其の壱 : 【黄泉路にて ①】
少年は、この姿になってからも、指先をぺろりと舐めてから、糊のきいた地元新聞を開く癖がある。長い時を生きてきた彼にとっては、指先を舐めて新聞をめくる年月のほうがはるかに長かった。
心地よく揺れる列車のシートに背中を預け、当たり前のように足組みをして、膝の上に乗せた新聞を読んでいる。老眼さながらに目を細くして、見開きの記事に目をとおし、ため息をもらした。
「三月十六日夜、卒業式を控えた市内の中学生(十五歳)が、同市内の比良坂神社の境内から、崖下の川へ飛び降りた。学生は緊急搬送され、意識不明の重体となっている……だってさ。おにいさん」
見開きの記事を、声に出して読みあげた少年は、向かいの席に声をかけた。見た目どおりの、少年の口調で。
「自ら命を絶とうとするなんて、物好きな人もいるものだね。――ねぇ、おにいさんも、そうは思わない?」
うつむいて、床の一点にじっと目を凝らしている学生は、夢から覚めたように、何度か瞬きした。
「……あれ、俺、さっきまで高校入試の会場にいたのに。ここ、どこだ」
前髪の一房から、ぽたりぽたりと水滴がこぼれ落ちていく。
「列車の中だよ。おにいさん、びしょ濡れだけど、大丈夫? 顔のあちこちにすり傷もあるし、骨も何本か折れているみたいだね。無理もない。雪解けで水嵩が増した川に飛び降りたんだから、あちこちの岩に体をぶつけたんだね。そうだろう? 自殺を試みたおにいさん」
新聞記事を指先でぱちんと弾くと、向かいの学生は、ようやく顔をあげた。片方の目蓋は腫れあがっていたものの、少年を見る眼差しには、言い知れない光が宿っていた。
「――やっぱり、俺、死んだのか?」
「この列車に乗っているっていうことは、そういうことだろうね。新聞にはまだそこまで書かれていないけど」
学生は黙っていた。言葉を探しているというよりは、単になにか考えているだけのようだった。
「不満そうな顔だね。自分が死んだなんて、到底納得いかないって、顔だ。さっきから、口、開きっぱなしだし」
そう指摘すると、学生はちょっとムッとした顔つきになり、唇をきゅっと閉じた。
ただ、学生は少年が驚くほど落ち着いていて、取り乱した様子もない。それが意外だった。不慮の死を遂げたこれまでの客たちとは明らかにちがう。
死を受け入れて納得した様子もなければ、生への執着をむき出しにして泣き叫ぶわけでもない。
(こんな客を拾ったのは初めてだ)
少年は学生の様子を丹念に窺いながら、心の中で呟いた。
「おにいさん。なまえは?」
「……名前? 死ぬときの手続きに必要なのか?」
学生が濃紫のシートに体を預けると、列車はどうやら螺旋状にくるくると回りながら、下へ下へと降りていっているのがわかった。
彼らが乗っている列車は、真っ暗な闇のなかを進んでいく。レールも枕木もなく、すべるように、闇を走る。
「あなたが死んだかどうかを確認してあげるよ。特別に」
少年は、傍らにあった真っ黒なランドセルの蓋を開いた。満点のテストを見せびらかすように、小さな手で、古びた帳面を取り出す。
「じゃじゃーん」
返り血を浴びたように黒ずんだ表紙には、やけにぎらぎらする安っぽい金箔で、死者名簿と捺してあった。
「教えてあげる。この名簿は、鬼籍と呼ばれ、死んだ人の名前が、自動で、りあるたいむ、に載るんだ。ぼくはこの名簿を管理するため、現世とあの世とを行き来する権限を与えられている。だからこうして、列車を走らせることもできるんだ」
そこまで言い募っても、学生にこれといった反応は見受けられない。
「おにいさん。なにか、りあくしょんを返してくれないと、ぼくが阿呆みたいじゃないか」
「……名前は、あきひろ」
ようやくの返答に、少年は虚を突かれつつ、一呼吸おいて、「よくある名前だね」と唇を尖らせた。
「それだけじゃ探しようもないから、漢字を教えて。あと、苗字も」
「苗字は、みながわ。皆の川。あきひろは、秋を尋ねると書いて、秋尋。皆川 秋尋」
「へぇ、秋尋か。なかなか趣きのあるいい名前だね。秋の風情を尋ねて歩く……いい響きだ。そう思わない?」
水を向けられた秋尋は、自分の名前が褒められたのだと理解したらしく、ぼんやりした様子で顎を軽く下げた。
「はあ、どうも。そういう褒められかたしたことないから、よくわからないけど」
間の抜けた反応に、たまらず、少年は笑い出した。
「いやだな、褒めてるんじゃない。当て擦りだよ。つまり、嫌味ってこと。きみはそんな素晴らしい名前をつけてくれた両親を置いて、先にここに来たわけだろう。最大の親不孝じゃないか」
少年は、かび臭い鬼籍の半紙を一枚ずつめくると、丹念に名前を読み込んでいった。鬼籍には、生前の名前のほか、享年や出生地、死因などが掲載されている。
やがて、もっとも新しい死者の名前を確認したあとで、ぱたんと名簿を閉じた。
「皆川秋尋くん。おめでとう。まだきみの名前は載っていないよ。生死の境をさまよっている状態みたいだけど、まだどうやら生きているらしい。あ、これは褒めているんだから、素直に喜んでいいよ」
その賛辞にも、当の秋尋は喜びの感情を浮かべない。
列車はトンネルに入ったらしい。くわんくわん、と音が反響して、誰かの絶叫にも聞こえた。
ふぅ、と息を吐いた秋尋は、どこか感慨深げに車窓の向こう側を見やった。
「本当にあるんだな。死者の魂を運ぶ黄泉路列車って」
少年は、ぴくっと眉を揺らした。
「知ってるの?」
警戒心をにじませて、秋尋の顔を窺う。
「ある人から教えてもらった。もちろん、信じていなかったけど」
秋尋は少年に向き直ると、「確認したいことがある」と真剣な眼差しになった。
「俺と一緒に、落ちてきた奴を知らないか?」
「さぁ。少なくとも、いまこの列車に乗っているのはきみだけだ。列車の行き先は、黄泉ノ国。現世…此岸と彼岸の狭間にある、いわば中州のようなところだ。死んだ人間は必ずそこに行き、裁判を受ける」
「つまり、死んだ奴は皆、同じところにいくんだな」
「そうだよ。以前は徒歩でゆくほうが一般的だったけど、いまは、皆、この黄泉路列車を使っている。だけど、黄泉路列車に時刻表はない。死者は駅で待つほかない。あなたは運が良かった」
よく聞け、とばかりに少年は鼻を鳴らす。
「ぼくは、ある客を迎えに現世にいった。そこに、たまたまあなたが落ちてきたのさ。だから、拾うことができた」
「じゃあ、このまま乗っていれば、黄泉ノ国にいけるんだな」
焦れているかのように、秋尋は早口になった。少年はからかうように笑う。笑いながら、云った。
「莫迦が」
びくっと体をすくませる秋尋に、さらに言葉を浴びせかける。
「黄泉ノ国をなんだと思っている? お花畑が広がっている極楽とは訳が違う。わからないか? この列車、谷底へと降りていっているんだ。現世に未練を残した、罪深き死者がさまよう、それは恐ろしい国。あの国にいるのは、心穏やかに死を迎えた人々ばかりじゃない。生への執着をむき出しにしたケダモノばかりだ。まだ命がつながっている『日なたの人間』であるきみなんかが行ったら、彼らは飢えた猛獣のように群がってくる」
少年は、抑揚をつけ、黄泉ノ国の恐ろしさを説いたあと、一転して明るい口調になった。
「さ、こんな列車、早く降りたほうがいい。幸い、おにいさんの体はまだ現世で生きている。一刻も早く、戻りたいだろう? 降りかたを教えてあげるよ」
秋尋は震えている。先ほどから、ずっとだ。
少年はそれに気付いていた。死への恐怖、不安、そういった負の感情がない交ぜになって、怯えていることに。
「それでも……それでも俺は、黄泉ノ国にいきたい」
「往生際の悪い人だなぁ」
少年は嘆息する。
「普通なら、早く降ろしてくれ、現世へ帰してくれ、と半狂乱になるものだよ。少なくとも、ぼくが乗るこの列車に間違って乗ってしまった人たちは、みんなそうだった。きみはちがうの?」
そう云って、シートに深く体を預ける。濃紫の座席は、底なし沼のようにやわらかく、体を受け止める。
「俺だって、好きこのんで、黄泉ノ国になんか行きたくないよ。ただ、一緒に落ちた親友が、そこに向かっていると思うんだ。だから、会いに行く」
秋尋は顔をあげ、まっすぐに少年の目を見た。
「……で、一緒に落ちたっていうその親友さんって、どんな人?」
投げやりな問いかけに、秋尋はようやく笑顔を見せた。
「そいつはさ」と、楽しげに語りだす。