7-B 音楽を嫌う者
―――そして翌日。
予想に反して死刑宣告は為されず、イーフはあるものを持って、恐る恐るミーファの部屋に向かった。
ノック。応対する侍女が「どうぞ」と言ってから、さらに一呼吸待って入る。
「済まないが、また外してもらえるか」
イーフは侍女に告げると、ミーファの方を見た。今日は動き辛そうなドレス姿で、イーフの方は見ようともせず、ベッドの上に足を組んで座っている。
「ミーファ様。慈悲深き処置、ありがとうございます」
まずは総統に何も言わなかったことに礼を言う。そして、近くの椅子に座ると、持ってきた弦楽器を構えた。
「本日は、このようなものを持って参りました。ミーファ様の、お気に召すと良いのですが」
「お気に召しません。帰ってください」
けんもほろろの反応だ。イーフは完全に出鼻をくじかれた格好で、しかしめげずに音を出そうとするが、ミーファに止められる。
「止めて。私、音楽が嫌いなの」
話が違うじゃないか、と頭の中でロシェフに毒づく。この世界に生きる人間ならば、大体が音楽好きだからそれで攻めればほぼ間違いないと言っていたのは何だったのだ。
だが、と、イーフは考え直し、楽器を仕舞う。
「俺もそうです。音楽は嫌いだ」
「え?」
ミーファが戸惑ったような顔をこちらに向ける。今度は、イーフがミーファから目を逸らしていた。
「俺の国は1歳の時に滅びました。敵国の主戦力は『戦奏器』でした。つまり、音楽の力で、国を焼かれ、家族を殺された。そんなものを好きにはなれない」
妙なところで気が合ってしまうものだと、イーフは自嘲気味に頬を吊り上げた。
「私も、そうよ。貴方も知っているでしょう。“滅歌”。私の歌は、世界を滅ぼし得る“兵器”だって」
イギルスタンに攫われた“本当の理由”。イーフは僅かな情報しか与えられていないが、それでも思ったことを口にした。
「ですが、貴女の声は、とても美しい」
言ってしまった後で、そのセリフがあまりに気取った色を含んでいることに気付いて急いで訂正する。
「いえ、あの、失礼いたしま―――」
「ありがとう。そんなこと言ってくれる人は初めてよ」
「ミーファ様……」
だが、ミーファは優しく微笑んでそう言った。音楽に生かされる世界で、音楽を嫌う者が二人。イーフは、生まれて初めての理解者を得た気がした。だから、こう続けた。
「街に、行きましょうか。ここにいてもつまらないだけです」
ミーファの表情が一瞬呆気にとられたようにイーフの少し苦笑の混じった顔を見たが、すぐに弾んだ声を返した。
「今すぐ着替えるから、外で待っていて!」
太陽のように晴れた顔で話すミーファをなだめるようにイーフはいう。
「夜まで待ってください。色々と準備をします」
ミーファは聞いているのか居ないのか、早速侍女を呼びつけてお忍びの恰好を選び始めたので、イーフは慌てて外に出た。
そして、執務室に向かう。
「イーフ様、今日はどうでした?」
すっかりそこが定位置になっている部隊長が、師団長の事務机から声をかけてきたので、言ってやる。
「今夜、お忍びで街に出られることになった」
「はい!?」
この大袈裟なリアクションが返ってくるやり取りもそろそろ板についてきたという感じで、イーフは続けて、ラキを巻き込む声を出す。
「総統には知られないよう、根回しを行うぞ。告げ口をしたら極刑だ。いいな」
後半から魂が抜けたように呆けた表情となったラキの無言を総統の命令違反に承諾したとみなし、イーフは夜に向けた“根回し”に取り掛かった。
海から吹く強い風に、空船がスピードを上げ、甲板が大きく揺れる。
「少し出かけるだけなのに、随分と大袈裟ね」
動きやすいワンピース姿で、銀髪を隠すためのターバンを頭に巻いているミーファは、倒れそうな体で何とかバランスを取りながら、大きな声を出す。現在空船楽団が一人の姫君のわがままに付き合うという形で演奏をしてくれている。
「敢えてそうしました」
宮殿の隠し通路から出て行ったり、小さな船でコソコソと動いたりしていては、逆に怪しまれるかもしれないと思い、夜半の軍事航空演習という名目で、第七師団の大型船を動かしたのだ。ただの買い物に、軽く50人程度の人間を巻き込む強権を発動したイーフに、ミーファはくすぐられたように笑う。
「貴方、意外と面白いところがあるのね」
そこはかとない高貴さは残しつつも、すっかり年頃の少女のような口ぶりで自分と話すようになったミーファに、イーフは少し諌めるように言う。
「これで最後です。せいぜいお楽しみください」
「そうさせてもらうわ」
ミーファは言うと、甲板を駆け出した。イーフは急いで追いかける。風を背に受けて加速の付いたミーファは船首まで両手を広げて走る。
「危ない!止まれ!」
全長五十メートル級の船全体に届くような怒鳴り声がして、ミーファは歩を緩めるが、簡単には止まれない上、急に止まろうとしたせいで、つんのめって転びそうになった。
「ミーファ!」
「きゃっ!」
両親と以外からはされたことのない呼び捨てと、強く逞しい腕に後ろから抱きしめられ、ミーファは思わぬ声を上げてしまった。
「―――意外と考え無しなところが、貴女の欠点ですよ、ミーファ様」
イーフは口調こそ冷静だが、自分の安全を確保するまでは相当に高揚していたことをミーファは知った。言葉の端々で全力疾走した後らしい吐息が漏れ、抱きしめられた背中には彼の早鐘のような鼓動が伝わってきたからだ。
「危ないので勝手に動き回らないでください。お願いします」
「……はい。ごめんなさい」
素直に謝ると、イーフから解放された。どうやら喉元までせり上がってくるほど感じた鼓動は、彼の物だけではないようだった。
「さぁ、もうじき街の船着き場に到着します。参りましょうミーファ様」
不規則に揺れる船の上で、肩を軽く抱かれ、支えられながら歩く。負けん気の強さを思わせる鋭く尖った横顔を見上げながら、ミーファがいう。
「あの、これから貴方と一緒に街に向かうのよね」
「最小限の護衛を付けますが、一番近くにいるのは俺になります」
「なら、これからは貴方のこと、イーフって呼ぶわ」
「どうぞ」
「あと、貴方も、私のことミーファって呼んで」
ミーファは、いってしまってから、自分が発した言葉の重大さを知った。一王族が、一兵士に呼び捨てにされるということはどういうことなのか、当然イーフも分かっているから、その顔が絶滅したはずのガーゴイルの群れでも見たように歪む。
「そ、そのようなことを、貴女のような立場の者が言っては―――」
知っている。だが、ミーファは濁流のように溢れ出る言葉を止めなかった。
「さっきは呼んでくれたでしょう?それに、これまでのやり取りで、イーフ、貴方、相当失礼なことばかりいってきたのよ。敬語も所々外れているし、途中からずっと自分のことを“俺”っていっているし」
イーフは現在進行形で巻き起こっている禁断を三歩ほど踏み越えたやり取りに冷や汗をかきながら、ミーファの碧い瞳を見下ろす。つぶらで大きな瞳は、王女という仮面を完全に捨て去り、こちらに懇願してくるように月明かりに照らされている。
「善処します……する」
おかしな文章を口で紡ぐと、ミーファは雪のように真白に光る顔で、嬉しそうに笑った。
城下町はイギルスタンの首都だけあって、夜深くになっても人の往来が多かった。
「私、露店街の方に行ってみたいの」
ピンポイントで、最も護衛のし辛いところに行きたいという王女に、イーフは露骨な溜息を吐いた。
「なに?嫌なの?」
「そうは言ってないが、溜息くらい吐かせてくれ」
「なによ。楽しくないの?」
「当たり前だ」
こちらは一度でもこのお転婆姫を見失えば即、立場的にも肉体的にも首が飛ぶ身なのだ。呑気にショッピングだなどと言っていられるはずもない。
「イーフは固いわね。まだ子供の癖に」
「子供じゃない」
「それは良いとして」
「よくない」
「私、この国の通貨を持っていないの。いくらか貸してくれない?」
「……」
突っ込む気力も失せ、幾ばくかの小銭を差し出そうとすると、その手を白く細い指が絡め取り、引っ張った。
「ふふ、さぁ行きましょうイーフ。早くっ!」
無邪気そのものの跳ねるような声と足取りに引かれるまま駆け出してしまったイーフは、一瞬後ろに付く護衛兵たちのことを忘れてしまい、ミーファの手を強く掴み直した。
「うーん。これもいいわね」
露店の前で始めたファッションショーはかれこれ一時間に及ぼうとしていた。店員はさながら召使の如く次々と新しい布を持ってきては却下され、完全に疲れ切っていた。
無意識に他者を従わせてしまう能力は、流石由緒ある王家の血筋だなどと呑気なことを考え始めた頃、イーフに声がかかった。
「ねぇイーフ、これ、どちらがいいと思う」
どうやら長考の末、ようやく二択にまで絞ることができたらしい。結果的に商品が売れそうなことに感涙しそうな店員に申し訳なく思いながら、イーフは絞り込んだ二着を見る。
一着はリートレム全般にある、派手なパターンが織り込まれた民族衣装、もう一着は、シンプルな白のドレス。はっきり言ってどちらがいいかなど分からなかったが、そろそろ物一つ買うというレベルではない傍若無人な振る舞いに興味を持ったと思われる者たちの人だかりができ始めている。完全に注目される前に、決めてしまわねばならなかった。
「こっち」
適当に指を差すと、ミーファが人工魔奏石の光に照らされてもまだ輝く笑顔をこちらに向けた。
「やっぱり!私もそう思っていたの!」
良かった。何が“そう思う”なのかは全く以て分からないが、とりあえず機嫌が上々で、良かった。
「じゃあ、これ持っていて。次はどこに行こうかしら」
渡された白の服を持たされながら思う。我儘な少女と、振り回され、渋々付き合っている男。これではまるでデートではないか。いや、断じてそんなはずはないのだが。
「―――イーフ様!ミーファ様がおりません!」
背後にいた護衛から声がかかるまで、思考の中に没入していた自分を恥じた。視線を素早く動かし、ミーファを補足しようとするが、人の密集する露店街にあっては、中々上手くいかない。
「四方に分かれて探しましょう」
「いや」
護衛の提案を拒否し、イーフは息を大きく吸い込み、あらんかぎりの声で叫んだ。
「ミーファ!!どこにいる!!早く出てこないと、お前が普段どんな下着を着けているのか皆にいうぞ!!」
文字通り決死の覚悟で放った大声の効果は覿面だった。すぐさま「キャーーー!」という奇声と共にミーファが現れ、見事な平手打ちをイーフに見舞った。
「何を言っているの!公衆の面前で―――」
言葉を続ける口が、イーフの胸元に塞がれる。船の上よりも強い力で抱きしめられ、怒りが霧散していく。
「勝手に動き回るなって言っただろう。心配させんな。バカ」
どう聞いても“護衛”としてではない、嘘偽り無く安堵した口調に、ミーファは自分の顔が耳まで熱くなっていくのを感じた。
「バカは貴方でしょう。私はガキなんだから」
抱きしめられた状態から、ゆっくりと解放される。
「そうだな。ガキが迷子にならないように、しっかり手を握っていなかった俺がバカだったな」
微笑みを交わす。ミーファが手に握っていたものを取り出す。
「これを買っていたの。貴方へのプレゼント」
それは、小さな魔奏石だった。
「手持ちのお金が少なくて、これくらいしか買えなかったのだけど」
「そもそも俺の金だ」
「あ、そうだった」
間の抜けた表情を見せるミーファを笑ってから、魔奏石を受け取る。
「私も同じものを買ったわ」
そう言って見せてくれる。よく見ると、形から浮遊魔奏石を削り出したものだと分かる。
「何でこんなものを?」
「同じ魔奏石をそれぞれ一つずつ持っていると、お守り代わりになるんですって。それに、私よく落ちそうになるでしょう?」
恥ずかしそうにいうミーファに「そうだな」といってやる。
「もう!―――だから、私が落ちてしまったら、この石が助けてくれるの。そうしたら、貴方が下まで降りて、私を助けに来て」
握った魔奏石が汗で滑るのは何故だろうと思いながら、イーフはミーファの言葉を噛みしめるように聞いた。
「分かった。やってみるよ」
不意に肩を叩かれた。振り返ると、護衛兵の一人が神妙な顔でイーフに告げる。
「そろそろ戻りましょうイーフ様」
「ああ、そうだな。もうそんな時間か」
「いえ、時間はいいのですが、いかんせん騒ぎすぎたようです。人だかりができているのに、気付かれませんか」
いわれて、初めて周りを見渡す。確かに、自分たちを囲むように人が集まっているようだ。
「ひょっとして、王女だということがばれたのか?」
「いえ、それは無いと思われますが、しかし―――」
「何だ?」
「皆、ミーファ様とイーフ様を見て一様にニヤニヤしているので」
「なにそれこわい」
帰路につく空船は静かだった。音のエネルギーは、もう十分魔奏石に蓄えられているとイーフが判断し、楽団を休ませたのだ。当然のことながら、方便だ。
聞こえるのは風を切る音と、木造の帆船が僅かに揺れ、軋む音だけ。ミーファとイーフは、並んで甲板の隅に座り、夜空の向こうに輝く星を眺めていた。
「あの星がある場所には、何があるのだと思う?」
変装用のターバンは不要と、銀の髪を夜風になびかせるミーファが言った。まるで美しい絹のようなそれに少しくすぐられながら、イーフは学校で習ったことを思いだす。
「空の先は、空気のない世界らしい。そこでは何故か音も届かない。俺たちにとっては理想の場所かも知れないな」
だが、ミーファは首を振った。イーフは何かし始めたミーファの方を見ると、美しい歌声が聴こえた。
ハミングで一分ほど歌うと、イーフの持つ魔奏石が光り輝き出した。人の声でこれほどまでに魔力を蓄えた魔奏石を、初めて見た。
「本当はね、歌うことは好きだったの」
夜の闇を照らす光を放射する魔奏石を見ながら、ミーファがポツリと漏らした。
「でも、お母様が無くなる少し前に“滅歌”を教わってから、怖くなった。自分の声、歌、この世界の音、全部」
イーフは腕を組んでその独白を聞いた。本当は、思い切って抱きしめてしまいたかったが、先程よりずっと冷静になった頭と立場が、それを阻んでいるようだった。
「また、聴かせてほしい。ミーファの歌」
何とか、それだけを絞り出すようにいった。
この世界の音など、全部噪音だった。全部が耳障りでこちらの神経を逆撫でする。そんなものを、何故この世界の人間が愛し、親しむ理由が分からなかった。
だが、今日、少しだけ分かった。この声は、自分の心を救ってくれる響きだ。誰かにとっても、きっとそんな響きがあるのだろう。
「イーフゴート・ヒナタリア・ラスティミーズ。それが、俺の本当の名だ」
イーフは、ほんの一部の者にしか明かしたことのない名を言った。ミーファには、知っていて欲しかった。
「ラスティミーズ―――15年前に滅んだ……じゃあ、貴方も王族なの?」
「もう、復興することはない。今の俺は、イギルスタンの平民だ。王族たる気品もないしな」
自嘲気味に付け足し、笑うイーフを、しかし、ミーファは笑えない。
「貴方を救いたいわ。イーフ」
胸の辺りに、暖かいものが広がっていくように感じた。まるで、長年こびり付いた鎧のようなしこりが取れ、陽が差していくような。
だが、もう戻らなければならない。魔法は解かないといけない時間だった。
「―――もう、終わりです。これ以上先に行ってはいけない」
イーフは、ほんの少しミーファと距離を取り、告げた。
「この先に待つのは破滅だけです。どうか、コーディシアの第一王女ミーファ様にお戻りください」
耳に届くイーフの声が、少し震えているのを聞き逃しはしなかった。滅亡した国の数少ない生き残りとして孤独に震える彼を、少しでも救ってあげたかったが、ミーファは、一人の男を愛し始めた少女から、全体を優先する王女に戻った。
「そうですね。失礼いたしました、イーフ様」
それから、お互いに無言で宮殿に辿り着いた。同行した兵士及び楽団員たちに固く口止めをし、一点を見つめ、決してイーフと目を合わせようとしないミーファを部屋に連れ戻す。
「買われた服は、どういたしますか?」
一度心が通ってしまったからこそ、より機械的に響く声で言うイーフの手にあるドレスをひったくるように取ると、部屋の隅にかけ、囁くようにいった。
「明日にでも着ようと思います。今日は、ありがとうございました。また、明日―――」
「また……」と、イーフも言いかけて、止めた。何を血迷ったことを言おうとしているのだ。
黙って一礼をし、部屋を出た。外で待っていた侍女に「あとは任せた」と言い残し、イーフは少しばかりの寂寥感を打ち消すように自分の頬を張った後、元の、兵士としての世界に戻って行った。
馬車が伝える不規則な揺れが身体に再び伝わってきた。数秒、ミーファの全てに身を委ね、甘い記憶に酔っていた自分が現実に引き戻される。
イーフは、重ねていた唇をゆっくりと離した。それほど深いキスでは無かったが、してしまったという事実だけが重くのしかかる。
「何故、拒まなかった」
破滅しかないと言ったのは自分だ。それで、この言い草だ。イーフは自分の勝手さに内心で失笑を漏らす。
扇情的に潤んだ碧眼の主は、細い指で自分の口元を撫でると、か細い声で言った。
「貴方のせいよ」
紅潮した頬に触れる。熱を持ったそれと同じくらい、イーフの手も熱かった。
「分かってる。でも、お前は王女だろう」
頭の悪い娘ではない。理性を働かせて、拒絶しようと思えばできたはずだ。なのに、しなかった。ミーファは少し目を泳がせた後、おずおずといった。
「ユキに、影響されたのかな」
「またそいつの話か」
露骨に不機嫌になるイーフ。だからいいたくなかったのだ。
「何であの子にそんな対抗意識を燃やしているの?ユキはまだ11歳よ?」
「たった三日で、ミーファを変えた。それに―――」
イーフは自分と対峙したユキという少年の顔を思い出す。虫も殺さないような穏やかな顔立ちからは考えられないほどの気迫を感じた攻防。油断はしていたかもしれないが、手加減はしなかった。それでもミーファを守るために、最後まで立ち向かってきた。ただの子供ではない。
だが、あまりユキについての評価を口にしてしまうと、またミーファの気持ちがそちらに揺れてしまうような気がして、それ以上はいわなかった。ミーファと同様に、イーフの中でもユキの存在は大きくなっていた。
「あの夜の後、どうやって逃げ出したんだ?」
馬車が大きく揺れた。ミーファを支える為、肩を抱いてから、ミーファが脱走した日のことについて訊く。
「空船を使ったのよ。私の歌声で魔力を溜められることが分かったから、それで」
魔奏石に作用する楽音エネルギーは、メロディ・ハーモニーの練度に応じて大きくなる。その点で、声もまた楽器のようなものであり、実際に聖歌隊が空船を動かす国もあるが、一人で国境付近まで空船を飛ばしたミーファの歌声は恐ろしい。
「アブソビエの先の平原に『白き光』が現れたことを知ったのはどこからだ?」
「侍女の人が話していたの。その人が誰から聞いたのかは分からないけど」
伝承でしかなかった話が現実に起こったことを聞きつけ、つい話してしまったのだろう。それは仕方の無いこととはいえ、その後が問題だった。
「部屋の鍵は開いていたのか」
「ええ」
イーフが鼻から息を漏らす。ミーファが不安そうな顔をする。短い間だが、衣食の世話をしてくれた人間が罰せられることになるのは嫌なのだろう。だが、イーフが考えていたのは侍女の失態についてではなかった。
真夜中、それも、警備が最も手薄になる時間を狙って行われた、ミーファの脱走。彼女が知る由もないが、盗まれた空船は廃棄される予定だったもので、浮遊魔奏石の効力も切れているはずだった。
前者については偶然。後者に関しては、微量に残っていた魔力が、ミーファの歌声に反応したという説明が、一応はできる。だが、何か作為的なものを感じずにはいられない。ここまでに至る周到な“流れ”が出来ていたような気がした。
神妙な顔をし始めたイーフを見て、ミーファが話題を変えるように明るい声を出した。
「ねぇイーフ。この服、貴方があの日、選んでくれたものよ。ちょっと色が移ってしまったけど」
特にシンの着ていた変わった染料が使われていたの服―――ジーンズのことだ―――のせいで少し青くなっているドレスを見せる。
「それに、あの“お守り”のおかげで助かったの。ちゃんと持っているでしょうね?」
詰問するように顔を覗き込まれ、イーフは顔を赤くしながら小さな浮遊魔奏石を取り出した。その手を握って、ミーファが話す。
「私、話を急ぎすぎたかもしれないわね。酷いこといってごめんなさい。でもね、貴方はイギルスタンにいるべきでは―――」
いいかけ、かぶりを振る。“彼”なら、こんないい方はしないだろう。
「―――いいえ、私が、貴方と一緒にいたいの。だから、いつか必ず、コーディシアに来て。貴方が何者かなんて関係ないわ」
「なんだか、我儘に磨きがかかったみたいだな。それも、あのユキとかいう奴の影響か?」
いわれたミーファは、口をへの字に曲げて、わざとらしく不機嫌そうな顔を作り、その顔を眼前まで近づける。
「自分のことを好きな女の前で、ほかの男の話をするなんて酷いじゃない?」
一瞬、息が詰まったような感覚に陥り、イーフはまじまじとミーファの顔を見た。
「今、なんて……」
「イーフ、私、貴方のことが好―――」
言い終わらないところで、馬車が急停止した。
「わっ!」
咄嗟にミーファを抱き寄せる。慣性で壁に頭をぶつけたが、ミーファの方は無事だった。
「イーフ殿、やはり馬車二台のうち一台に十三人入るのは厳しいものがあると苦情が出たので……大丈夫ですか?」
馬車を止めさせ、やってきたロシェフが赤い顔にコブを作ったイーフを見ていった。
「大丈夫です。ミーファ王女に交渉してきます」




