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黄泉国奇譚  作者: 芹澤
15/31

其の肆 : 【三月二十日、彼岸会 ①】

 賑やかな声が聴こえて、目が覚めた。

「うるさいな……」

 女性たちの楽しげな笑い声に、低いが、愉快そうな男性たちの声が混じっている。だがすぐ近くで聞こえるわけではない。確かに聞こえるのだが、たとえるなら、となりの教室から聞こえてくる、壁越しの笑い声だった。

 なにがそんなに楽しいのかと、愉快なのかと、つい知りたくなってしまう。現実でも、こういう淋しさを感じたことがある。

 それは、となりのクラスから不意に響いてくる笑い声だ。担任がなにか面白いことでも云ったのだろう。壁一枚隔てただけなのに、自分たちはその笑いを共有できない、そんな淋しさを感じた。

 となりの教室でさえ、そんな別の世界のように感じられたのだから、青衣がいた六組と四枚も壁を隔てた俺のクラスとは、まったく別次元だった。

 だから、高校では、同じクラスになりたいと願っていた。俺たちが希望した学科は、一学年に二クラスしかなかったので、青衣や一紗と同じクラスになれる確率は高かった。

 今度こそ、同じクラスで、同じ空気を吸って、同じ雰囲気の中に身を置く、そう思っていた。もちろん、合格する前提で。

 入試を受けた教室は、俺と青衣は一緒だったが、一紗だけとなりの教室だった。

 試験が終わるまで、青衣と何度か目が合ったが、言葉を交わすことはなかった。自分自身の緊張と、周りの受験生たちから伝わってくる緊迫感に、呑気に会話している場合じゃないとわかったからだ。

 一紗とは、廊下ですれ違ったとき、調子はどう、みたいな会話を軽くしただけで別れた。まるで赤の他人みたいだった。青衣とも、一紗とも。

 無事すべて終わったあと、約束したわけでもないのに、俺たち三人は玄関で鉢合わせした。

「ふたりとも、おつかれ」

 俺の言葉を皮切りに、一紗は「あたしもうダメかも」といつもの調子で愚痴をこぼす。

「世界史の年表、ど忘れしちゃったの。あと、国語の漢文。あぁ、英語の訳も自信ない。あたしやっぱりダメだ」

「そんなに気落ちしなくても、配点低くて影響ないかもしれないじゃないか」

 上履きをしまいながら、青衣がなだめる。

「ふん、青くんはいいよね。どうせ余裕だったんでしょう? 塾の模試みたいに、どの教科も、開始から三十分くらい経ったころには、寝ていたんでしょう」

「今回は寝てないよ。わかるところだけ埋めて、あとは問題用紙に落書きしてた」

「それが余裕だって云うのッ」

 などと、いつもの調子で云い合いながら、まったく同じリズムで上履きをしまい、靴を置いて、履き替える。それはまるで姿あわせのようだ。

 これがいつものふたりの姿だ。試験の際、他人行儀な振りして、ぎこちない会釈を交わしていたふたりとは思えない。

 ふたりの阿吽の呼吸から少し遅れて、俺も靴を履き替えた。

 硝子戸を開け、ふたりのテンポに歩調を合わせながら、外に出る。

 風は冷たかったが、すっきりと晴れ渡った空が広がっていた。

 試験は終わった。あとは天命という名の採点と結果発表を待つだけだ。手応えはあった。たぶん、きっと、大丈夫だろう。

「そういえば、青くん。気付いてた? うちの教室に、あの人がいたよ」

「だれ?」

「タキモトくん」

「タキモトって?」

「えと、だから、中一のときに」

 その先の言葉を続けなかったのは、一紗なりの配慮だったのだろう。俺はすっかり忘れていたのだが、青衣にとっては、簡単には薄れない記憶だから。

「六組で、ほら、事件があったでしょ」

 ぼそぼそと、辺りをはばかるように呟かれた言葉に、俺は、あっ、と声を漏らした。

 それと同時に、軽々しくその名を口にした一紗の軽率さに文句のひとつも云ってやりたくなった。

「あのね、青くん、あたし別に深い意味があって云ったんじゃなくて」

 迂闊だったと反省したらしく、眉を下げて、気遣うように青衣を見ている。

「いや、教えてくれてありがとう。瀧本くん、元気にしていた?」

 青衣の穏やかな言動からは、その心の底に流れる感情は読み取れない。

「うん、それがね、あたし、うっかり消しゴムを忘れてきちゃったの。それに気付いたのが試験の直前。もう心臓ばくばくでどうしようって、頭おかしくなりそうだったとき、良かったら使って、って、となりにいた瀧本くんが自分の消しゴムを半分に千切って渡してくれたの。あたし、彼の存在に気付いていなかったのに、向こうは覚えていたみたい。それからほんのちょっとだけ話しをしたけど、雰囲気がだいぶ変わっていて、びっくりした。同じクラスの人を自殺に追い込んだいじめっ子とは思えないくらい」

「一紗、云いすぎだ」

 慌てて一紗の口をふさいだ。と同時に反射的に青衣の顔色を窺った。

「――そうか。良かった。ほんとうに」

 青衣が笑う。嬉しそうに。

 なんでいじめっ子に対して、そんな顔をするのか、わからない。

「まだ、教室に残ってた?」

「あ、うん。あたしが出てくるときには、まだいたけど」

「ちょっと、挨拶してくるよ」

 青衣はくるりと踵を返し、いま出てきたばかりの玄関扉を押し開く。

「青衣、これから塾で試験の採点するんだぞ。わかってるだろうな」

「あぁ、わかって……ごほっ」

 軽く咳き込み、体を九の字に折り曲げた。

「青衣、おまえ、また」

 昔から扁桃腺が腫れやすい青衣。季節の変わり目や、ストレスなんかによって、いつも熱を出す。

「熱は? おばさんに連絡するか?」

 いつものように額に手を伸ばそうとすると、青衣は首を振りながら、俺の手をはねのけた。

「だいじょうぶ。塾は、ごほっ、サボる。ふたりは、行って」

 曇ったぶ厚い玄関扉の向こうへ、青衣は姿を隠す。そのまま、一度も振り返ることなく消えてしまった。

 青衣が立ち去り、ぽっかり空いたひとり分の隙間に、雪交じりの風が割り込んできた。

 見れば、晴れ渡っていたはずの空は、いつの間にか、薄い雲に覆われ、なんだかいい加減な調子で、粉雪を撒き散らしていた。

「秋尋、ここで待つ気? たぶんあの様子だと、しばらく戻って来ないよ。行こう?」

「……あぁ」

 促されて、歩き出す。だが足取りは重かった。

「気になるの? あたしも気になるよ。でもさ、いまは追いかけるべきじゃないって、わかってるんでしょう? だから秋尋も背を向けて歩き出しているんでしょう?」

「うるさいんだよ」

 思ったよりも低い声が出た。

 一紗は呆れた様子で、「青くんのことになると急に子どもっぽくなるね」とマフラーを巻きなおした。

「噂だけどね。瀧本くん、一度、高架橋のうえから飛び降りようとしたことがあるらしいよ。沖野くんの月命日の日に。通行人に止められて、思いとどまったらしいけど」

「マジ?」

「そう。なんかね、瀧本くん、小学生のころは内向的で、とても大人しい子だったんだって。どうしていじめをしてしまったのかはわからないけど、根が優しい人だったから、責任を感じたんじゃないかって、さっきの態度を見て、そう思った。口調も話し方もとても穏やかで、優しかったもん。秋尋とは大違い」

「悪かったな」

「悪いなんて云ってないもん。秋尋にだって、イイところは、その、いっぱいあるし」

 言葉尻はほとんど聞き取れないくらい小声になった。「なんだよ」と耳を寄せると、一紗は真っ赤になって、逃げるように走り出した。

 そうかと思えば、なにかを見つけたらしく、校門前で急に立ち止まる。

「ねぇ、秋尋、そこに立って」

 枯れ葉すらまとっていない裸木に向かって、スマホのカメラを向けた。

「なんで」

「春になったら、この桜の木の下で、三人揃って、写真を撮りたいと思って。もちろん、お揃いの制服着てね。その予行練習。はい、そこ立って。その不機嫌そうな顔でいいから。そのほうが、あとで比較したとき、春の笑顔が引き立つでしょう」

「うるせーよ。だいいち、おまえ女なんだから、どう間違ったって、同じ制服着てるわけねーだろ」

「うるさいなァ。いいから立って」

 はいはいと答えながら、立つ。ひとりで。

 近くで見ると、幹の太い、大きな桜の木だった。こんな寒空の下でも、しっかりと枝を伸ばし、わずかな太陽光を受け止めようとしている。

 春になったら、きっと、たくさんの薄紅色に彩られるのだろう。息苦しくなるような、見事な花をまとうのだろう。

「そこじゃなくて、もう少し、横。あ、行きすぎ、一歩戻って」

 試験を終えた受験生たちが、なにしてるんだ、と云わんばかりの呆れた顔をして、俺たちの横を通り過ぎていく。

 少し恥ずかしい。合格したわけでもないのに。

「いくよ」

 カシャ、とカメラが作動する。

「はい、もう一枚」

 あぁ、ほんとうに、春になったら、この下で写真を撮りたい。同じ制服を着ていなくても構わない。どんな姿でもいい。とにかく、三人が肩を並べて、笑っていれば、それでいい。

「ふふ、秋尋ってば、変な顔。面白いから、青くんにも写メ送っておこう」

「おい、あんまり変な写真送るなよ」

「へーき。秋尋の顔はいつも変だもの。えーと、こんどはさんにんでとろうね、と」

 俺の言葉なんか意に介さず、早速メール文章を打ち込みはじめた一紗は、目線を動かさないまま、「そういえばさ」と、切り出した。

「青くんの家、引っ越すみたいだよ」

「えっ」と呟いたが、声にならなかった。

「あたしと青くんの社宅の部屋、別棟だけど、階が同じで、向かい合わせでしょう? 先週、あたしのお母さんが、青くんの家から、引っ越し業者さんが出てくるのを見たんだって。たぶん、見積もりをとるためじゃないかって。お父さんに聞いてみたけど、青くんのお父さんとは部署も違うし社内でもほとんど絡みがないから、知らないって。ただ、四月に定期異動があるから、その内示が出たのかもしれないって。秋尋はなにか聞いてる?」

「いや」

 知らないし、何も聞いていない。

「――……それも、ウワサ、だよな?」

 そう恐る恐る尋ねることしかできなかった。一紗は二度も同じ説明をするのは面倒、といった様子で首を振ると、再びスマホを構えた。

 パシャ。

「ちょっと、秋尋ってば、とびっきり変な顔してるよ」

 そのとき撮った写真は見せてもらっていないが、きっと、泣きそうな顔をしていただろう。

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