表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黄泉国奇譚  作者: 芹澤
17/31

其の肆 : 【三月二十日、彼岸会 ③】

 校門を飛び出した秋尋の足取りは軽やかだった。いまなら空すら翔られるかもしれない。

 いつものように、当てもなく走るのとはわけが違う。回数券を手にし、青衣がいる可能性が高い場所へ向かうのだ。

 トトキのことは気になったが、まずは青衣に会うことが先決だ。トトキもそう望むだろう。

「どーして、どーして」

 なにをそんなに急いでいるんだ、とフードの中で、鼠が騒ぐ。

「仕方ないだろ、歩いていられないんだ」

 トトキによれば、河原沿いの竹林のなかに、乗車駅があるのだと云う。秋尋は風になった気持ちで、校舎を背にして走った。

 やがて、云われたとおりの林道が見えてきた。線路もある。どこまでも真っ直ぐ続く枕木に沿うようにして、電線と、絶妙なバランスで電線を避けて伸びる竹林が続いている。

 時折、風を受けて竹がおおきくしなるものの、小鳥の囀りさえ聞こえない静かな場所だった。

 既に電車は到着していた。出発のベルが鳴る。秋尋がなんとか体を押し込んだところで、扉が閉まった。

 小さな振動とともに、電車が走り出す。

「あれ、秋尋じゃんか」

 後ろから声をかけられる。振り返ると、シラヌイの人懐こい笑顔があった。

 シラヌイは電車の揺れに体を合わせながら、秋尋が座るボックス席に近付いてくる。

「一緒に座ってもいいか?」

「あ、はい。でも、アカガネにはここは狭いかも」

 軽く視線を巡らせた秋尋だったが、車両には、シラヌイのほかに人影はない。

 秋尋は首を伸ばして奥を眺めた。外から見たときは一両編成にしか見えなかったが、前にも後ろにも扉があり、奥へ向かって座席が続いていた。

「奇遇だよな。こんなところで会うなんて」

 秋尋がまごついている間に、シラヌイは向かいの空席に腰を下ろした。

 紺地に金粉を散らしたような上等な小袖を、見苦しくない程度に着崩している。袖から伸びた手はただただ白く、毛穴や産毛も見えない。血など通っていないようだった。

「心配すんな。アカガネは置いてきた。いまごろ、ねぐらにしている洞穴でいびきかいて寝てる。あいつ、あれでもまたガキなんだ。六百歳をちょっと過ぎたくらいだし」

「……へぇ、六百歳か。へぇ」

 シラヌイの周りには、数十匹の百足が這い回っている。秋尋は何も云えず、ただ唾を呑んだ。トトキの黒蝶と同じで、これらは、シラヌイの式鬼なのだろう。シラヌイは笑って「便利なんだぜ」と肩をすくめた。

「どこにでも入り込むし、素早いし、逃げ足も速い。おまえには聞こえないかもしれないが、こいつら、これでいてお喋り好きだから、情報収集には事欠かない」

「なんか、諜報活動しているみたいですね」

 シラヌイは得意げに鼻を鳴らした。

「おれはさ、このとなりの街の裁判官、初江王のもとで働いているんだ。おれが地獄にいたころ、糸を垂らして導いてくれた恩人さ。王の手となり足として働く。それが、おれが黄泉ノ国に留まるための条件だ。こいつらは、その役に立ってくれている。ただ、最近耳に入るのは、よからぬ話ばかりだ」

「よからぬ話?」

「そう。たとえば、おまえの近くの――」

 シラヌイが、何か、云ったように見えた。

 だが、聞こえなかった。

 急に視界が暗くなり、けたたましい羽音が、あちらこちらで騒ぎ出したからだ。車内の至るところから、黒いものがぞろぞろと這い出してくる。

 虫だ。天井も、通路も、背もたれも、排気口も、吊り革も、黒く黒く塗りつぶされていく。

 秋尋は自分にかかってくる虫たちを懸命に払いのけていたが、とうてい、手で払いきれる数ではなかった。衣服の下にも、虫が入り込んでくる。

「目を閉じて。息を止めろ。おれがいいというまで、動くな」

 すぐ近くでシラヌイの声がする。

 云われるまでもなく、目は閉じていた。

 皮膚の上を、小さいが、細かく動く虫たちが這い回っている。鳥肌が立った。虫は嫌いではなかったが、桁違いの数となれば話は別。

 それらが去っていくのを、震えながら待つしかなかった。

 どれくらいの時間が経っただろう。もういいぞ、と声がした。

 恐る恐る目を開けた秋尋は、シラヌイが自分の上着を秋尋の頭にかぶせ、虫たちから守ってくれていたのだと知った。

「列車が、畜生界のなかに入ったみたいだな。彼岸会にはよくある。黄泉ノ国と六道の世界が吸い寄せられるように近付くものだから」

「えーと、よくわからないけど、とにかく、ありがとうな。シラヌイは大丈夫か?」

「一匹も寄ってこねーよ。おまえからは、きっと命ある者が放つ芳しい匂いがしたんだろうな。念のため、あとで体を確認しておけ。卵を残されていたら厄介だ」

「それは確かに厭だな」

 虫たちは、賑やかな集団のもとへと向かっている。

「あれは、虫に身をやつした人間なんだ。生前、罪を犯したために、ああして虫の姿に変えられた。知ってるか? 死者は、死後、七度の裁判にかけられる。裁判といっても、いまは簡易的なものになっていて、湯に浸かる方法が採用されてる。おまえがいた湯殿にも、ひとつ湯があったろう。生前の罪の軽重によって、湯に浸かった時点で審判が下される。おれがこれから向かう街は、二度目の裁判が行われる場所だ」

「へぇ、壱ノ湯にはそんな役目があったのか。傷を癒すためのものだって」

「そうとでも云わなければ、やましいことがある奴らは入らないだろう」

「確かに、そうだな。誰も、あんな虫になりたくないし」

 秋尋は虫たちが飛び去っていく方向に視線をやった。あの賑やかな集団のところに向かっている。

「あいつらはふだん、畜生界というべつの世界に棲んでるけど、彼岸会の時期になると、ああして、明るいほうの岸に向かってくるんだ。その先に待つのは、三途の川」

 羽のない虫たちは、ためらいなく、川に飛び込んでいく。岸が近くにあるため、川幅はさほどないが、彼らが入水した途端、急に水嵩が増し、荒波のようにうねりはじめた。

「三途の川というのは、生前の罪の軽重によって、みっつのルートが現れる。橋のある有橋渡うきょうと、浅瀬の山水瀬さんすいらい、そして深みの江深淵しんこうえん。あの虫らに用意されたのは、江深淵。あの水によって奴らは畜生界の果てまで押し流される。再びここに戻ってくるまでには、七年の歳月がかかる。同じことを何度も何度も繰り返すことで功徳を積み、早くて、百年後に死を迎え、次の裁判が受けられる」

 羽のある虫たちは、悠々と対岸へと向かっていく。だが、賑やかな集団の周りに浮かんでいた火の玉が、まるで、生きもののように乱舞して、やってくる羽虫たちをことごとく焼き払ってしまった。舟に乗っていた女人たちは、さもおかしそうに笑っている。

「なんだよ、あれじゃあ、誰も彼岸に辿り着けないじゃないか」

「勘違いするな。あの岸は、彼岸じゃない。六道のうちのひとつで、天界と呼ばれる。畜生道に堕ちた虫には、それがわからない」

「あの、笑っている奴らがいるところも、地獄なのか? あんなに楽しそうなのに」

「笑いたくて笑っているわけじゃない。笑うことしかできない。正確に云えば、笑うという行為しか覚えていない。それがどんなに苦痛でも、やっぱり、笑うしかない」

「じゃあ、本物の彼岸っていうのは、どこに」

 シラヌイは物憂げな眼差しを、賑やかな集団が浮かんでいる海に向けた。暗く濁った海原は、風にあおられて、わずかに波を立てる。

「……見えるか? あの海。裁判で、彼岸ゆきを許された死者は、湯に溶け、あの海の一部になる。自分と他人を区別する術もなく、自分と他人の境界線すらない。みんながひとつ、ひとつがみんな。それが彼岸」

 なんだか、奇妙な気がした。

 秋尋は思ったままを口にする。

「彼岸って、迷いや苦しみのない、みんなが幸せに暮らしている極楽浄土なんだろう?」

 寄せ集めの知識だったが、たしか、極楽はそんなところだとイメージしている。

「あの海が、極楽浄土の正体さ。みんなが同じモノだから、特定の誰かを羨むことも、ねたむこともない、いじめも差別もない。けれどそのかわり、嬉しいものを嬉しいと思うことも、悲しいことを悲しいと思うこともない」

「それは幸せなことなのか?」

「さぁ」

 シラヌイは首を傾げた。

 秋尋も追求しなかった。

 上流から、光が流れてくる。灯篭流しの時期ではないのに、と秋尋が訝しんで身を乗り出すと、シラヌイが教えてくれた。

「三途の川を渡れなかった畜生界の魂たちだ。流れ着いた先で、また肉体を得て、戻ってくる。何度も何度も、同じことを繰り返す」

 繰り返される生死。

 繰り返される魂の往来。

 輪廻転生という名の、循環。

「どうして、黄泉ノ国の住民は、ここに留まっていられるんだろう」

 ふと、そんな疑問が口を突いて出た。

 皆が急ぎ足で通り過ぎる道で、なぜ、自分たちは立ち止まることができるのだろう。

「云っただろう。ある条件を満たして〈選ばれた〉者がそうだと。おまえもそうだ。血の匂いがする」

 朱墨の瞳が、揺れる。


「おまえは、人をひとり、殺している」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ