其の漆 : 【女神 ①】
「もう、来ないと思っていたよ」
萬年堂の店先でひとり碁を打っていた沖野は、いま気付いたとばかりに、秋尋に声をかけた。
雨の中、傘も差さずに歩いてきた秋尋は、全身が黒く濡れていた。水を含んだ前髪の一房からは、絶え間なく水が滴り落ちていく。
「なんだか、変わったね。この前会ったときと、匂いが違う。まるで」
沖野は、目を細めた。
「あぁ、なるほど。他の客と匂いが違うと思ったのは、そういうことか。皆川くん、あのときは、まだ死んでいなかったんだね」
「……悪かったな。云わなくて」
「惜しかったなぁ。もっと早く気付いていれば…なんてね。まぁ、立ち話もなんだから、入れば。相手がいなくて退屈していたんだ。オセロなら、できるだろう」
秋尋は承知して、かび臭い店内に足を踏み入れた。勧められるままパイプ椅子に腰掛け、沖野が店の奥からオセロ盤を持ってくるのを待った。相変わらず、店の奥には、置物のように眠る老婆の姿がある。
「よそ見をするなよ。さ、はじめよう」
先手は沖野だった。黒い石を、ぱちん、と盤に打つ。
「きょう、逝くのかい?」
秋尋は白石を置きながら頷いた。
「俺は、この国の住民ではないから、いられるのは、きょうまでだ。夕刻、電車が出る」
ぱちん。石を置く音が、高く、響く。
「で、冥土の土産に、大崎青衣の話をしたかった、ってこと? オレが相手でいいの?」
「悪いな」
「いやいや、謝るのはこっちのほうだ。この前は、皆川くんに〈殺意〉を向けてごめん。ちょっと虫の居所が悪かっただけなんだ」
殺意をたぎらせた沖野の眼を思い出す。
いま目の前にいる人物とは、まるで違う。
「でも、おまえは、青衣を憎んでいたんだろう? だからこそ、遺書に名前を書いたんじゃないのか?」
「んーまぁ、そうなんだけど」
歯切れの悪い返事に、秋尋は戸惑いの表情を浮かべる。
「オレがなんで皆川くんのこと知っていたのか、不思議に思わなかった?」
「……それは、そうだけど」
「オレさ、一時、大崎青衣と〈友達ごっこ〉していたんだけど」
友達ごっこ。その言葉に、心が波立つ。
秋尋が共有したくてもできなかった青衣との時間を、沖野は知っているくせに。
「皆川くん、陸上部に入っていただろう。大会の記録やなんかが、職員室前の廊下にひっそりと掲示されていたの、知ってる? 誰も見ないようなその記録を、大崎はわざわざ遠回りして見に行っていたんだ。オレも何度か一緒に見に行ったけど、数字の羅列ばっかりで、ちっとも面白くないの。なのに大崎は、花火でも見上げるように笑顔なんだ。記録縮まってる、また速くなった、すげーって、子どもみたいに喜んでんの。莫迦って呆れた。だけどさ、ちょっと、羨ましかった。こんなふうに誰かに気にしてもらえるのって、嬉しいことだろう」
秋尋は白石を持ったまま固まった。
「だ…だってあいつ、一度だって、来たことないぞ。大会にも、記録会にも、一度もだ」
「来いよって誘ったことは?」
「……ない。だって、来たいって云われたことない。あいつ、人混みに行くと必ず風邪もらってくるし、もし来たとしても、俺、相手してやれないし」
「だからだよ。大崎はよくわかってるんだ。大会の日程を忘れずメモしているくせに、自分から行きたいとは云わない。皆川くんにとって大事なのは、試合結果であって、誰に応援してもらったか、じゃないだろう。大崎は、そういう奴だ」
なにもかも知っているような口振りだった。
ふたりは、たった半年の付き合いでしかないはずなのに。
「オレが死んだ件の顛末を皆川くんが尋ねたときも、大崎は話さなかっただろう。あれも、遠慮してなんだ。皆川くんは大事な大会を控えていた。自分の件に口を挟んで、たとえばきみが報復に出るようなことがあったら、まず大会には出られない。自分が近くにいることで、足手まといになりたくなかったんだと思う」
秋尋の問いかけに、いまは云えない、と答えた青衣。あれは、そういう意味だったのだ。
気付かなかった。気付けなかった。
「きみたちのお互いへの優しさって、なんか、うまく噛み合ってないよな。変なところで空回りしてる。大崎はたぶん気付いているんだろうが、皆川くんはそれすら怪しい」
イライラする。
「ふたりに必要なのは、ただ黙って一緒にいるだけの時間じゃない。心ん中をぶちまけるような、殴りあうような、口喧嘩だ。云いたいことや聞きたいこと、話したいことが、いっぱいあるんだろう?」
苛々する。
「だからさ、つまり、」
「云われなくてもわかってるんだよ、そんなことはッ」
力いっぱい、盤を叩いた。白と黒の石が弾け飛んで、ばらばらになった。
「ちくしょう……ちくしょー、なんで、なんでおまえなんかに云われなくちゃいけないんだ。なんでおまえなんだ。なんでだよ」
溜まっていたものが、涙になって、一気にあふれだした。
自分の心の大部分を占めるのは、いつだって青衣の存在だ。
青衣以上の存在を探して、部活に打ち込んだり、必要以上に多くの交流関係をもってみたが、やっぱり同じところに戻ってきてしまう。堂々巡りだ。
変わらない。
変われない。いつまでも。
沖野はばらばらになった石を拾い集め、崩される前と同じように並べた。続きをやろうというのか、秋尋に向かって顎をしゃくった。
秋尋は、白石を手に取った。
「俺、まだ、青衣に聞いていないことがあるんだ」
合格発表の日。ほんとうはなにをしていたのか。どうして、自分たちから姿を消していたのか。
「お兄さんのことだってそうだ」
どうして教えてくれなかったのか。
「引っ越しのことも」
互いに秘め事があるのに、どうして親友だと云いきれるんだ。
青衣に聞きたいこと。
聞いて欲しいこと。
話したいこと。
数えられるわけがない。
「いくつ挙げたって構わないよ。気長にやってくれ」
ぱちん。
「つまり、沖野は何もかも知っているってことか?」
ぱちん。
「いや、その逆。オレの答えはひとつだけだからさ」
ぱちん。
「ひとつだけ?」
残り数手となったところで、決め手となる右隅に、沖野の黒石が置かれる。盤のうえは、たちまち黒く塗りつぶされ、秋尋は自分の敗北を思い知った。
項垂れる秋尋を見下ろすようにして、沖野は肩を揺らした。
「オレの答えはひとつ。『本人に訊け』。それが一番手っ取り早いし、確実だ。元々そのつもりでいたんだろう」
「それが出来れば苦労ないよ……けど、どうやったって、もう、無理だろう。俺は、死んでしまったんだし」
勝ち目は無いと思い、秋尋は手にしていた白石を片付けようとした。それを制するようにして、沖野が腕を伸ばす。
「角を取られたら負けなんて誰が決めたんだよ。ためしに置いてみろ。そこの空欄にさ」
云われるまま、秋尋は自信なげに白石を置いた。やる気の無い秋尋にかわって、沖野が石を引っくり返していった。ぱちりぱちりと心地良い音とともに、盤上の景色は一変する。なんの意味もなさないように思われた隅の白石と、いま置いた石とが急につながりを持ち、黒面を白く割いていく。
最後に石の数をかぞえると、わずかに白石がまさった。
「皆川くんの勝ちだ。どんでん返しにどんでん返し。だからオセロは面白い。そうだろう」
下手な説教を受けているようで、秋尋は渋面を浮かべていた。
「最後まで何があるかわからない、って云いたいのか? 俺が生き返る方法があるとでも?」
沖野は涼しげに聞き流す。
「莫迦だな。生死は勝ち負けじゃないだろう」
沖野は、決め手となった秋尋の白石を、こつこつと軽く叩く。
「見ろよ、この一手。一見、何の意味もない、ただの穴埋めみたに見えるだろう。だけど、見方を変えれば、まったく意味のなかったものとつながることもあるし、そこに布石とも呼べるものが存在することに気付くこともある。皆川くんが次の一手を打ったことで、意味が生まれたんだ。つまり、動かなければ、何かとつながることもないし、何かに気付くこともない。本当の死って、何もかも諦めて、立ち止まってしまうことだろう」
石をかき集める沖野を、秋尋はまじまじと見つめた。すごいな、という感心と驚きと尊敬とともに。
沖野とは、面識はない。現世においては、言葉を交わしたことすらない。
いじめられて自殺した、気の毒な奴、くらいにしか思っていなかった。
此処に来て、こうして言葉を交わさなければ、おそらくは、二度と思い出すことのなかった人物だろう。こうしてつながりをもつこともなかった。
「そうだな。沖野が教えてくれなければ、俺はきっと、負けていたよ。空欄を埋めることも諦めていたよ。……ありがとう」
沖野は、顔を伏せていた。ガラでもないことをした、と恥じ入るように。




