8-A お土産作戦
『Melody Rain』
https://www.youtube.com/watch?v=NkgMn3nezHs
ミーファの故郷、コーディシアに入りますが、一晩で出ていく予定です。物語の核心に迫る第八話『最終戦奏器』よろしくお願いします。
『第二次東西大戦』
後にそう呼ばれることになる戦争は、イギルスタンと東小国家諸国の国境地帯にある平原を主戦場として行われていた。市街地へ戦火が広がることこそ無かったが、開戦から二週間ほどが過ぎた現在、ミーファの誘拐で戦局全体は硬直状態にあったが、散発的な戦闘ではやや小国家連合が劣勢であった。
開戦当初から総力戦を仕掛け、戦力でイギルスタンを圧していた小国家連合だったが、特に白兵戦に於いて無類の強さを誇り、ほぼイギルスタンが独占している状態の『戦奏器』を持つ師団長たちが戦場に現れると、途端に形成は逆転する。
特に、数十人単位でかかっても傷一つ付けられない第一師団長兼指揮官のオーミットには手を焼かされた。それでも何とか兵士の数で対抗し五分に持ち込みはするが、元々国力が高くない国同士の集まりということもあって、戦闘の長期化に伴い少しずつ疲弊し、圧され始めているというのが現状だった。
そんな戦闘地帯を遠くにやり過ごし、ユキたちを“荷物”として載せたカルウラの“商船”は、驚くほどあっさりと国境を通過した。
「やるじゃねぇかカルウラ。あんたに頼んで正解だったぜ」
国境警備隊のチェックを最小限で潜り抜けたカルウラを、船倉に隠れていたシンが讃える。
「商人は信頼が命ですからね。私の人徳の為せる業ですよ」
身長150㎝にも満たない小さな中年男が大きく胸を張って言うのを晴れやかな笑顔で見ながら、シンは言った。
「まぁ、数時間後にはその信頼は砕け散るんだけどなっ!」
巨大な重石を背に括り付けられたように肩を落としたカルウラを無視して、シンとユキははしゃいでいる。
「不法入国成功!さぁ、ミーファを救うぞ、ユキ!」
「お~!コーディシアを脅迫だ~!」
「国王に会ったときに備えて、打ち合わせをしておくぞ。あいつらを上手く話して、兵と船を出させる」
「“くちはっちょうでだまくらかす”んだね~」
「……そうとも言う。ミーファが助かるんなら、どうでもいいだろう?」
「そうだね~」
「そうだろ」
「あははは!」
「あははは!」
顔を見合わせて笑う悪党二人に早速騙くらかされたカルウラを労うように、千鶴がその肩に手を置いた。同情はされたくなかったが、眼鏡の奥に自分と同じような苦労の色を見たカルウラは、ちょっとだけ泣いた。
「何だっ。男の癖に情けないぞっ!」
シーラが船倉の隅にかけられたカモフラージュ用の布の中から這い出して来て、いつも通りの弾んだ声を出す。
「そうだ、シーラにもやってほしいことがあるんだ。ちょっと来てくれよ」
シンが手招きするが、シーラは白い目を向け、嫌そうな表情を作る。
「アンディが『行ってやれ』って~」
ユキの声に、渋々“会議”に加わる。その様子を見ながら、カルウラは千鶴に訊く。
「あの子は誰なんですか?お連れさんにはいなかったはずですが?」
「さぁ、私にも分かりません。ただ、シンさんが言うには、ほかの誰が抜けてもシーラちゃんだけは守らないといけないと言っていました。最重要人物だと」
それもまた、知らない方が良い情報なのだろう。カルウラはさらに気分が重くなるのを感じながら詮索を止めた。
「なぁシーラ、ちょっとで良いから背中見せてくれよ」
「いーやーだーっ!!」
「アンディ、何とか説得してよ」
「ユキッ、お前本当に“聞こえてる”のかっ!?」
「聞こえてる聞こえてる。なぁユキ。―――あとさ、ここにお前の名前を書いてくれないか?この世界の字が俺には分かんなくてさ」
何やら訳の分からないやり取りをしている三人に深いため息を吐きながら「もう少しで着くと思いますから、外の様子を見てきます」と言い残し、船倉を後にした。
「よぉ大商人さん、風の機嫌がいいからもう直に首都に着けるぜ」
甲板に出ると、マストに上って帆を調整しているアルマから豪快な声が降ってきた。
「それはどうも」
気の無い返事をする。かなり大きな船の船尾では、アルマの仲間たちの空船楽団ならぬ空船バンドが、思い思いの適当な演奏で船を浮かせていた。正直、いつか落ちるのではないかと冷や冷やしている。
「何だ何だ、辛気臭ぇな。未来の億万長者だろうが!」
恰幅良い身体に似合わぬ軽快な動きでカルウラのところまで降りてくるアルマに、遠い目をして愚痴を言う。
「はは……アルマさんは楽天的で良いですねぇ。私はこの大船が泥船に見えてきましたよ。―――ああ、別にアルマさんの造った船が壊れやすいってことではなくてですね―――」
「んなことくらい分かってらぁ。俺たちだって、何もシンの考えの全てが上手くいくと考えてるわけじゃねぇ。不安要素もいっぱいある。だが、ルソラが信じた男だ。なら託してみる価値はある。それだけのことだ」
元は船乗りで、シンに大型の船を出して欲しいという無理な願いも快く引き受けたアルマの言葉は勢いがあるが、どこか冷静な部分を備えている。
「何より、今が最大のチャンスなんだ。国が変わる。いや、世界が変わるんだ」
シン曰く、『ルソラと同じ革命軍』だというアルマと、彼と共に船に乗った数人の船員たちが口々に言うことだったが、カルウラにはあまりピンとこない。
「私なんかは、そんな大それた目的のためには動けませんけどねぇ」
カルウラ自身、15年前の戦争以前はそれなりの店を構えた商人だったが、戦争特需に沸き立って商売を始めた者との競争に敗れてしまい、しがない行商を始めた身だ。
苦労はしたが、その逆境を糧に何かを変えようと思ったことは無い。いつの世も時代は流れていくのだ。勝ち続けることはできない。上手く適応していくしかない、と自分を納得させ、どうにか生き延びてきた。
「世界を変えたからって、何になるというのですか。たとえイギルスタンが滅びたとしても、戦争の火種は無くなりはしませんよ」
投げ遣りな調子で言うカルウラに、アルマは片頬を持ち上げて笑って見せる。
「無くなりはしねぇが、少なくとも減らさなきゃいけねぇ。俺はそう思ってやってる。今のイギルスタンのやり方は、間違ってる。いや、今こうなってる状況全部が間違ってる」
大きな追い風が吹き、空船がさらに速度を上げた。
「変えて何になるって、今より少しだけ良くなるのさ。今のままじゃいけねぇから、変えるのさ。大商人さんも、こんなんじゃ駄目だって分かってんだろ?だからシンたちに力を貸してる。違うか?」
船首へと大股で歩いていったアルマをカルウラも慌てて追いかける。
「よっしゃあ!順風満帆、進路良し、コーディシアへ全速力で向かうぜ!ヨーソロー!!」
油断していると吹き飛ばされそうな大きな風を受けながら、カルウラは、ようやく覚悟を決めた。この泥船に、最後まで乗っていよう。
一方、ミーファを乗せた馬車は、イギルスタン中間あたりの街ヘギルに辿り着いていた。空船では追い風もあって一日で辿り着けたが、馬車ではやはり時間がかかる。
「ミーファ様お疲れ様です。本日はこの街で一泊して頂きます」
ロシェフが仮面越しに丁寧な声でミーファを宿屋まで案内する。最初に誘拐された時もそうだが、仮にも人質にこの丁重な扱い方というのは違和感が拭えない。ミーファは差し出された手を断って、一人で馬車を降り、歩きはじめた。
「随分と警備が甘いようですけど、よろしいのですか?」
後ろを歩くイーフ含め、たった十数人で移動する一行を皮肉るような調子で言うミーファだったが、ロシェフは応えない。
「あまり大人数で移動しても目立ちます故。それに、各町は我が第四師団の兵が常駐しております。ミーファ様が心配なさらずとも、陸路の警備は万全なのです」
今現在もミーファのことは監視されているということか。ミーファは思わず周囲を見回すが、夜の闇の中、どこから目を光らせているのか分かるはずもない。
「流石はイギルスタン軍きっての軍師ですね。ロシェフ様」
「ほかの師団長殿とは違い、私には戦闘力がありませんので、頭を使うしかないのですよ。馬車に乗っている間に何度もぶつけましたし」
頭を撫でながら言うロシェフに、それはお前の背が高すぎるからだろうといいかけたが、止めた。
「なかなか乗って頂けませんねぇミーファ様は。正直凹みます」
わざとらしく肩を落として見せる。丁度、顔の高さが同じくらいになったところで、その能面が、ミーファの方を向いた。少々不気味で、思わずたじろぐ。
「イーフ殿ならば、もっと楽しく会話できるでしょうか」
口調からその感情はあまり伺えなかったが、仮面の奥の表情は、笑っていた。確認はできないが、確かにそう感じた。
この男、気付いている―――ミーファは動揺を悟られないように無表情を装う。
「彼は偉大な兵士ですが、同時に私の教え子でもあります。恋愛相談にも乗ってあげたりするのですよ」
後ろにいるイーフには聞こえているだろうかと思ったが、振り返る勇気は無かった。破滅、という言葉が脳裏をよぎる。
「まさか彼が一人の少女のために苦手、というかむしろ嫌っている音楽に手を出し、機嫌を取ろうとするとは思いませんでした。挙句、命令まで曲げるとは」
全て知られている。すらすらと語るロシェフに絶望が心を占めていく。
ミーファは足を止めた。周囲の兵士が、イーフも含め、不穏な空気を感じ取る。そんな中、ロシェフだけが歌うように言葉を続ける。
「あのイーフが、全てに心を閉ざした少年が他人のためにそこまでするとは。師としては格別の喜びです。イーフを変えてくれて、ありがとうございます、ミーファ様」
白々しい言葉だと思ったが、ミーファは口が開けなかった。尚も芝居がかった調子で仮面越しに涙を拭う仕草をするロシェフの様子がおかしいと気付くまでは。
「本当に……よかっ……ゲフッ……あの子が、こん……な、素敵な女性と……」
「え?本当に泣いてるの!?」
王女の口調も変える、まさかのマジ泣きである。後ろから追い付いてきたイーフたちもロシェフの突然の号泣に不思議そうな顔をしている。
「あれ……おかしいですね。拭いても拭いても涙が止まりませんよ……?」
「いやそれは拭けてないからです。仮面越しだからですよ。ロシェフ殿、どうされたのですか?」
いつものようにラキ部隊長が律儀に突っ込み、感極まった様子のロシェフに理由を訊く。
「いえね、あれですよ。教師やってて良かったなぁって」
「いや意味が分かりませんよ!?何故今このタイミングでそんな卒業式みたいなテンションになれるのですか!?」
部隊長と師団長のいつものやり取りを見ながら、イーフがそっとミーファの元に近付く。
「どうした?ロシェフ殿が何か言っていたのか」
「ええ。私たちのこと、ロシェフ様にはバレていたそうよ」
イーフの仏頂面が、明らかに暗く沈んだが、ミーファは大丈夫だというように首を振った。
「あの調子なら、きっと問題は無いと思うわ。あなたが人間らしい感情を取り戻してくれたことが嬉しいみたい」
仮面を取ってラキの袖で鼻水をかみ始めたロシェフを見ながら穏やかな調子で言う。
「人間らしいってどういう意味だ」
「さぁ?でも、私も嬉しいわ。剃刀みたいなみたいな貴方に味方がいて」
「誰が剃刀だ」
不機嫌な表情にも、どこか嬉しそうな色を残して、イーフは「良かったなぁ、良かったなぁ、イーフ」などとむせび泣いているかつての恩師をなだめに向かった。
自然が多いというのが、夕刻に差し掛かったコーディシアの第一印象だった。建ち並ぶ建物や街並みなどは、アブソビエの街とあまり変わらなかったが、街の中心を大きな川が流れ、木々が植えられている首都の様子は、戦争が起こっていることを忘れさせるほどのんびりとしている。
「着いた~!」
「荷物に擬態するのも骨が折れたぜ」
船着き場にユキ、シン、シーラ、千鶴、カルウラの順に降り立った。
「“荷物”が随分堂々と降りますねぇ」
カルウラが皮肉めいた笑みを浮かべるが、千鶴以外には届かない。
「よーしユキ、まずは店を探すぞ」
「お土産だね」
「そうだ。国王に会うんだからな。何か持って行かないと失礼だろう」
「何がいいかな?」
「うーん、やっぱり無難にお菓子とか―――」
「あんた等何しに来たんだ!?王女を助けるんじゃないのか!!」
カルウラが怒るのをシンが「まぁまぁ」と言いながら宥める。
「色々と準備があるんだよ。カルウラ、道案内頼むぜ」
「それは構いませんが、ここからは有料ですよ」
「それなら問題ない。ミーファから貰ったコーディシアゴールドがある。」
幾ばくかの金貨を掴まされる。嫌だとは言えなくなってしまった。金で動く商人の悲しい性だ。
「じゃあ行くぞ。ユキ、付いて来い。アルマ、シーラと千鶴先生を頼んだぞ」
停泊した船の上に向かって言うと、アルマの大きな声が返ってきた。
「おうよ!任せときな大将!」
満足そうに頷くシンに、げんなりした様子のカルウラが訊く。
「はぁ。で、どこに行くんですか大将さん」
「だからお菓子屋だって。できるだけ美味い店がいい。王様への“お土産”だからな」
どうやら本気でいっているらしいシンに怪訝な表情を浮かべたカルウラだったが、これもまた詮索は無用と、コーディシアで人気のある飴を売る店を案内するために歩き出した。
「菓子屋が済んだら、次は本屋な。色々な本が読める、デカい店が良い」
「はいはい」
「その次は服屋だ。この国の服に着替えたい」
「はいはい」
「あと、絵描きに知り合いはいるか?会ってみたいんだが」
「本当に意味あるんでしょうね!?ただの観光案内みたいですが!?」
「あるある。大丈夫だ。忙しくなるぞ。今日中に片を付けたいからな」
カルウラは、もう一生分の回数に達したのではないかと思われるため息を吐いて、即席の観光ガイドもどきとしての一歩を踏み出した。
日が暮れ、今日の戦闘が終わったことと、亡くなった兵士の数を聞かされたあと、コーディシア国王ドゴールは玉座に収めた巨体で盛大に溜息を吐いた。
「よもやここまで押し返されるとはな」
像のような目は穏やかにも見えるが、日々自軍が押される報告を受けていくうちに、少しずつ虚ろになって行ったものだ。さらに娘を誘拐され、夜も眠れず、開戦から二週間がたった今、心労は限界に達しつつあった。
「イギルスタン軍の戦奏器を持つ三師団長が強力で、我が軍では太刀打ちでないとのことです」
報告をする軍師も、顔に疲れが見える。ドゴール王は軍師の弱音を叱責せず、今一番知りたいことを訊く。
「ミーファは無事なのか?」
「……確認できる情報は、何も」
開戦から三日後に数人の部隊で王女を誘拐されたのは痛恨の極みだった。緒戦でイギルスタン側の兵力が分散しているところを、全軍で一気に叩き終戦に持ち込む作戦が、結果的に国防を損なってしまうことになった。
早速イギルスタン側から即時停戦及び降伏の通達が来るだろうと思っていたが、それは無かった。「ミーファ王女を誘拐した」という声明の後、一切音信が無いまま、今日に至る。
「ふん、『分かっているだろう』ということか」
ドゴール王が吐き捨てるように言う。ミーファが連れ去られた本当の理由。
「“滅歌”……ですか」
軍師が呟き、しまった、というように口を噤んだ。
「別によい。公然の秘密というものだ」
ドゴール王の言葉は、寛容というよりは心ここにあらずと言った調子だった。彼を取り囲む側近たちも心配そうな表情は浮かべるものの、どうすることもできない。
しばし重たい沈黙が訪れたが、長くは続かなかった。一人の兵士が慌てた様子で玉座の間に飛び込んできたからだ。
「陛下、畏れながら申し上げます」
「何だ騒々しい、陛下はお疲れでいらっしゃるのだぞ」
挨拶も無しに息を切らしたまま要件を言おうとした兵士に対し、軍師が咎める声を出すが、兵士の尋常ならざる様子を見て、ドゴール王が止めた。
「よい。して、何の用か」
兵士は息を整えながら膝をつきへりくだると、懐から小さな袋を取り出した。
「この中身をお検めください。危険なものはございません。私の方で、もう確認は済んでおります。しかし―――」
見ると、その袋はこの首都城下町でも有名な菓子屋の物だった。祝い事の際の献上品として送られてくるので良く知っている。
「ただの飴であろう。王宮への献上品ではないのか」
「私も最初はそう思い、すんなりと受け取ったのですが、中身が―――」
側近が兵士から袋を受け取り、ドゴール王の手に渡す。すると、手に伝わる感触に、明らかな違和感があった。
「中に紙が入っておるのか?」
安全であるとは言われたものの、慎重に中を検めるそして、案の定一枚の紙が顔を出した。
「―――これは……」
そこに書かれていた内容に、ドゴール王が息を飲む。大凡のことには泰然自若としている王の明らかな動揺に、側近及び護衛兵も警戒の色を強める。
「何が書いてあったのですか?」
その質問には答えず、ドゴール王は兵士に向き合う。
「これを送ってきた者は、今どこにおる」
「外で待っていると言っていましたので、まだ宮殿の近くにいると思われます」
「うむ。ならば、すぐに連れて参れ。直々に話をしたい」
その真意は測りかねるが、どうやら只事ではない雰囲気を察した周囲が、緊張する。
あまり怪しまれないようにと地元コーディシアの服装で渡した“土産物”を王宮の番兵に渡して数十分、兵士が勢いよく駆けてきた。
「国王陛下が話をしたいと申されている。来てほしい」
コーディシア特有のゆったりとした服に身を包んだユキとシンは、互いにほくそ笑んだ。
「『お土産作戦』成功だな」
カルウラの紹介で会えた絵師が描いてくれた“土産”の中身も、どうやら効いたようだ。
「ここからが本番だ。ユキ、覚悟はいいな」
「だいじょぶ、できる」
焦ってはいけない。イーフは、かつての失敗を反省し、ミーファのいる部屋の扉を軽く叩いた。
「はい」
透き通るような返答の声が聞こえたことを確認してから、宿の一等客室に入る。
「あら、いやらしい師団長さんじゃありませんこと」
わざとらしいいい方でイーフを出迎えた王女は椅子に座り、はめ殺しの窓から日の暮れていく街を見ていた。憂いを感じる姿に目を伏せながら、事務的な口調でいう。
「定期的な見回りです。間もなく、お食事をお持ちします」
「そう」
会話とは呼べないやり取りに、沈黙が重たくのしかかる。早く出て行ってしまえばいいものを、何か彼女を元気づける言葉を発さなければならないという義務感が、イーフを棒立ちにさせていた。
「ねぇ、イーフ」
しかし、沈黙を破ったのはミーファの方だった。
「はい」
「普通の言葉遣いにして。ロシェフ師団長のことなのだけど」
「うん」
「私たちの味方になってくれないかしら」
ほんの少し期待の色を帯びた視線をこちらに向けてくる。しかし、イーフはその目を見ることができない。
「ロシェフ先生は、ひょうきんなところもあるが、立派な方だ。軍人としての力量も確かで、人徳にも溢れている。だが、彼はイギルスタンの兵士だ」
それがすべてだった。自分たちの関係を知ってなお、本国にそれを伝えることはせず、むしろ二人の恋仲を喜んでくれさえした。そして、それがロシェフ個人ができる限界だった。
「俺たちにとって、敵にはならないが、味方になることも、ない」
一言ずつ、自らにいって聞かせるようにいった。
「お食事をお持ちしましたぁ!!」
「キャアアアアア!!!!」
けたたましいアコーディオンの音と大声でミーファが悲鳴を上げた。とっさにイーフはミーファの盾となるように動き、階下に待機していた兵士たちが、人質を驚かせた人物を取り囲んだ。
「あ、あの、すみません。ちょっと驚かせようと思って」
部下に剣を突き立てられしどろもどろになっている間抜けな師団長を、食事を持ってきたラキがあきれ返った目で見る。
「だからやめましょうっていったんです」
「だって、ミーファ様があまりに物悲しいお顔をされていましたので」
「だってじゃない!」
「はい……」
しゅんとしてしまったロシェフに、ミーファがくすくすと笑い出した。
「いえ、ごめんなさい。ロシェフ様の仮面が取れたお姿を見るのは初めてでしたので、少しびっくりしてしまいました」
「そういえば、何故外していらっしゃるのですか」
イーフが訊くと、ケロイドの顔が微笑を作った。
「いえ、いい加減、自らの過去の傷を隠して生きていくことは止めようと思いまして―――」
「違います。仮面付けたままスープを飲もうとして汚したから、今洗ってもらっているんです」
ラキの告発により、あっさりと良い話をぶった切られ肩を落とすロシェフに、ミーファがまた笑う。
「面白い方ですね」
めちゃくちゃだが、しかし、空気は若干和んだ。宿屋の主人が騒ぎを聞きつけてくる前に退散する。
「それでは、また明日、お会いしましょう」
「失礼します」
最後に部屋を出たイーフが扉を閉じると、声が飛んできた。
「これが私の限界です。イーフ」
ロシェフだ。爛れた顔には今まで見たこともない慈愛が宿っている。
「私は祖国をこの顔とともに失った。以来、自ら仮面をつけ、視界を遮り、闇の中を生きていこうとしていた。しかし、それは間違いだったようだ。
どのような境遇であっても、人は“光”に目を向けることができる。“未来”を掴むことができる。それを、君とミーファ様から教えられました」
「しかし、それを掴むことは、イギルスタンへの反逆です」
「そうかもしれませんね」
沈黙が訪れた。だが、先ほどとは違う。とても柔らかく、暖かなものだった。
「さっきしたのはイギルスタンの“兵士”としての限界です。君が“未来”に触れたいと思うのなら、私は協力を惜しみません」
「ロシェフ先生……」
ロシェフが大きく頷いたところで、ラキが現れた。
「あ、ロシェフ様、仮面が洗い終わったそうです。どうされますか」
「はい、着けます、着けます」
「着けるんですか!?なんかもう着けない的なこといってたじゃないですか!」
「まぁ、荷物にしても嵩張りますし、王宮に戻るまでは着けておきます」
「本当に、分からない方ですね」
二人がいい合いながら去って行くのを見ながら、イーフはロシェフのいっていた“未来”について、思いを馳せていた。