其の肆 : 【三月二十日、彼岸会 ④】
「おまえは、人をひとり、殺している」
心臓が、どくっと大きく脈打つのを感じた。
汗が噴き出してくる。
秋尋は落ち着きなく、言葉を探した。
「あ、えーと、そうだな、確かに、俺自身の問題に青衣を巻き込んだ。だから、コロシタってことに、なるのかもしれないけど」
舌が乾いて、うまく、動かない。
「いや、違うだろう。おまえは、アオイに〈殺意〉を抱いていたはずだ」
朱墨の瞳は、まるで鏡のように、秋尋を映し出している。
「死んだ奴は、七度の裁判を受けると云ったな。最初に問われる罪の内容は、殺生だ。その最初の裁判長は、秦広王と呼ばれている、女神イザナミその人だ。つまり女神は、殺生を犯した者を裁判で選び出し、この国の住民としている」
サキの言葉がよみがえる。夫の不倫相手を突き飛ばし、流産させたという。
では、トトキは。
「トキ爺のこと考えてるのか? あいつが生きていた時代って、大きな戦があったんだろう。なら、ひとりやふたり、人を殺していて当然じゃないか。まぁ、殺人を犯した者全員が住民になれるわけじゃないけどな。ちゃんと女神に〈選ばれた〉奴だけだ。おまえのように」
では、沖野は。
そして。自分は。
「忘れているのか? おれは、初めて会ったときから、わかってたけど。おまえの中に、どす黒い猜疑心と明確な殺意がべったり貼りついているのを」
揺れる。秋尋の、心の、奥の奥が。
震える。
奥底に溜まっていた泥が、ぶわりと浮き上がって広がるのに似ていた。
「おれ、が、青衣、を」
続きを口にするのは、ひどく、怖かった。
そんなはずはない、と誰かに助けを求めたくなる。
そのとき、秋尋のフードから、鼠が転がり落ちた。シートの上で止まり、秋尋の足元から這い上がってる。
「どーして」
小さな声で、鳴いた。
――秋尋。どうして。
どうして、おれを。
「見ろ、そいつはおまえのもつ〈殺意〉だ。こっちの世界に落ちてくるとき、なんらかの理由で外に出てしまったんだろうな。おまえのもつ強い力を受けてこうして意思をもち、持ち主のなかに戻る機会をずっと待っていた」
鼠は、秋尋を見上げている。
どーして、どーして、と鳴く。
思い出せ、と肩を揺さぶられているような気持ちだった。
「俺が、青衣を、ころした?」
秋尋は自分の手のひらを見下ろした。
忘れていた感覚を思い出す。
青衣の細い首。
触れたときのあたたかさ。
力を込めたときの、あの強張り。
酸素を求めてあえぐ唇。
青ざめていく肌。
もっともっと、苦しめばいい。
もっともっと、力を込めて。
もっと強く。
もっと。
「あぁ、そうだ。あの日、俺は、俺の意思で、俺の手で、青衣を、殺したんだ」
よみがえる殺意。
それが、ひどく懐かしくて、たまらず秋尋は笑った。
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その日の朝。秋尋を眠らせたトトキは、黄泉路列車に乗って、ある場所に向かっていた。
行く先は夢の果て。
秋尋が、毎晩、青衣に出会う場所。
「まさか、夢の中に隠れているとは思わなかった」
トトキは顔を上げた。黄泉路列車が、速度を落としている。キキキッと甲高いブレーキ音が響き、やがて、停車した。
列車を降りると、ひんやりとした空気に包まれた。
机と椅子が整然と並ぶ入試会場に、ひとり、男子学生が座っている。黒板には高校入試、国語の文字があり、学生の机の上には、問題用紙が広げられていた。
トトキは、ずらりと並んだ机を回り込むようにして、ゆっくりと、彼に近付いた。
【問一】次の問いに答えなさい。
昨夜、あなたを殺したのは、誰ですか?
正しく答えなさい。
学生の鉛筆を握る手は一向に動かない。
「なぜ、解答を書かないの?」
こちらが声を発して初めて、男子学生は傍らに佇む人物に気付いたようだった。顔を上げ、瞬きする。
「……あんた、だれ?」
「秋尋さんの知り合い」と答えながら、トトキは彼の手元を覗き込んだ。
解答用紙の氏名欄には、〈大崎青衣〉と書いてある。
「どうして問一に答えないの? 簡単じゃないか。幼なじみの〈皆川秋尋〉と書けばいいだけだ」
青衣はうつむき、鉛筆を手放す。
「書かないんじゃない。書けないんだ。おれは正解を知らない」
「嘘つき。あなたは書かないだけだ。首を絞められ、殺されたことを、あなたが忘れているはずがない」
青衣は、自らの首に、そっと手を伸ばした。秋尋が残した痕を、指先でたどる。
「この世界を創ったのは、秋尋さんだけれど、ここに留まることを選んだのはあなただね。ここならば、いくら待っても時計の針は動かないし、どれだけ問題を解いても、永遠に問題は終わらない。どこへもいかず、ずっとここにいられるんだ。あなたはそれを望んだんだろう」
青衣は、唇をきつく引き結んで黙っていた。
「かわいそうに、秋尋さんは、ずっとあなたを探していたよ。あなたが夢の中に雲隠れしていることも知らずに、早く試験を終えて青衣を捕まえるんだと息巻いていた。ぼくの列車に乗り込んできたとき、〈殺意〉だけが転がり出たのは、あなたが弾き飛ばしたからなんだね」
トトキは青衣の顔を覗きこんだ。
「おれは、ただ、」
「残念だね、あなたの望みは叶わない。秋尋さんは、もうすぐ思い出すよ。あなたを殺したいほど憎んでいたことを。だから、もう、ここには来ない。あなたは正しいところに往くべきだ。あなたの名は、とっくに、鬼籍に載っている」
血の気の引いた青衣の顔を覗き込むトトキ。
その眼差しに、青衣は釘付けになった。
「悪いけど、あなたの寿命をもらうよ」
無数の黒蝶が、青衣に群がり、その姿を覆い隠した。




