものだった。

『父に捨てられ、母親とふたり、苦労して生きてきたのに。あんなに頑張ったのに、高校受験にも失敗した』

 鏡が反転し、醜く歪んだ秋尋の顔が映った。

『どうして俺は死ななければいけなかったんだ』

 叫ぶような声だった。

『どうして、どうして、どうして』

 幾重にも反響する声。自分が発している者なのか、他の何者かが発している声なのか、わからなくなった。

 秋尋は、すっと背筋を伸ばし、真っ直ぐ前を見た。

「……誰のせいでもない。俺が、弱かったからです」

 静かな声で、云った。

「誰かに強制されたわけではないんです。死を選んだのは、俺自身です」

 胸を張って、姿勢を正して、はっきりと告げた。

「女神イザナミ。あなたと話がしたいんです。出てきてくれませんか」

 辺りを覆っていた黒いものが引いていく。虫のようだった。秋尋の足元をぞわぞわと這って、やがてどこかへ消えてしまった。

 気がつくと、畳敷きの、小さな和室に佇んでいた。

 雪見障子の下半分が開かれ、花曇りのようにぼんやりとした光が差し込んでいる。室内には芳しい香が焚かれていたが、目の前の脇息にゆるりと寄りかかっている人物からは、明らかな腐臭が漂ってきた。

 薄紅色のゆったりとした着物は、肩の張り方や胸の膨らみを想像させる流れや皺をつくっていたが、顔にあたる部分には、左右を螺子で留めたような、両面鏡が乗っていて、本来そこにあるべき顔面や首筋はどこにもない。

 傍らには、サキが端座していた。目が合うと、坐れ、とでも云うように手のひらを上下にさせた。秋尋は目の前の人物がイザナミノミコトだと確信して、正座した。

「あなたが、女神イザナミノミコトですね」

 秋尋の問いかけに、目の前の人物が、応えた。だが、ざわざわざわ、と到底聞き取れない雑音でしかなかった。

「女神はいかにも、と仰っています」

 答えたのは、サキの声だった。

 秋尋が瞬きすると、女神が座る一段高い座の下に、八人の女性が控えていた。サキはその中にいる。彼女の役目は、女神の通訳なのだ。

 女神が、ざわざわざわ、とまた何事かを呟く。サキがすかさず訳した。

「おまえはいま、何を考えている?」

 女神の顔、すなわち鏡が、くるりと反転した。映ったのは、見知らぬ人物の、驚いたような表情だった。

 ざわざわざわざわざわ、少し長く、女神が喋る。

「わたくしはこれまで、幾多の人間とこうしてまみえ、その心の内にある強い感情を映し取ってきた。憎しみ、苛立ち、焦り、不安、様々な感情を集めてきた。おまえはいま、何を考えている? なんという感情を抱いている? おまえのその凪いだ海のような穏やかな表情は、なんと呼ぶ? 答えよ」

 女神の鏡がくるりと反転し、秋尋の顔が映った。強い眼差しが、こちらを見据えている。軽く閉じていた唇は、「わかりません」と応えた。

「自分の折々の感情を形容したことがないので、いま浮かべているこの表情をなんと呼ぶのか、それはわかりません。ただ、いま胸の内にあるのは、現世に戻りたいという強い願いと、そこで待ち受けるすべてのものを受け止めようという覚悟です」

 ざわざわ。

「覚悟、とな」

「女神はどうしてそんなことを知りたいのですか?」

 ざわざわ。

「わたくしには、感情がないからだ」

 張りのあるサキの声がそう告げる。発された言葉と、声の雰囲気は、まるで別物だった。

 通訳であるサキと、女神の心が、およそかけ離れているからだと想像がつく。

 サキは、辛い体験をいくつも経て、死んだ。こちらへ来てからも、夫への未練を捨てきれず、苛々とした日々が送っていたが、すべては愛情の裏返しであると気付き、自らの感情を受け止めた。感情に振り回されたサキと、感情をなくしたという女神は、まるで違う。

 秋尋は神話の内容を思い出す。イザナミは、自分を迎えに来たはずの夫イザナギに裏切られたのだ。何人もの子どもをつくるほど、深く愛し合っていた夫が、死んだ自分にわざわざ会いに来てくれた。その喜びはどれほどだっただろう。だが、夫は自分の醜い姿を見るなり、手のひらを返したように逃げていき、遂には、千曳磐で出口をふさいでしまった。その怒りと哀しみは、想像もできない。

「女神は、夫であるイザナギを憎んでいるのではないですか?」

 ざわざわざわざわざわ。

「わからぬ。わからぬから、知りたい。地上に未練を残し、憎い憎いと口にする者の心をいくら映しとっても、満たされた気がしないのだ。きっと、『想い』とはそれひとつで成り立つものではないのだろう。そう思ったから、様々な感情に触れ、この鏡に映しとってきた。だが、何千、何万人とっても、これぞ、と云えるぴたりと当て嵌まるものが見つからない」

 女神の顔が目まぐるしく反転する。

 いろんな人々の、様々な表情が映っては消える。

「女神。それは当然のことです。自分のものではない、他人の感情が、自分の感情にぴたりと嵌まるはずがありません。生まれた場所、育った環境、性別、兄弟、親、友人、恋人、学校、好き嫌い……ひとりとして同じ人はいないのですから、他人の中から探したって無駄です。あなたがあなた自身の心の海に潜って探さなくては、他の誰も見つけてくれません」

 女神は考え込むようにしてうつむいている。きっと困っているのだろう。だが本人は、それがなんという感情かわからないでいる。

「少しなら、手伝えます。たとえば、あなたはどうして、罪を犯した人の魂をここに留めているんですか? その理由が、なにかしらの感情につながっているかもしれない」

 女神はしばらく黙っていたが、意を決したように、ざわざわ、と話し始めた。

「約束をしたからだ。その相手が誰なのかは知らん。だが、彼奴の云ったことは憶えておる。わたくしは、大きな磐の前で、磐の向こう側にいる彼奴に云った。わたくしは一日千人の人間を殺そうと。すると彼奴は返した。ならばわたくしは、一日千五百の産屋を建てようと。わたくしはもっと話をしたかったが、彼奴はそれだけ言い残して、足音とともに去っていった。しばらく待ってみたが、彼奴は戻ってこなかった。きっと約束を守るため、離れていったのだろうと思い、ならばわたくしは約束を守ることにした。一日千人の人間を殺し、それと同時に、一日千五百の魂が去っていくのを見送った。だがあるとき、ふと、思った。もし、なんらかの間違いが起きて、生まれる魂がひとつでも少なかったら、と。そうしたら彼奴は、どうするのだろう、と」

 そこまで聞いて、秋尋は自分なりに考えを巡らせた。

 もし魂が足りなかったら、不足した魂を補うため、夫イザナギは千曳磐を開き、こちらの世界に来るのではないか、と。そうしたら、女神は夫に会うことができる。こちらは自分の領域なのだから、どこかへ閉じ込めることも、殺してずっと傍に置くこともできるかもしれない。

 その行為を感情に直すのだとしたら、愛とも呼べるし、憎しみとも呼べるし、独占欲とも云える。様々な感情が複合的に混じり合って、とてもひとつにはしぼれない。

「もし魂が足りなくて、約束が守れなかったとしたら、そうしたら、彼奴は……あぁ、そうだ。ひどく困るのではないかと思った」

 声は、サキのものではない。

 はっとして鏡があった場所を見ると、そこには、きちんと頭部が乗っていた。切れ長の細い眼をしているが、その瞳にたたえた光は穏やかで、赤子を慈しむような、優しい顔つきをしている。

 この人が、イザナミノミコトだ。

 薄い唇から、楽しそうな声がこぼれる。

「彼奴は少し抜けているのでな、魂が欠けていても、すぐには気付かぬ。だが気付いたときには慌てふためき、天地を揺るがすほど、動揺するだろう。その様は、見ていて飽きぬし、面白いのだが、力が強いゆえに、周りに迷惑をかける。自身がそれに気付くのもまた遅いのだ。だから、彼奴が、他のことに気を配らなくてもいいよう、真っ直ぐ前を向いていけるよう、陰に日なたに支えるのが妻たるわたくしの役目。急ぎ用立てる魂が必要となったときのため、わたくしは、五百の魂を手元に残しておくことに決めたのだ。五百は、わたくしが殺す千人と、彼奴が導く千五百の魂との差の数だ。輪廻転生に支障のない、最低限の数でもある」

 秋尋に、返す言葉などなかった。

 女神が抱く、夫への深い愛情と、思いやりと、信頼、それから少しの悪戯心……そんなものを、ひとつの感情にまとめることなど、できなかった。

「女神。俺も、約束をした人がいるんです。約束を果たせぬまま、ここに来てしまったんです。どうか、もう一度だけでも、会うことはできませんか?」

 すると女神は、首を振った。

「その必要はないだろう。おまえを夢の中へと導く橋は、既に架かっている」

 女神は秋尋の背を指し示した。

 秋尋は振り返る。だがそこには、襖がふさがっているだけだ。

「目を凝らせ。耳を澄ませ。悪夢の中で、奴が待っている」

 女神が云う奴とは、青衣のことだろうか。目を凝らしたが、やはり何も見えない。ただ、かすかに、襖の向こうから川のせせらぎが聞こえてくる。

 秋尋はゆっくりと歩み出て、地獄変の描かれた仰々しい襖を開いた。一瞬、ぱっと視界が開け、眩いほどの光に包まれた気がした。

 川下へ向かってうねりながら流れていく濁流と、その濁音にかき消されまいと声を張り上げる子どもの姿が見えた。

「あおいッ」

 次の瞬間、秋尋の魂は悪夢に引きずり込まれた。

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