其の伍 : 【殺意 ①】
俺と青衣が川に落ちた、あの満月の夜。
ほんとうは何があったのか、いまなら思い出せる。あぁ、違うな。逆だ。なんで忘れていたんだろう。
あの日は、とても寒かった。だけどその分、満月が、はっきりと見えたんだ。
金色の、宝石みたいだった。とてもとても綺麗で、見惚れていた。
あまりに綺麗すぎて、死のうとしている俺ひとりで眺めているのは、少し、勿体ないような気がしたんだ。誰かに教えてやりたいと思った。
俺は携帯電話を取り出した。一紗にメールを送ろうと思った。内容はなんにしよう。
一紗はいまごろ、青衣を探してあちこちを走り回っているはずだ。きっと夜空を見上げる余裕なんてないはず。だけど、携帯は忘れずに持っているはず。「青衣が見つかった」と連絡が入るかもしれないから。
『一紗。きょう、夜空を見たか? 満月だぜ。すげーキレイ。見てみろよ。俺ひとりじゃ、勿体ないだろう。ちゃんと見ろよ。ちゃんと覚えておけよ。きょう、俺の命日なんだし』
はい、遺書が完成しました。
はい、送信。
はい、相手に届きました。
うん、だからもう、後戻りできないな。
電源を入れたまま、一足先に、携帯を、川へ放り投げた。濁流がうるさくて、ぼちゃんという落水音も聞こえなかった。とっくに呑みこまれて、もうどこかへ流れていってる。
防水加工だから、しばらくはもつかな。一紗はなんて返信を寄越すだろう。いや、電話かな。
一紗、怒るかな。こんなときにって。
それとも、泣くかな。ヤバイな。俺、あいつの泣き顔、どうも苦手。苦しくなるから。
「…………あきひろ?」
小さい声で、名前を呼ばれた。びっくりした。すぐ近くの鳥居の下に、青衣がいたのだ。こちらを見ている。
「あお、い。おまえ…なに、してんだよ」
声は、自然と、からかうような口調になっていた。
「遺書残していなくなったっていうから、探してたんだよ。いい迷惑だ」
青衣は何も云わず、雪を踏みしめながら、こちらへ近づいてくる。俺は、後ずさりする。
「みんな大騒ぎ。パトカーは三台も来ていたし、お袋さんはずっと泣きっぱなし。親父さんの会社の社員も総出で探してくれて」
なんで青衣がここにいるんだ。
よりによって、いま、このタイミングで。
青衣が、すぐ傍らにやってくる。青衣の円い眼は、いつもよりずっと澄み渡り、俺の顔をはっきりと映し出す。鏡みたいに。
そこに映る俺自身の顔を見た。
あれ、なんで俺、嬉しそうなんだ。
死ぬっていうのに。そうだ、死ぬことが嬉しいんだ。もう、苦しくない。淋しくない。悲しくない。それが嬉しいんだ。なんだか変な感じだけど。
「ふざけるなよ、みんなを心配させて。おまえ、なにをしでかしたのか、わかって、」
青衣に手首を掴まれる。青衣の手が暖かい分、自分の手の冷たさに気付く。
「秋尋。いま、なに、しようとしていた?」
「な、なにも」
なんで青衣の手はこんなに暖かいんだろう。死に場所を求めて屋外をうろついていたとは思えない。暖房の効いた、室内にいたようだ。
俺は顔を上げる。社務所の電気が点いていた。あそこか。青衣はあそこにいたのか。
俺が、悔しくて悔しくてたまらなかったとき、こいつは、あたたかな光に包まれて、のうのうと過ごしていたのか。
なんだそれ。
なんだよ、それ。
「いま、なにをしようとしていた?」
強く、問われる。
俺は、答えなかった。
おまえこそ、なにをしていた。
合格発表の掲示板を見た俺が、呆然としていたとき、歯軋りしていたとき、泣けなかったとき、おまえはなにをしていた。
「答えろ、秋尋」
青衣はいつもそうだ。いつだって、真っ直ぐ。刃物みたいな言葉を、スッと俺の中に押し込んでくる。俺は、青衣の向ける刃から、自分を守る楯を持っていない。
だって、俺には、なにもない。
父親をやめた男。他の男の匂いをまとって帰ってくる母さん。英徳に落ちて三流の高校に行くしかない自分。
誇れるものを、なにも、持っていない。
「……おまえは、いいよな。青衣」
おまえを見ていると、俺自身はほんとうになにも持っていないことに気付く。
旅行やキャッチボールに付き合ってくれる父親。家の灯りをつけて帰りを待っていてくれる母親。優しい近所の大人たち。頼ってくれる友達。幼なじみの一紗。
頭数を数えたって、意味なんかないけど、いろんな人が、おまえのこと、愛してる。
それなのに、おまえは、そんな人たちを、心配させているんだ。
「わかってるのか? おまえが携帯切って行方をくらましたせいで、みんな、この寒空の下を駆けずり回っているんだ。俺の母親だって、きょうは、俺のためだけに、仕事を休んでくれたのに。久しぶりに、ゆっくり、話、できるはずだったのに」
涙が出てきた。
悔しくて。
虚しくて。
たまらなくて。
あんなに頑張ったのに、なんで受験に落ちたんだ。俺もやれば出来るんだって、証明したかっただけなのに。褒めて欲しかっただけなのに。
それなのに。
「秋尋。……ごめん、ごめん」
ごめん? なんだ、その無責任な言葉。
どの面下げて云ってるんだ。
ふざけるな。
俺は、青衣の手をぐいっと引き寄せた。バランスを崩して前のめりになってきたところへ、細首に、俺の冷たい指を食いつかせる。
ぎしっと橋が鳴った。
「あきひろ、ど、して、おれを」
俺は、笑いながら、云った。
「死にたいんだろう。だったら、俺が連れて行ってやる。――ふたりなら、怖くはないだろう?」
そうだ、この言葉を云ったのは、俺だ。
だって俺たち、ずっと一緒にいたじゃないか。だったら、最後まで、付き合えよ。
な? 青衣。
指先に、力を込める。
チリン。
どこかで、鈴が鳴った。その瞬間、橋が、大きく揺れた。
あっと思ったときには、俺と青衣の体は宙へ放り出された。水の音。水の気配。暗闇の中で、てらてらとうねる濁流。
迎えに来たよ。アオイさん。
誰かの声が聞こえた。
迎えに来たって、なんだよ。青衣をどこかへ連れて行くのか? 冗談じゃない。
俺は、青衣の体をぐっと引き寄せた。
水音が近くなる。
あぁ、俺、死ぬんだ。俺がそう望んだとおりに。
嬉しくて仕方なかった。
死ぬほど幸せって、きっと、こういうことだ。




