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黄泉国奇譚  作者: 芹澤
19/31

其の伍 : 【殺意 ①】

 俺と青衣が川に落ちた、あの満月の夜。

 ほんとうは何があったのか、いまなら思い出せる。あぁ、違うな。逆だ。なんで忘れていたんだろう。

 あの日は、とても寒かった。だけどその分、満月が、はっきりと見えたんだ。

 金色の、宝石みたいだった。とてもとても綺麗で、見惚れていた。

 あまりに綺麗すぎて、死のうとしている俺ひとりで眺めているのは、少し、勿体ないような気がしたんだ。誰かに教えてやりたいと思った。

 俺は携帯電話を取り出した。一紗にメールを送ろうと思った。内容はなんにしよう。

 一紗はいまごろ、青衣を探してあちこちを走り回っているはずだ。きっと夜空を見上げる余裕なんてないはず。だけど、携帯は忘れずに持っているはず。「青衣が見つかった」と連絡が入るかもしれないから。

『一紗。きょう、夜空を見たか? 満月だぜ。すげーキレイ。見てみろよ。俺ひとりじゃ、勿体ないだろう。ちゃんと見ろよ。ちゃんと覚えておけよ。きょう、俺の命日なんだし』

 はい、遺書が完成しました。

 はい、送信。

 はい、相手に届きました。

 うん、だからもう、後戻りできないな。

 電源を入れたまま、一足先に、携帯を、川へ放り投げた。濁流がうるさくて、ぼちゃんという落水音も聞こえなかった。とっくに呑みこまれて、もうどこかへ流れていってる。

 防水加工だから、しばらくはもつかな。一紗はなんて返信を寄越すだろう。いや、電話かな。

 一紗、怒るかな。こんなときにって。

 それとも、泣くかな。ヤバイな。俺、あいつの泣き顔、どうも苦手。苦しくなるから。

「…………あきひろ?」

 小さい声で、名前を呼ばれた。びっくりした。すぐ近くの鳥居の下に、青衣がいたのだ。こちらを見ている。

「あお、い。おまえ…なに、してんだよ」

 声は、自然と、からかうような口調になっていた。

「遺書残していなくなったっていうから、探してたんだよ。いい迷惑だ」

 青衣は何も云わず、雪を踏みしめながら、こちらへ近づいてくる。俺は、後ずさりする。

「みんな大騒ぎ。パトカーは三台も来ていたし、お袋さんはずっと泣きっぱなし。親父さんの会社の社員も総出で探してくれて」

 なんで青衣がここにいるんだ。

 よりによって、いま、このタイミングで。

 青衣が、すぐ傍らにやってくる。青衣の円い眼は、いつもよりずっと澄み渡り、俺の顔をはっきりと映し出す。鏡みたいに。

 そこに映る俺自身の顔を見た。

 あれ、なんで俺、嬉しそうなんだ。

 死ぬっていうのに。そうだ、死ぬことが嬉しいんだ。もう、苦しくない。淋しくない。悲しくない。それが嬉しいんだ。なんだか変な感じだけど。

「ふざけるなよ、みんなを心配させて。おまえ、なにをしでかしたのか、わかって、」

 青衣に手首を掴まれる。青衣の手が暖かい分、自分の手の冷たさに気付く。

「秋尋。いま、なに、しようとしていた?」

「な、なにも」

 なんで青衣の手はこんなに暖かいんだろう。死に場所を求めて屋外をうろついていたとは思えない。暖房の効いた、室内にいたようだ。

 俺は顔を上げる。社務所の電気が点いていた。あそこか。青衣はあそこにいたのか。

 俺が、悔しくて悔しくてたまらなかったとき、こいつは、あたたかな光に包まれて、のうのうと過ごしていたのか。

 なんだそれ。

 なんだよ、それ。

「いま、なにをしようとしていた?」

 強く、問われる。

 俺は、答えなかった。

 おまえこそ、なにをしていた。

 合格発表の掲示板を見た俺が、呆然としていたとき、歯軋りしていたとき、泣けなかったとき、おまえはなにをしていた。

「答えろ、秋尋」

 青衣はいつもそうだ。いつだって、真っ直ぐ。刃物みたいな言葉を、スッと俺の中に押し込んでくる。俺は、青衣の向ける刃から、自分を守る楯を持っていない。

 だって、俺には、なにもない。

 父親をやめた男。他の男の匂いをまとって帰ってくる母さん。英徳に落ちて三流の高校に行くしかない自分。

 誇れるものを、なにも、持っていない。

「……おまえは、いいよな。青衣」

 おまえを見ていると、俺自身はほんとうになにも持っていないことに気付く。

 旅行やキャッチボールに付き合ってくれる父親。家の灯りをつけて帰りを待っていてくれる母親。優しい近所の大人たち。頼ってくれる友達。幼なじみの一紗。

 頭数を数えたって、意味なんかないけど、いろんな人が、おまえのこと、愛してる。

 それなのに、おまえは、そんな人たちを、心配させているんだ。

「わかってるのか? おまえが携帯切って行方をくらましたせいで、みんな、この寒空の下を駆けずり回っているんだ。俺の母親だって、きょうは、俺のためだけに、仕事を休んでくれたのに。久しぶりに、ゆっくり、話、できるはずだったのに」

 涙が出てきた。

 悔しくて。

 虚しくて。

 たまらなくて。

 あんなに頑張ったのに、なんで受験に落ちたんだ。俺もやれば出来るんだって、証明したかっただけなのに。褒めて欲しかっただけなのに。

 それなのに。

「秋尋。……ごめん、ごめん」

 ごめん? なんだ、その無責任な言葉。

 どの面下げて云ってるんだ。

 ふざけるな。

 俺は、青衣の手をぐいっと引き寄せた。バランスを崩して前のめりになってきたところへ、細首に、俺の冷たい指を食いつかせる。

 ぎしっと橋が鳴った。

「あきひろ、ど、して、おれを」

 俺は、笑いながら、云った。

「死にたいんだろう。だったら、俺が連れて行ってやる。――ふたりなら、怖くはないだろう?」

 そうだ、この言葉を云ったのは、俺だ。

 だって俺たち、ずっと一緒にいたじゃないか。だったら、最後まで、付き合えよ。

 な? 青衣。

 指先に、力を込める。


 チリン。


 どこかで、鈴が鳴った。その瞬間、橋が、大きく揺れた。

 あっと思ったときには、俺と青衣の体は宙へ放り出された。水の音。水の気配。暗闇の中で、てらてらとうねる濁流。


 迎えに来たよ。アオイさん。


 誰かの声が聞こえた。

 迎えに来たって、なんだよ。青衣をどこかへ連れて行くのか? 冗談じゃない。

 俺は、青衣の体をぐっと引き寄せた。

 水音が近くなる。

 あぁ、俺、死ぬんだ。俺がそう望んだとおりに。

 嬉しくて仕方なかった。

 死ぬほど幸せって、きっと、こういうことだ。

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