其の肆 : 【三月二十日、彼岸会 ③】
校門を飛び出した秋尋の足取りは軽やかだった。いまなら空すら翔られるかもしれない。
いつものように、当てもなく走るのとはわけが違う。回数券を手にし、青衣がいる可能性が高い場所へ向かうのだ。
トトキのことは気になったが、まずは青衣に会うことが先決だ。トトキもそう望むだろう。
「どーして、どーして」
なにをそんなに急いでいるんだ、とフードの中で、鼠が騒ぐ。
「仕方ないだろ、歩いていられないんだ」
トトキによれば、河原沿いの竹林のなかに、乗車駅があるのだと云う。秋尋は風になった気持ちで、校舎を背にして走った。
やがて、云われたとおりの林道が見えてきた。線路もある。どこまでも真っ直ぐ続く枕木に沿うようにして、電線と、絶妙なバランスで電線を避けて伸びる竹林が続いている。
時折、風を受けて竹がおおきくしなるものの、小鳥の囀りさえ聞こえない静かな場所だった。
既に電車は到着していた。出発のベルが鳴る。秋尋がなんとか体を押し込んだところで、扉が閉まった。
小さな振動とともに、電車が走り出す。
「あれ、秋尋じゃんか」
後ろから声をかけられる。振り返ると、シラヌイの人懐こい笑顔があった。
シラヌイは電車の揺れに体を合わせながら、秋尋が座るボックス席に近付いてくる。
「一緒に座ってもいいか?」
「あ、はい。でも、アカガネにはここは狭いかも」
軽く視線を巡らせた秋尋だったが、車両には、シラヌイのほかに人影はない。
秋尋は首を伸ばして奥を眺めた。外から見たときは一両編成にしか見えなかったが、前にも後ろにも扉があり、奥へ向かって座席が続いていた。
「奇遇だよな。こんなところで会うなんて」
秋尋がまごついている間に、シラヌイは向かいの空席に腰を下ろした。
紺地に金粉を散らしたような上等な小袖を、見苦しくない程度に着崩している。袖から伸びた手はただただ白く、毛穴や産毛も見えない。血など通っていないようだった。
「心配すんな。アカガネは置いてきた。いまごろ、ねぐらにしている洞穴でいびきかいて寝てる。あいつ、あれでもまたガキなんだ。六百歳をちょっと過ぎたくらいだし」
「……へぇ、六百歳か。へぇ」
シラヌイの周りには、数十匹の百足が這い回っている。秋尋は何も云えず、ただ唾を呑んだ。トトキの黒蝶と同じで、これらは、シラヌイの式鬼なのだろう。シラヌイは笑って「便利なんだぜ」と肩をすくめた。
「どこにでも入り込むし、素早いし、逃げ足も速い。おまえには聞こえないかもしれないが、こいつら、これでいてお喋り好きだから、情報収集には事欠かない」
「なんか、諜報活動しているみたいですね」
シラヌイは得意げに鼻を鳴らした。
「おれはさ、このとなりの街の裁判官、初江王のもとで働いているんだ。おれが地獄にいたころ、糸を垂らして導いてくれた恩人さ。王の手となり足として働く。それが、おれが黄泉ノ国に留まるための条件だ。こいつらは、その役に立ってくれている。ただ、最近耳に入るのは、よからぬ話ばかりだ」
「よからぬ話?」
「そう。たとえば、おまえの近くの――」
シラヌイが、何か、云ったように見えた。
だが、聞こえなかった。
急に視界が暗くなり、けたたましい羽音が、あちらこちらで騒ぎ出したからだ。車内の至るところから、黒いものがぞろぞろと這い出してくる。
虫だ。天井も、通路も、背もたれも、排気口も、吊り革も、黒く黒く塗りつぶされていく。
秋尋は自分にかかってくる虫たちを懸命に払いのけていたが、とうてい、手で払いきれる数ではなかった。衣服の下にも、虫が入り込んでくる。
「目を閉じて。息を止めろ。おれがいいというまで、動くな」
すぐ近くでシラヌイの声がする。
云われるまでもなく、目は閉じていた。
皮膚の上を、小さいが、細かく動く虫たちが這い回っている。鳥肌が立った。虫は嫌いではなかったが、桁違いの数となれば話は別。
それらが去っていくのを、震えながら待つしかなかった。
どれくらいの時間が経っただろう。もういいぞ、と声がした。
恐る恐る目を開けた秋尋は、シラヌイが自分の上着を秋尋の頭にかぶせ、虫たちから守ってくれていたのだと知った。
「列車が、畜生界のなかに入ったみたいだな。彼岸会にはよくある。黄泉ノ国と六道の世界が吸い寄せられるように近付くものだから」
「えーと、よくわからないけど、とにかく、ありがとうな。シラヌイは大丈夫か?」
「一匹も寄ってこねーよ。おまえからは、きっと命ある者が放つ芳しい匂いがしたんだろうな。念のため、あとで体を確認しておけ。卵を残されていたら厄介だ」
「それは確かに厭だな」
虫たちは、賑やかな集団のもとへと向かっている。
「あれは、虫に身をやつした人間なんだ。生前、罪を犯したために、ああして虫の姿に変えられた。知ってるか? 死者は、死後、七度の裁判にかけられる。裁判といっても、いまは簡易的なものになっていて、湯に浸かる方法が採用されてる。おまえがいた湯殿にも、ひとつ湯があったろう。生前の罪の軽重によって、湯に浸かった時点で審判が下される。おれがこれから向かう街は、二度目の裁判が行われる場所だ」
「へぇ、壱ノ湯にはそんな役目があったのか。傷を癒すためのものだって」
「そうとでも云わなければ、やましいことがある奴らは入らないだろう」
「確かに、そうだな。誰も、あんな虫になりたくないし」
秋尋は虫たちが飛び去っていく方向に視線をやった。あの賑やかな集団のところに向かっている。
「あいつらはふだん、畜生界というべつの世界に棲んでるけど、彼岸会の時期になると、ああして、明るいほうの岸に向かってくるんだ。その先に待つのは、三途の川」
羽のない虫たちは、ためらいなく、川に飛び込んでいく。岸が近くにあるため、川幅はさほどないが、彼らが入水した途端、急に水嵩が増し、荒波のようにうねりはじめた。
「三途の川というのは、生前の罪の軽重によって、みっつのルートが現れる。橋のある有橋渡、浅瀬の山水瀬、そして深みの江深淵。あの虫らに用意されたのは、江深淵。あの水によって奴らは畜生界の果てまで押し流される。再びここに戻ってくるまでには、七年の歳月がかかる。同じことを何度も何度も繰り返すことで功徳を積み、早くて、百年後に死を迎え、次の裁判が受けられる」
羽のある虫たちは、悠々と対岸へと向かっていく。だが、賑やかな集団の周りに浮かんでいた火の玉が、まるで、生きもののように乱舞して、やってくる羽虫たちをことごとく焼き払ってしまった。舟に乗っていた女人たちは、さもおかしそうに笑っている。
「なんだよ、あれじゃあ、誰も彼岸に辿り着けないじゃないか」
「勘違いするな。あの岸は、彼岸じゃない。六道のうちのひとつで、天界と呼ばれる。畜生道に堕ちた虫には、それがわからない」
「あの、笑っている奴らがいるところも、地獄なのか? あんなに楽しそうなのに」
「笑いたくて笑っているわけじゃない。笑うことしかできない。正確に云えば、笑うという行為しか覚えていない。それがどんなに苦痛でも、やっぱり、笑うしかない」
「じゃあ、本物の彼岸っていうのは、どこに」
シラヌイは物憂げな眼差しを、賑やかな集団が浮かんでいる海に向けた。暗く濁った海原は、風にあおられて、わずかに波を立てる。
「……見えるか? あの海。裁判で、彼岸ゆきを許された死者は、湯に溶け、あの海の一部になる。自分と他人を区別する術もなく、自分と他人の境界線すらない。みんながひとつ、ひとつがみんな。それが彼岸」
なんだか、奇妙な気がした。
秋尋は思ったままを口にする。
「彼岸って、迷いや苦しみのない、みんなが幸せに暮らしている極楽浄土なんだろう?」
寄せ集めの知識だったが、たしか、極楽はそんなところだとイメージしている。
「あの海が、極楽浄土の正体さ。みんなが同じモノだから、特定の誰かを羨むことも、ねたむこともない、いじめも差別もない。けれどそのかわり、嬉しいものを嬉しいと思うことも、悲しいことを悲しいと思うこともない」
「それは幸せなことなのか?」
「さぁ」
シラヌイは首を傾げた。
秋尋も追求しなかった。
上流から、光が流れてくる。灯篭流しの時期ではないのに、と秋尋が訝しんで身を乗り出すと、シラヌイが教えてくれた。
「三途の川を渡れなかった畜生界の魂たちだ。流れ着いた先で、また肉体を得て、戻ってくる。何度も何度も、同じことを繰り返す」
繰り返される生死。
繰り返される魂の往来。
輪廻転生という名の、循環。
「どうして、黄泉ノ国の住民は、ここに留まっていられるんだろう」
ふと、そんな疑問が口を突いて出た。
皆が急ぎ足で通り過ぎる道で、なぜ、自分たちは立ち止まることができるのだろう。
「云っただろう。ある条件を満たして〈選ばれた〉者がそうだと。おまえもそうだ。血の匂いがする」
朱墨の瞳が、揺れる。
「おまえは、人をひとり、殺している」




