其の陸 : 【変わらないもの ①】
「来てくれたのね。一紗ちゃん、青衣くん」
退院したおれが、再び秋尋と対面を果たしたのは、秋尋の自宅だった。
小菊や百合の花に囲まれて眠る秋尋は、すっかり冷たくなっていた。
一紗は、顔を見るのを拒んだ。首を振り、肩を震わせ、おれがなだめすかしても、棺がある座敷には決して入ろうとしなかった。
おれはひとり、棺の横に端座して、動かない秋尋を眺めている。
こうして遺体を眺めても、冷たくなった体に触れても、なにも、感じなかった。なにも、思わなかった。
いま棺の中にあるのは、秋尋に似た別のもの、としか思えなかった。涙も出なかった。
「一紗ちゃん。青衣くん。ありがとうね、秋尋、きっと、喜んでるわ」
一紗に付き添っていた秋尋の母親が、やつれた顔で座敷に現れた。
おれの知っている秋尋の母親は、幼い秋尋を家に残し、分厚い化粧と鼻がむずむずするような香水で武装して、大股で出勤していく人だった。
秋尋はその姿を、戦地に赴く女武者のようだと称した。すごいだろ、カッコイイだろ、母さんは毎日闘っているんだ。
淋しいとも、傍にいて欲しいとも、口にしたことはない。
だが、いま、おれの目の前にいるのは、瞳に生気がない、痩せ細った餓鬼のような女性だった。
「オオサキくん」
トイレを借りると云って、一紗がいなくなったとき、不意に、呼びかけられた。
青衣くん、ではなく、オオサキくん、と。
「はい」
「……こんなこと云ったら、秋尋には、怒られるでしょうけど、もう、顔を見せないで。今夜のお通夜も、告別式にも、来ないで。あなたも、ご両親も、来ないで。お願いだから」
母親は、後ろめたさを隠すように、棺から目を背けていた。
「あなたを見ていると、私、おかしくなりそうなの。わかるでしょう? いまだって、なるべく台所のほうを見ないようにしているの。わかるでしょう? 刃物を見たら、きっと、私、とんでもないことをするわ。わかるでしょう?」
来るな、という。
最後の姿を、見るなという。
秋尋はおれを探すため、神社にやってきた。それなのに、秋尋だけが戻ってこなかった。ひとりぼっちになった彼女にはそれが許せない。
そして、おれが戻ってきたことを内心喜んでいる両親の姿も、見たくない。見たらきっと、呑まれてしまう。〈殺意〉という鬼に。
「わかりました」
おれは、頭を下げた。
母親は、安堵したように、微笑んだ。
トイレから戻った一紗とともに秋尋の家を出たおれは、しだいに暗くなっていく夕暮れの空の下を、無言で歩いた。
もうすぐ社宅の敷地に入る、というところで、一紗が足を止めた。
「ねぇ、一体、なにがあったの。青くんは自殺なんて考える人じゃないし、警察の人は、ふたりは誤って橋から転落したって云ってたけど、でも、そうだとしたら、その、首」
一紗の視線は、おれの首筋に張りついている。そこにある、何者かに両手で首を絞められたような指の跡を見ている。
おれは首筋をマフラーで隠しながら、首を振った。
「……ごめん。よく、憶えていないんだ」
誰になにを訊かれても、そう答えることに決めていた。
だいいち、おれにもすべては答えられない。
答えの半分は知っている。だけどもう半分の答えは、秋尋しか知らないことだ。
「ねぇ、お父さんの転勤で、春には海外に引っ越すって、ほんとうのこと?」
唐突に、話題が変わる。
おれは黙っていた。
「なんで、秋尋に云わなかったの?」
「高校入試のときは、まだ、決定じゃなかった。父だけ単身赴任か家族帯同か、うちの中でも、ギリギリまでもめていたから」
「でも、結果的には、一緒に行くんでしょう」
「母さんが、そう望んだ。家族はいつどこでも一緒にいるべきだって。兄の…青太のことがあったから」
セイタ。
その名を口にした瞬間、一紗が、ひくっと嗚咽を漏らした。
「セイくんのことだって、そうだよ。どうして秋尋に云わなかったの?」
「うっかり名前を口にしたことはある。だけど秋尋は憶えなかっただけだ」
一紗は、真っ赤になった目を何度も何度もこすっている。
おれも、そうあるべきだと、そう云いたいのだろう。自分のように泣きわめいて、悲しみを共有しようと云うのだ。
「なんでそんなにふつーでいられるの。秋尋が死んじゃったのに、ここにいないのに、笑っていないのに、どうして青くんはそんなふうに立っていられるの? セイくんが亡くなったときだってそう。他人事みたいな顔してた。青くんには悲しいって気持ちがないの」
だって、わからないんだ。
悲しいって気持ちが、わいてこないんだ。
「悲しければ、泣かなくちゃいけないのか? 泣かないと、悲しいことの証明ができないのか? だったら、教えてくれよ。どうしたら泣ける? どうしたら、一紗ちゃんみたいに心の底から悲しめる?」
一紗の傍へ歩み寄る。たけど一紗は後ずさりしながら、「来ないで」と叫んだ。
「……もう、いい。青くんと喧嘩したところで、秋尋が帰ってくるわけじゃないもの」
疲れたように吐き捨てると、おれの横をすりぬけ、自宅へと駆けていった。一度も振り返らずに。




