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黄泉国奇譚  作者: 芹澤
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其の漆 : 【女神 ③】

 英徳高校へ続く坂道を駆け上がると、満開の桜の木が見えた。その下で待っている、小柄な人物と目が合う。

「トトキ」

 名を呼ぶと、トトキは「おかえり」と呟いた。かすれた声だった。

「女神が、きみに会いたがっている。案内役を仰せつかったんだ。気にくわないだろうけれど、ついてきて」

 トトキは、笑ってみせる。ほっそりとした肩や、痩せた体つきは、どこか所在なさげに見えた。

「ありがとうな、トトキ。迎えに来てくれたんだろう。それから、もうひとつ、ありがとう。黄泉ノ国での生活、結構、楽しかった。たぶん俺ひとりだったら、青衣を見つけることもできず、肉体の限界がきて、ただ死んでたと思う。青衣を生き返らせることができたのは、トトキのお陰だ」

 満面の笑みを浮かべる秋尋に対し、トトキは戸惑ったような顔を浮かべる。

「……なんで、そんなふうに笑うの? ぼくを、憎んでいるんじゃないの。あなたにとっては、裏切り者なんだよ」

 秋尋はかすかに頷き、うつむきながら、歩き出した。

 無数の百足が集まってくる。壁や街並みを埋め尽くし、気付くと、トトキと秋尋のふたりは、人気のない廊下を歩いていた。

 武家屋敷を思わせる風景で、板張りの床は艶々とした輝きを放つが、踏みしめれば、ぎしぎしと音を立てる。漂ってくる匂いは、どこかかび臭い、雨上がりの匂いだ。そこに、ほのかに香の匂いが混じっている。

「歩きながらでいい。話してくれ。裏切った理由を。それを聞いてから、殴るかもしれない。手加減できないかもしれないけど、勘弁な」

 どうしてトトキが、自分を裏切ったのか、トトキの口から、聞きたい。

 トトキは沈黙を返した。秋尋の言動に呆れているのか、その拳に怯えているのか、あるいは両方か。

 しばらく経って、トトキは、顔を上げる。

 許しを乞うように、祈りを捧げるように、遠くを見ていた。

「ぼくの待ち人である妻は、ほんとうなら、五年前に死んでいるはずだった」

 トトキの近くに、ひらりと一羽、黒蝶が舞い寄ってきた。

「その年の春、ぼくらの息子に、待望の第一子が生まれる予定だった。彼女は、孫の誕生を長いこと心待ちにしていた。だけど、臨月に入ったところで、彼女の名が鬼籍に載ってしまった」

 もう一羽、黒蝶が。

「ぼくは思った。せめて、孫の顔を見られるまで、寿命を延ばせないかと。ぼくは焦っていた。とっさに、鬼籍に載った彼女の名を消し、かわりに、友人の名前を書いた。その友人ももう高齢で、先は長くなかったから…。こうして、彼女の寿命は、数ヶ月、延びた。――それだけで、終わりにすれば良かったんだ。ぼくは」

「繰り返したのか? 寿命の据えかえを?」

「産まれた孫は、息子に似た男の子だった。ぼくが死んでからの十年。ひとり淋しく過ごしていた妻が、あれほど喜ぶ顔を見たのは久しぶりだった。罪滅ぼしの意識もあったんだろう、孫と過ごす時間を、一分でも一秒でも長く。孫の初節句まで、三歳まで、五歳まで、いくらでも、いくらでも欲張りになれた。いつしか他人を殺す罪の意識はなくなって、妻の名が鬼籍に載るたび、寿命の長い若者の名前を上書きするようになった」

 気がつくと、無数の黒蝶が飛び交っていた。

 トトキが奪った命と、トトキが失った罪悪感と同じくらいの数の蝶が。

「若者は寿命が長いとは云っても、しょせん、他人のもの。二十年分の寿命があっても、年老いた妻には一年程度にしかならなかった。神社を詣でる参拝者を中心に、寿命を書き換えていった。参拝すると死ぬ、とでも噂が流れたんだろう、参拝者の数は激減し、やってくるのは、アオイさんだけになった」

「それで、青衣の寿命を? でも、長いこと、青衣には手を出さなかったんだな」

「それも、妻のためだった。妻は、彼がやってくるのを楽しみにしていたから」

 トトキは息を吐いた。

「きみにもわかるだろう。ぼくがどれだけ自分勝手なのか。たぶん妻はそんなこと望んでいないんだろうけれど、それでも、ぼくは」

 トトキの顔つきが変わる。口調が強くなった。初めて会ったときからそうだ。

「自分が納得したいだけだった。自分が満足したいだけだった」

 トトキが心を揺らし、声音を強めるのは、いつだって他人のことだ。

 その小さな背中に、抱えきれないほど大きな想いを背負い込んでいるのだ。

「あなたたちを巻き込んだことは、本当に申し訳ないと思っている」

 ごめん。

「未来あるあなたたちのことを、一番に想ってあげることができなくて」

 ごめん。

「こんなことをしてしまったぼくを、あなたは許さないだろう。ぼくたち夫婦のことなんて、あなたには与り知らぬことなのに」

 ごめん。

 頭を下げるトトキの頭を見下ろしながら、秋尋は考える。


 許す。

 許さない。


 その判断基準はなんだろう。当事者から包み隠さず話を聞き、それを自分の内側に一度おさめて、そして出てきた感情が、


 納得した。

 納得できない。


 その違いではないか。

「トトキ。顔、上げてくれよ」

 秋尋は体を低くして、トトキの肩に触れる。

「トトキ。俺、わからないんだ。あんたは、確かにひどいことをした。それなのに、俺の中にないんだ。キライだ、とか、憎い、とか、許せない、とか。そういう感情が、いくら探しても、見つからないんだ。だから、トトキが悪いのか悪くないのか、俺には、わからない。答えられない」

 秋尋は自分の心の底にもぐりこむ。息を止める。きついけれど、目を見開く。

 そして探す。トトキを憎む理由を、必死で探す。

 だけれど、見つからない。

 そもそも、存在しない。

 トトキは、厳しいことを云うが、ちゃんと、優しい顔もする。

 トトキは、おかえり、いってらっしゃい、と声をかけてくれる。

 トトキは、夜中に灯りをつけて、熱心に鬼籍を見ている。目が合うと、「眠れないの」と蒲団をかけなおしてくれた。

 トトキからは、秋尋がとうの昔に失った「父親」の匂いがした。

「秋尋さん。あなたは優しいね。そして、臆病だ。ぼくの言い訳を聞き、腑に落とすことで、自分を納得させようとしている。人を憎んだり恨んだりするのは、とても労力を使うからね」

「……そうかもしれないな」

 きっと自分は弱い人間なのだろう。

 だから、欲しがるのだ。自分の弱さを許してくれる人を、求めてしまうのだ。

「でもさ、これが最後になるかもしれないじゃないか。だからせめて、笑って別れたい。俺、もう、泣けないし。笑うことしか、できないんだ」

 だから、精一杯、笑う。

 トトキのために。自分のために。

「死後の裁判を受けず、ここに留まる方法があるよ。ひとつだけ」

 おもむろに呟くと、トトキは鬼籍を秋尋に差し出した。

 秋尋は反射的に受け取ろうとして、だが、手を止めた。

「どうしたの? 寿命の入れ替えなんて、もうしないよ。この鬼籍も、いい加減、愛想を尽かしたらしい。ぼくにはもう開くことができない。だからきみに貰って欲しい」

「いま、俺がこれを受け取ったら、あんたは、どうなる? この蝶たちは、なにが目的で集まっている?」

 トトキは「鋭いね」と笑った。

 だけれど、自分がどうなるかは答えない。

「トトキッ」

「迷っている時間はないよ。きみが鬼籍を持ち、『小野篁』職を引き継げば、職務を全うする間は、次の裁判を受けなくても良くなる。職権で、現世とを自由に往来することもできる。青衣さんたちにも会えるんだ」

「勝手すぎる」

「そうだよ。ぼくはいつだって自分勝手だ」

 トトキの目つきが鋭くなる。いつか比良坂神社で見た、青衣の横顔に似ていた。決意を固めた顔だ。

「秋尋が鬼籍を受け継いだその瞬間、トトキは蝶たちに喰われるわ」

 甲高い声が割り込んでくる。揃って顔を上げると、靄がかかったような奥深い廊下から、ずかずかと大股で歩いてくるサキが見えた。

「そこにいる地獄黒蝶は、とても凶暴で、魂に飢えているかなり危険な生物なの。鬼籍はいわば契約書。鬼籍を持つ者を、腹減らしの黒蝶は襲わないというね。つまり、鬼籍を手放した途端、トトキは失職し、黒蝶たちにとっては単なる餌になる」

「なっ…トトキ、あんた、そのつもりで」

 秋尋はばっと両手を挙げ、トトキから数歩離れた。

「サキさん。あなたは、余計なことを。大罪をおかしたぼくが罰を受けるのは当然のことでしょう」

「あんたのことなんか知らないわ。ここは女神の御殿。そこで食餌なんてされたら困るの。それだけ。ね、ライちゃん」

 サキの後ろから、真っ白な蛇が姿を見せた。ちろちろと長い舌を伸ばし、黒蝶たちを睨みつける。

黒雷くろいかづちだ」

 トトキが息を呑んだ。

「くろいかづちって」

「イザナミの体から生じた八柱の雷神のうちの一柱だよ」

「…だから、ライちゃん?」

「秋尋さん。突っ込みどころは、そこじゃないと思う」

 蛇ににらまれた蛙よろしく、雷神に睨まれた黒蝶たちは、凍て蝶のように動きをとめる。

 支柱や手すりに掴まり、しばらく様子を見ていたが、やがて諦めたように西の空へと帰っていった。

「さ、行きましょう。女神はとっくにお待ちなのよ」

 目を丸くする秋尋の腕をがしっと掴むと、来たときの勢いそのままに、奥へと引きずっていく。

「サキさん、えっと、トトキは」

「トキ爺はここで待機。どうせ女神の座所までの道なんてわからないんだから。ライちゃんを置いていくから平気よ。ここから先はあたしが案内役」

 秋尋はちらりと後ろを振り返り、鬼籍を手にしたまま立ち尽くしているトトキに声をかけた。

「トトキ、良かったな」

 それを聞いたトトキは、一瞬、とても切なそうな顔をした。

 秋尋は、トトキを気の毒に思った。

 自分と触れ合ったこの数日間など、トトキと妻が過ごした時間に比べれば、本当にわずかな時でしかないのに、トトキは、喜ぶこともしない。きっと、優しい人なのだ。

「トトキ、また、あとでな」

 秋尋が手を振ると、トトキは黙って、深く頭を下げた。姿が見えなくなるまで、トトキは頭を上げなかった。

「サキさん、トトキは、どうなるんでしょう」

 秋尋は、ずんずんと前に進んでいくサキに声をかける。

「どう立ち回っても、失職は免れないわ。鬼籍そのものが、トトキを拒否しているんだもの。だからといって、トトキが喰われても、地獄に落ちても、死んだ人たちが生き返るわけじゃない。残された道は険しい上に、少ない」

「残された道の、その中でも一番良い道を選べればいいんですけど」

「ほんと、秋尋ってお人好し。あたしはそこまで善人になれない」

「俺も、自分で自分に呆れます。思いきり憎めれば楽なんでしょうけど」

 それを聞いて、サキは鼻で笑った。

「秋尋には無理よ」

 サキは不意に立ち止まり、秋尋を振り返った。

「ねぇ、聞いて。あたしね、もうすぐ、此処から消えると思う」

 明るい口調で、なんでもないことのように云うので、秋尋は危うく聞き流しそうになった。

「消えるって」

「手紙、書いたの。時間かかったけど。でもそうしたら、なんでだろう、とても心が晴れやかになって、あぁ、あたし、もう、ここにいる必要がないんだと思ったの。もうすぐ、となりの街への列車に呼ばれると思う。だから、たぶん、あなたとはこれでお別れ」

 サキが笑う。心からの笑顔だった。

「ありがとね。とてもとても感謝してるのよ。話を聞いてもらうだけでこんなに心が軽くなるのなら、もっといろんな人に話を聞いてもらえば良かったっていうのが、ちょっと悔しいけど、きっとそれに気付く余裕もなかったのね」

 祝福すべきなのだろうか。それとも、まだ此処にいて欲しい、と云うべきなのか。

 どちらの言葉も選べず、なにも云えない秋尋の頭をサキがぺしぺしと叩く。

「そんな顔しないの」

 優しい声だった。

 サキの顔を見たら、泣いてしまいそうだった。うつむいたまま、手を引かれていった秋尋は、サキの冷たい手の感覚が消えたところで、はっとして顔を上げた。

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