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黄泉国奇譚  作者: 芹澤
11/31

其の参 : 【疑心暗鬼 ②】

「秋尋さん、起きた?」

 引き戸を開けてトトキが顔を出した。

 そういえばあのあと、もうひとつ事件があったんだよな、などとぼんやり思い出していた秋尋は、「あっはい」と云って立ち上がった。

「どうかしたの? 顔、真っ青だよ」

 そう云うトトキの顔には血の気というものがまったくないが、それは死者だから当然なのだろう。

「なんでも、ないです」

「あぁ、そう。ぼくはこれからまた客を迎えに行くけど、ひとりで大丈夫?」

「トトキ、俺をいくつの子どもだと思っているんだよ? 平気さ、ひとりで。俺、きょうは青衣がいそうな心当たりを探そうと思ってるんだ。日課のランニングついでに」

 と云い返したが、トトキは聞いていない。脇に抱えていた鬼籍を開き、きょうやって来る死者の人数を数えはじめている。

「ひーふーみーよー……ざっと二十人ってところかな。良かったね、まだあなたの名前は載っていないよ。意外に丈夫なんだね」

「大崎青衣って名前は?」

「無いよ」とトトキは名簿を閉じた。

「なぁ、トトキは、この仕事、長いのか?」

「まぁ、かれこれ十年になるかな。待ち合せの相手が、なかなかくたばらないものだから」

 云い方は悪いが、その言葉の裏には、深い愛情が含まれているのがわかる。

「あのさ、二年くらい前に、沖野研輔って中学生が来なかったか?」

「死因は?」

「首吊り」

 現世だったらあり得ない会話だな、と秋尋が嘆息する傍らで、トトキは考えるような素振りを見せたが、すぐに首を振った。

「憶えていないな。最近は、首括る人も若者も多いから。一番楽な死に方なんだってね。なんでも、自殺方法のまにゅある本が売られているとか。それを実践してみた、という話も何人かから聞いたよ」

 相変わらず、トトキが使うカタカナ語はぎこちない。

「で? その人が何か?」

「いや、知らないならいい。本人に訊くのが一番手っ取り早いかと思って」

「何の話?」と首を傾げつつ、トトキは「行ってきます」と慌しく出て行った。

 秋尋はその背中を見送り、苦笑いした。

 いってらっしゃい。いってきます。

 そんな当たり前の会話ですら、母と交わした覚えがないのだった。



 昨年の夏に引退するまで、秋尋は陸上部に在籍していた。

 走ることが好きだったわけじゃない。ただ、無心になれた。他のことを考えなくてもいい。それはとても楽だった。

 走り始めて間もなく、秋尋はいつになく体が重いのを感じた。肩が重いのだ。

「あ、やっぱりな。姿が見えないと思ったら、いつの間にもぐりこんでたんだ?」

 フードから顔を覗かせている鼠。秋尋が引っ張り出そうとすると、威嚇してきた。先端だけが黒い尻尾を逆立てて、鋭い歯を剥き出して抵抗してみせる。

「どーして」

「その鏡餅みたいな体が重いんだよ。ジャマ。鼠なら鼠らしく、いそいそと走りまわれよ」

「どーして」

 鼠はぷいと顔を背け、フードの中にもぐりこんでしまう。

 この鼠は、一体なにが目的で、どうして自分に構うのか、秋尋にはさっぱりわからなかった。

 ただ、時々鋭い眼差しで秋尋をにらみ、どーして、と云うのだ。その言葉を聞くと、心の中かかすかに震える。思い出したくないことを、無理やり、揺さぶられるような嫌な感覚になる。

「ったく」

 埒が明かないので、秋尋はそのまま走り続けることにした。

 英徳高校から続く長い長い下り坂を、細かい歩幅でゆっくりとおりていく。

 部活を引退したいまの秋尋にとっては、鍛錬の一環だった早朝ランニングは単なるストレス発散の手段に格下げされていた。とはいえ、四季折々の町並みを眺めるのは面白かった。

 悪い寝相によって蕾のように丸く、硬くなっていた体を、誰も吸い込んでいないまっさらな空気を吸い込み、ゆっくりと開いていく行為は、花を思わせる。どんな色の花を開くのか、どんな実をつけるのか、わからないけれど。

 ランニングの途中、ふと思い立って、中学に足を向けた。高校から、さほど離れていない。人気のないグラウンドを横切り、鍵のかかっていない玄関扉を開けて中に入る。土の匂いがした。

 英徳高校のように、中に入った途端、違う景色が見えるのでは、と警戒していたが、薄暗い玄関も、土の匂いも、張り紙も、たしかに見覚えのあるものだった。

 あの日、ここで、青衣を待ち伏せたのだ。

「あのあと、結局、聞きそびれたんだよな」

 秋尋はため息をついた。誰もいない玄関で立ち尽くしたまま。

 きっと他にも、聞きそびれたことがたくさんあるはずだ。

 青衣と交わした言葉の数は、それこそ英単語の何千倍も何万倍もあるはずなのに、いまはその多くが記憶の奥底に沈んで隠れている。まるで、底なし沼。淵に立って覗き込むが、底なんて見えやしない。何が入っているのかもわからない。網を差し込んでも、記憶だかなんだかわからないどろどろとした塊をすくい上げるだけ。気持ちが悪くなる。

 青衣。早く会って話がしたいんだ。

 喉が渇くように、風船が膨らむように、そう願っている。

 なぁ、青衣。おまえもそう思わないか?


 中学からの帰りに、公園に立ち寄った。

 ジャングルジムと滑り台とブランコ。この三つの遊具が置かれただけの小さな児童公園だが、幼かった秋尋たち三人には、それだけで十分だった。

 青衣が好きだった場所。青衣と過ごした場所。そういう心当たりをひとつひとつ当たっていけば、いつか、めぐり会える。そんな可能性にすがるしか、いまは思いつかなかった。

 だけれど、そう簡単に物事が運ぶはずもなく、青衣の姿はない。

 公園の隅には花壇がある。真冬のこの時期は、花は咲いていないはずだが、黄泉ノ国だからなのか、秋尋が立ち寄ったときには、色とりどりの花々が花壇いっぱいに咲き誇っていた。

 それらの花壇に手を入れ、草むしりに励んでいる背中の曲がった老齢の男女がいる。

 トトキが云っていた。姿形は現世と同じではない、と。まさかとは思いつつ、秋尋は思い切って声をかけた。

「おはようございます。えと、朝早くから、ご苦労さまです」

 声を受けて、ひとりの老女が振り返り、微笑みを向けてくる。


「ぎゃああああ」


「あ。お帰り」

 死にそうな形相で駆け戻ってきた秋尋を、先に戻っていたトトキは冷静に出迎えた。

「とと、トトキ、う、うし、うま、顔が」

 混乱して、ろれつが回らない秋尋の肩を、はいはい、とトトキは叩く。

「獄卒の牛頭と馬頭のことだろう。女神のために、黄泉ノ国の花々の手入れを日課にしているんだ」

「そ、それだけじゃない。ひどく身軽な爺さんと婆さんが、五階建てのビルの屋上まで壁を伝って這い上がって、すげー長い洗濯竿にぐしょ濡れの着物を」

「懸衣翁と奪衣婆だね。女神に仕える黄泉津醜女よもつしこめたちの着物を洗濯するんだ」

 すこしも驚いた様子のないトトキ。不安そうにしていた秋尋は、ひとつの結論に至った。

「……もしかして、ごくごく普通のことなのか? 馬面と牛面の年寄りが茶飲み話することも、妖怪じみた爺さん婆さんが、洗濯が終わったあと、バンジージャンプして遊んでいたのも」

「……」

 トトキは呆れ顔で目を細くした。

「悲鳴あげていたくせに、そんなところまでしっかり見ていたんだね」

「あっっ」

 秋尋は急に落ち着きがなくなった。

「そうだ。こ、転がってきたんだッ」

「なにが?」

「首」

 ごんっ。

 秋尋たちがいる部屋の扉に、なにかがぶつかる。秋尋はひっと息を呑んだ。

 続いて、地の底から響くような声。

「かえせ」

 ごん、ごん、ごん。

「かえせかえせかえせかえせかえせかえせ」

 外からの衝撃で扉が軋む。ノックというレベルではない。

「……秋尋さん。きみ、なにをしたの?」

 部屋の隅で震えている秋尋に、トトキの声は冷湿布のように冷たい。

「と、途中で、落し物を拾って。こ、交番に持っていったほうがいいのか、いやでも、交番にもまた変な奴がいたらって怖くて。だ、だから、トトキに相談しようと思って走り出したら、首、が」

「落し物って?」

「ゆ、ゆび」

 みしみしみし。

 衝撃に耐え切れなくなった扉が、真っ二つに割れた。黒い毬のようなものが転がり込んでくる。

「ひぃっ」

 息を呑む秋尋の前に、毬が転がってゆく。その毬には、奇妙なことに、鼻があり、口があり、髪があり、そして、眼があった。

 すなわち、生首である。

「かえせ。わたしの、ゆび」

 波打つ黒い髪が、蛇のように床を伝い、秋尋の手首に絡みつく。秋尋は硬直したまま、声も出なかった。

 秋尋の手のひらから、一本の指が転がり落ちる。生首は、安堵した様子でそれを引き寄せた。

「あぁ、良かった。あたしの指……って、このくそガキー、マニキュアが剥がれちゃってるじゃない。どうしてくれるのよ」

 ぎょろりと眼を剥く生首を、後ろからトトキが抱き上げた。バスケットボールのように。

「サキさん。あなたという人は、またバラバラになっていたんですか?」

「あら、トキ爺じゃないの。ちょうど良かったわ。頼みがあったの。この子、あなたの新しい式鬼?」

 トトキは肩をすくめて笑う。

「いいえ、ただの落としモノです。力は強くても、こんなに臆病な式鬼は使えませんよ。ところで、ちっとも状況がわからないので、教えてくれませんか? 当事者は……半分失神してますから」

 生首の彼女の名は、サキ。現世における事故により、その四肢は自身の意思で自由に切り離すことができる。脳の信号を受信して、各々の部位が元の場所に戻ってくる。まるで磁石のように。ただし、時々、電波の不具合により、返ってこないものがある。

「それが今回は薬指だったと。そして、運悪く、彼がそれを拾ったんですね」

 部屋の隅の隅で体を縮ませていた秋尋は、弁明するように叫んだ。

「まさか、本物とは思わなくて。ただ、だとしたら、なんなのか、わからなくて。ただの棒切れかとも思ったけど」

「失礼なガキ」

 途端、後ろから首を絞められた。いつからあったのか、後ろに胴体がある。恐らく、サキの肉体だ。艶やかな着物をまとっているが、首がないので、色気も半分未満だ。

「ところで。女神に仕える黄泉津醜女よもつしこめのあなたが、ぼくに、どういった御用ですか?」

 呆れたようにトトキが問いかけると、サキは秋尋から離れて転がった。

「そうだったわ。ガキを追いかけて愉しんでいる場合じゃなかった」

 サキの胴体は自らの生首を手に取り、首の上に乗せた。ゆるく巻いた長い髪に大きな瞳。着物をまとっていなければ、妙齢の美人に見える。目蓋にかかるほど前髪は長く、髪の毛の合間からは、刺すような眼差しが覗いて見える。

「手紙を現世に送りたいの。墨を貸してくれない? それから、書いた手紙を直接、名宛人に届けて欲しいの。『小野篁』のあなたなら容易いことでしょう?」

 小野篁。平安時代の公卿であり歌人。そして、毎晩冥府に通って閻魔王庁の裁判の手伝いをしていたという逸話をもつ人物。

 熱い眼差しを感じたトトキは、いつの間にか正座している秋尋を煙たそうに見た。

「秋尋さん。そんなわかりやすい期待の眼差しで見ないでくれ。ぼくは小野篁その人じゃない。役職名が小野篁なんだ」

「そうよ。何も知らない坊や。鬼籍を管理する人は、小野篁という役職で呼ばれるの。その昔、小野篁本人は、鬼籍を手に此岸と黄泉ノ国を行き来して、鬼籍に綴られた死者がこの国にやってきたかどうかを確認していたの。当の本人は既にいないけれど、仕事だけは、力の強い人間に引き継がれているわ。いまはトキ爺がそうなの。鬼籍と死者の数がひとりでも足りなければ、現世に行き、連行する権限もある」

 へぇ、と息を吐きつつ、秋尋は新たな疑問に首を傾げた。

「鬼籍に載るのに、ここに来ないケースがあるのか?」

「あるわ。生き物はみんな、一対の〈魂魄〉をもっている。〈魂〉は精神で、絶えず輪廻転生を繰り返すもの。〈魄〉はたとえるなら電池みたいなもので、生まれる前、寿命や身体的特徴をセットされ、〈魂〉とともに送り出されるものなの。寿命が尽きて〈魄〉が役目を消えると、肉体は死に、鬼籍に名前が刻まれるのだけど、〈魂〉にあまりに強い意識が宿っていると、地縛霊のようにどこかに留まっていたり、生者に寄りついていたりすることがあるの」

「サキさん。お喋りはそこまでです。ご用件はわかりました。仕事のついでで良ければ、承ります」

 サキはトトキに向き直ると、居住まいを正し、頭を下げた。

「感謝するわ」

「いつもお世話になっていますから。ただ、墨はここにはありません。ぼくが使うのは、黒蝶という筆だけですから」

「黒蝶は鬼籍専用の筆だものね…困ったわ」

 黙って事態を見守っていた秋尋だったが、サキは何事か思いついたらしく、首をぐるりと百八十度回転させ、後ろに控えていた秋尋を振り返った。もちろん秋尋は、ひっ、と小さく悲鳴を上げる。

「そこのあなた。商店街で買ってきて頂戴」

「えぇっ俺、関係ないしっ」

 反射的に云い返した途端、サキがぎょろりと目を剥いた。

「落し物を拾う厚意があるのなら、困っている若い女性の力になってあげようって厚意もあるわよね」

「ムチャクチャだ」

 助けを求めるようにトトキに視線を向けたが、お手上げ、とばかりに首を振られた。

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