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黄泉国奇譚  作者: 芹澤
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其の参 : 【疑心暗鬼 ④】

 校門が見えたところで、やっと速度をゆるめることができた。

 陸上部だったとはいえ、この坂道を全力疾走するのは、やっぱり無謀だった。

 足を止めて立ち止まれば、息が乱れ、汗が滴になって落ちてくる。死にかけているはずなのにおかしな話だ。

 自分の知らない青衣の姿を、沖野は知っている。いじめる側の主犯だったこと。兄がいたこと。

 知りたくない。と思う。と同時に、もっと知りたくなる。

 そして、言い訳したくなる。親友である自分には云えないなにか特別な理由があったのだと、他でもない自分自身に言い訳したくなる。

 全力で走って頭のなかを空っぽにしたかったが、益々混乱しただけだった。

 誰かに話を聞いてもらいたい。的外れでもいい、アドバイスが欲しい。自分が見てきた青衣は、接してきた青衣は、決して偽りではなかったのだと、肯定してもらいたい。

「よし、トトキに」

 顔を上げて歩き出した秋尋は、何かにつまずいた。危うく転倒しそうになったが、なんとか体勢を立て直す。

「遅いッ」

 足元から苦情が投げつけられる。

 地面に這いつくばるようにして、サキが座り込んでいた。胴体よりも長い髪が、地面に広がっている。

「どこで道草くっていたの。あんた、おつかいのひとつもまともにこなせないわけ?」

 散々な云いようだった。

 だが秋尋は気付く。彼女の髪の毛に、門前の桜の花びらが舞い注ぎ、長いこと、ここにいたのだということに。

「待っていてくれたんですか?」

 屈みこむようにして問いかけると、サキはぷいっと顔を背けた。

「べつに。いつまで経っても戻ってこないから、日なたぼっこしながら、春風を浴びていたってだけ」

「そうですか」

 秋尋は笑い、包み紙からヘアピンを取り出した。サキは怪訝そうな顔つきになる。

「なぁに、これ、安っぽいヘアピン」

 サキは唇を尖らせたが、返して来い、とは云わなかった。

 秋尋は、彼女の前髪を分けると、ヘアピンで留めた。ほっそりとした白い面が露になる。

「すいません、こんなものしかなくて。でもやっぱり、顔が見えるほうがいいです」

 顔が見えれば、眼が見える。そして彼女の眼には、先ほど、沖野の眼にあった、誰かを心底憎むような険しさがないことがわかる。

 サキはその大きな目で、じぃっと秋尋の顔を窺っていたが、おもむろに、

「ねぇ、デートしましょうか?」

 と唇を引き上げた。

「え、は? デート?」

「あ、なに、その顔。赤くなっちゃって」

 サキは楽しそうに肩を揺らす。

「ちょっと散歩したいだけなの。抱き上げてくれる?」

 甘えるように、彼女が手を伸ばしてくる。

 秋尋は云われたとおりサキの体を持ち上げた。女性を抱き上げるなんて初めてで、胸が当たっただけで、体が硬直した。サキは焦れたように、首に腕を巻きつける。

「さすがに眺めがいいわね。宇津川の河原に行きましょう。きっと花びらがいっぱい散っていて綺麗よ。ついでに何か話したいことがあるのなら、聞いてあげるわ」

「……ありがとうございます。気を遣ってもらって」

「莫迦ね。単なる暇つぶしよ」

 宇津川は、隣県から続く一級河川だ。ときには荒く、ときには穏やかに地面を撫でながら、幾重にも蛇行し、下流へと向かっていく。

 長い時間をかけて侵食された岩肌が、無数の層になって連なり、さながら、河原を守る要塞と化している。

 秋尋はサキをおぶって、不安定な足元を、ゆっくりと歩いていた。

「信じていた人に、裏切られたことって、ありますか?」

 背中で、サキが身じろぎする。

「あるわよ。あたしの旦那、同じ職場の女と不倫したの」

 こともなげに云う。

「不倫に気付いたとき、裏切られたと思ったけど、離婚だけは、なんとか踏みとどまったの。あたしはこの人を信じて、好きになって、結婚した。楽しいことも、嬉しいこともいっぱいあった。その選択は間違っていなかった。そうでしょう、と、自分に何度も確認したの。でもまさか、その女との間に子どもができたから別れてくれと云われるとは思わなかったけどね。……あ、ごめん、そっちの話だったね。なに、その人に、どんな裏切られ方をしたの?」

 秋尋は、かいつまんで、事情を説明した。

 互いに良く知った仲だと思っていた友人が、実はクラス内でのいじめの首謀者で、被害者を自殺にまで追い込んだと。

「わからないんです。俺、あいつのことがわからない。信じられなくなっているんです。信じていたものが、跡形もなく崩れていくのは、正直、怖いです」

 わからない。信じるって、なんなのか、わからない。

「それで? その信じていたお友だちに、直接聞いてみたの?」

「いいえ」

「それなのにアナタは被害者の話を鵜呑みにしたの?」

「だって、当事者がそう云うんだから」

「よくわからないわ。アナタはそのお友だちのことを、本当に信じていたの? 他人の言葉ひとつで信じられなくなるような、浅い友情だったの?」

 秋尋は、強く強く首を振った。

「違います。小学生のころから、ずっと一緒に過ごしてきたんです。中学ではクラスが離れていたせいで疎遠になってしまったけど、それでも、親友だと、俺はずっとそう思っていたんです」

「じゃあ、会って、話をしてみたらいいじゃない。話をして、理由を聞いて、そこからよ。それがアナタにとって許容できる答えなら、引き続き、親友でいればいいじゃない。納得のいかない理不尽な理由だったら、殴って、正してやればいいじゃない。アナタ、若いんだから、手遅れなんてこと、ないでしょう。人生は長いのよ」

 サキは笑って、秋尋の背中に頬をこすりつけてきた。

「人生は長いって……サキさん、あなた、俺がまだ生きてるって」

「わかるわよ。アナタの手、あったかいもの。お日さまの下にいる証拠」

 サキの髪を撫でるように、あたたかな風が吹いてくる。彼岸西風だ。

「人はふたつの顔をもっている。善いことと悪いことの両方を。でも、見分けがつかないのよね。ある人にとっては悪いことでも、別の人にとっては善いことなのかもしれない。その逆もある。あの人だって、あたしには不倫っていう最低の悪事を働いたくせに、家庭内暴力に悩んでいたあの子にとっては、救いだったんだものね。だけど、あたしは、許せなかった。だから、あの子を、階段から突き飛ばして……お腹の子を、殺した」

 サキの独白に、秋尋は、自分の心臓が、どきっと鳴るのを聞いた。

「怖くなって、衝動的に、踏み切りに飛び込んじゃった。いまにしてみれば莫迦みたいだけどね」

 落ち着かない様子で、サキは体を揺らす。

「あの子ね、また、子どもを授かったんですって。…不思議ね。いまなら、心から祝福できる気がする。だから手紙を書こうと思ったの。だけど、何度書き直しても、うまくいかないの。うまく伝えられる気がしないの。会ったらきっと一言で済むのに。だから、トキ爺に相談したくてね。墨っていうのは、単なる口実」

 秋尋はそのまま歩きながら、考えた。

 青衣を信じるのか否か。

 それは、青衣に会ってから決めればいい。

 なにも今すぐ、答えを出す必要はない。

 秋尋は再び歩みを進める。どこに続くともしれない河原を。

「サキさん。俺、さっき話した親友の青衣を探しにここに来たんです。俺、受験に失敗して、その現実から逃げるために、死のうとしたんです。そんな俺の勝手な都合に青衣を巻き込んでしまった。だから、見つけて、ちゃんと現世に戻してあげたいんです」

 足をとられそうになるふわふわとした砂地の一角に、ひときわ大きな岩石が転がっていた。秋尋はサキの体をそこにそっと下ろす。ちょうど人がひとり納まるくらいの窪みがあって、サキはそこに寝そべった。

「親友くんを現世に戻したあと、あなたはどうするの?」

「……」

 秋尋は、黙った。黙り込んだ。

 青衣に会って。

 ちゃんと謝って。

 ちゃんと話をして。

「俺は、弱い人間だから」

 叶うことなら。青衣に会って。ちゃんと、お別れを。

「俺、きょう、このあと、青衣が行きそうな場所を探してみるつもりだったんです。青衣が好きだった場所、気に入っていた景色、馴染みの店。でも、いまは、迷っています。もしそこに青衣がいなかったら、って。気を取り直して次の場所に行っても、いなかったら、って。そうしてそのまま、心当たりがひとつもなくなったらどうしようって。つまりそれは、俺があいつのことを何にもわかっていなかった証拠であって、青衣を親友だと思っていたのは、単なる独りよがりだと認めるような気がして。どんどん、不安になって」

 背中を丸くしてうつむく秋尋の髪に、サキの細い指が絡みついてくる。幼子をあやすように、髪を撫でた。

「どんなに親しくても、他人のことを丸ごと全部理解するなんて無理よ。夫婦でさえわからないんだから。人の心を、もしも、なにかに喩えるのだとしたら、底知れない海だと思う。深くもぐろうとすればするほど、息苦しくなるし、水圧もかかってくる」

「きついですね」

「でも、そこまでもぐるからこそ、見つかるものもある。繋がりを見つけることもある」

「……よく、わからないです」

「まぁ、いいわ」とサキは視線をそらした。

「見つかるといいわね、お友達。ちゃんと、見つかるといいね」

 

 サキの優しい声は、秋尋の記憶を揺らした。

 なつかしい青衣の声が聞こえた。

 ――叶えばいいな。

 ――叶うといいな。秋尋の願い。


「うん。叶うといいな」

 秋尋は顔を伏せたが、口元は、かすかに笑っていた。

「サキさんの想いも、ちゃんと、届くといいですね」

「そうね。戻ったら、もう一回、便箋に向き合ってみようかな」

 サキは窪みに溜まっていた桜の花びらを掬い上げ、風に流した。

「たぶんあたしは逃げていたのね。なにを書いても、あたしの本当の想いは伝わらない、きっと怖がられる。封を開けないまま、破り捨てられるかもしれない。それが怖くて、逃げていたんだわ。あの人たちからも、自分からも。それじゃあダメね」

「じゃあ、競争しましょう。俺が青衣を見つけるのが早いか、あなたの手紙が届くのが早いか」

「じゃあ、あたしが勝ったら」

 サキは、抱っこをだる子どものように、秋尋のもとへついと手を伸ばしてきた。

「またデートしましょうね」

「えっ、やっぱりこれってデートだったんですか?」

「やーね。ガキなんて恋愛対象外に決まっているじゃない」

 鈴を転がすように、サキは笑う。

 笑えるのだ。

 未練を抱いて死んでも。笑えるんだ。

「なぁに、その笑い方。ほら、さっさと戻るよ。駆け足ッ」

 サキに頭を叩かれ、秋尋は渋々走り出した。サキは「風が気持ちいい」と明るい声で笑っている。



 式鬼の黒蝶が一羽、近付いてくる。

 部屋にいたトトキは、鬼籍を開き、真っ白な頁を示した。

 黒蝶は鬼籍の紙面に触れ、墨汁のように染みこんで、ひとつの名前を浮かび上がらせた。

 トトキはその名から視線を上げ、窓際に視線を転じた。

 サキは秋尋の背中に寄り添っている。秋尋もその小さな体を大切そうに背負って、こちらへと戻ってくる。子守唄を聴かせる母親のようにゆっくりとした足取りで。

「……やっぱり、あそこにいるんだね」

 トトキは、ふっ、と息を吐き出した。

「死んでもらうしかないのかな。彼には」

 ぱたん、と鬼籍を閉じる。

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