伝っても出られない
「迷宮」とは便利な言葉だ。とにもかくにも難解な物事は「迷宮」と形容するだけで伝わる。「愛の迷宮」、「事件の迷宮入り」……ま、数えたら切りはない。
しかし、いま俺の目の前で顔を真っ赤にしながら怒り狂う彼女、秋山瑞穂が語る「迷宮」とは比喩的なものではない。物理的な、要は建物としての迷路である。
そして、その原因を知りえるには十五分ほど遡る必要がある。
―十五分前―
暦は七月。我々大学一年生には無情にも大学生活初めて期末試験が迫っていた。テスト勉強をするという名目で、ゼミ室には俺と秋山、そして我らが久我山ゼミ長にして、キャンパス内でも有名な才色兼備の花笠ちづるが集まっていた。しかし、集まったからといって、何をするわけでもない。無論、テスト勉強も。俺は何となくスマホの画面に映る簡易投稿サイトと流し読みしていた。
「ねぇ、瑞穂。友樹君に聞いてもらったらどう、あの話。何か分かるかもよ」
無音に近い室内に響くは花笠嬢の上品な声。
秋山は無言で首を縦に振った。
「ねぇ、あ、でも、笑わないでよ。あたしちょっと、気になる事があってさ。ちょっと聞いてもらえる」
俺も無言で「続けてくれ」の意を示す。
「うん。最初から話すね。ちづるは分かると思うけど、この前の土曜、ちづるとかとあの『図書館迷宮』に行ったの。知ってるでしょ、あの柊公園で期間限定でやってるやつ。たしか、Xサイトだったよね、主宰してたの。で、一人ずつ挑戦した方が面白いってことで、じゃんけんに負けたあたしが最初に一人で入ったの。内装はCMとかでも流しているように本物の書架の壁で、名前通りさながら図書館。すっごいスピードで脱出してみんなを驚かせてやろうって、とにかく右側の壁を伝って走ったの」
Xサイトって確か有名ゲーム会社だったよな。今回の「図書館迷宮」は新発売のゲームとの連動企画なんだとか…。そして、片側の壁をひたすら伝って出口に辿り着く。
これもまぁ、言ってしまえば――
「迷路攻略の定石だね」
その通りです。さすが悠太。って、いつからそこにいたんだ。確か、なんとか委員会の一員になっている悠太はその会合があるとかで遅れてくるとは言っていたが。
ヤツは雪元悠太。大学入学以来なんとなく行動を共にしている。ひょろりとした体躯に、日焼けを知らない様な色白の素肌。見た目通りの飄々とした性格の持ち主で久我山ゼミのムードメーカーにして、花笠嬢の過去を知る唯一の人物。なんでも、小学校の頃からの幼馴染らしい。本人は腐れ縁だと言っているが、花笠嬢自身は―――
はて、彼女が悠太の事を話しているのは聞いた事がない気がする。そもそも、あまり過去を語らないミステリアスさが、彼女の才女ぶりを引きたてているような気さえする。とにかく、花笠嬢からしたら悠太も含めて彼女が語りたがらない過去の一部に属するのだろう。
こうして、計らずとも久我山ゼミのメンバーがそろった。面白いことにこのゼミメンバーの名前は四季に対応している。まずは、花笠嬢が春。秋山はそのまま秋。遅れてきた雪元の冬。そして――
「盗み聞きつもりはなかったんだけど、つい興味深くてね。ね、彦星」
俺の名字が七夕なのをいいことに、悠太は時々俺を彦星と呼ぶ。まぁ、夏ってわけだ。
はいはい、と悠太をあしらう。その扱いに慣れているせいか、奴も悪びれた様子も見せずニヤニヤしている。
「丁度よかった。雪元君にも聞いてもらった方が都合いいんじゃない?」
「そうだね。説明は最初からでなくて大丈夫?」
「最初から聞かせてもらっていたからノープロブレムだよ」
悠太は右手で「どうぞ」ばかりにと続きを促す。
「分かった。えっと、どこまで話したっけ。そうそう、とにかく右手を壁に付けて進んだの。でも――」
秋山はそこでさも意味深に言葉を切る。
「でもー?」
元々、女子も羨むくっきり二重の悠太の瞳がさらに大きくなる。お話の続きをじらされている小学生の様だ。興味津々なのが他の何を聞かずとも伝わってくる。ヤツの生命活動の原動力は好奇心なのではないかと時々疑いたくなる。
「出られなかったのよね」
「うん」
花笠嬢、ナイスアシスト。
「なんと! いち大学生が迷う程の迷宮がこの柊市に出現したとは驚きだ。それで、結局、瑞穂はどうやって脱出したのさ」
仰々しく手を広げる悠太。まったく、楽しそうなやつだ。
「それは――」
秋山が顔を伏せる。顔が赤くなっていたような……。
「結局ね、自力での脱出は出来なかったのよ。後に入った人が先に出てきちゃうし、確か、入ったのが一一時半ぐらいで、正午を回って、ゆうに一時間経っても出てこないから心配してたら、瑞穂から『たすけて』ってだけのメールが私に届いて、迷路のスタッフに頼んで捜索してもらったの。迷路内に監視カメラがあったみたいで、瑞穂はすぐに見つかったわ。混乱したあげく散々走り回ったみたいで、それはもう満身創痍状態でね。出てくるなり泣いちゃって大変だったんだから」
「っ!! ちょっと、ちづる!」
あっ、と口を押さえるも、時すでに遅し。ほう。いつも強気の秋山もそんなにしおらしくなる事があるのか。感心、感心。
「迷路から出られなくて、泣くとはいつの間に女子力を上げたんだ」
地雷を踏みましたね?
はい。
「普通そんな言い方ってある? こう、もう少しデリカシーとか、気遣いとか考えられないのかなぁ。信じらんない」
その手の罵倒は甘んじて受けましょう。
「俺がわるーございました」
「もー、だからそういう態度の事を言ってるの!」
ぷりぷり怒る秋山。ま、こっちのほうが秋山らしいか。
「だから、ずっと右側の壁を伝ってたんだってば。出口が見つからないなんて事自体、おかしいじゃない」
「分かった、分かった。つまり、瑞穂は迷うはずがなかったってことでしょ。ね、ね」
花笠嬢がすかさず、俺のひとことで爆発させてしまった秋山を宥める。秋山はもう「うん、うん。」と大人しくなった。そうしていれば、可愛いものを。
「えーと、じゃあ瑞穂は先週の土曜日は花笠さんを含めた4人で柊公園に特設された迷『図書館迷宮』に行った。そこでじゃんけんに負けた瑞穂が一人で最初に入るも、一向に出てこない。おまけに、『たすけて』ってだけのメールが花笠さんに届いたもんだから大騒ぎ。スタッフに頼んで助けだしてもらった。これで合ってるかな、瑞穂」
「そうそう。ユッキーは物分かりが良くて助かるよ。それに比べてこの彦星ときたら」
秋山が、キッと俺に鋭い目を向ける。それに、彦星はやめとけ。
「ま、それにしても、さすがに迷路で迷って泣くなんて大学生になってあんまりだろうが」
カウンターアタックだ。喧嘩は両成敗でないと。
「ほら、また言ってるし! ちょっと、ユッキーなんとかしてよこいつ」
ついに「こいつ」呼ばわりですか。
「まぁまぁ、友樹もそれ以上は趣味が悪いよ。僕に友樹の事を『言葉攻め鬼畜大臣』とでも呼ばせたいのなら話は別だけどね」
そんな趣味はありません。視界の端で花笠嬢が笑っている。誤解なさらぬようにお願いします。
「で、瑞穂の話だったよね。あの迷路の謎を解明したいんだっけ」
さすが花笠嬢。話題修正のタイミングの的確さといったら彼女の右に出る者はいないだろう。さっきまで立っていた悠太もいつもにか椅子を持ってきて完全に話し込む姿勢をとっている。
壁を伝っても出られない迷路、か。
「ユッキーはどう思う」
うーん、と悠太は芝居掛かった様に腕を組む。
「どこからで壁から手を離しちゃったってことはなかったの」
「そんな事は絶対ないよ」
秋元は身を乗り出して否定する。
「そこまで言い切るには何か理由が?」
俺はすかさず質問を割り込ませる。別に悪いはない。悠太のごとき純粋な好奇心だ。
「実は、スタッフさんには申し訳なかったんだけどあたし、迷路の中に目印を付けたの。その……本の背表紙に爪で少しだけ痕を付けて、その高さの棚をずっと辿っていって、それで、自分が一周しちゃってる事にも気が付いたわけ」
なるほど。それは筋が通る。はて、どうしたものか。
「ふーん。で、改めて迷路の構造を教えてもらえないかな」
答えたのは花笠嬢。
「そうね。内装は瑞穂が言ったとおりでしょうね。で、出入り口に関しては方角で言うと南が入り口で北が出口って感じで、図形でいえばきれいな正方形をしているはず。私は友達と三人、北側の出口で瑞穂を待っていたの」
入口と出口が一つずつ。ま、普通の迷路だろうな。そうなると、どうして秋山は脱出できなかったのだろうか。
「僕はやっぱり、どこかで瑞穂がミスをしたとしか考えられないなぁ。後を付けた本には偶然辿り着いたとしか……」
いまひとつ決定打に欠けるな。秋山、花笠嬢両氏もどこか煮え切らない様子だ。
「迷路自体が普通とは異なる仕組みを持っていたとしたらどうかしら」
「というと?」
花笠嬢の独特の雰囲気。天性のカリスマ性が見え隠れする。悠太の目がまたきらめきだす。止まる事を知らない好奇心の亡者。
「例えば、設定は図書館だし、ありがちなところでいえば本がスイッチになって書架が移動するとか、書架そのものが扉になっているとか」
だいぶ推理小説じみているな。花笠嬢はそういうものがお好みか。
「うーん。なんか、理由はないんだけどユッキーも、ちづるも違う気がするんだよなぁ。広い迷路の中で迷いつつも痕を付けた本にもう一度出会うのって凄く難しいと思い。それに、ちづるの言うような仕掛けがあったら、そもそも迷路として成り立つかどうかも分からない」
「まぁ、秋山の言うことには一理あるな。俺も賛成だ」
「な、何よ、彦星。こんな時ばっかり気持ち悪いんだから」
あからさまに、嫌悪感を示す秋山。何もそこまでしなくとも…。
「おっ、そこまで言うからには、何か考えがあるのかい、友樹」
「ん、いや……。そうだ、秋山。お前がスタッフに発見されて出るまでの間、さすがに意識はあったんだろう?」
「あったに決まってるじゃない!」
秋山は全部突っかかってくる気なのだろうか。
「なら、出口までのルートが分かってもおかしくないんじゃないのか?」
俺はその場の空気が変わったのをなんとなく感じた。
「確かに。友樹が言うことはもっともだね。友樹がそんな鋭い発言が出来るなんてね。惚れ直したよ」
ちょっと待て、お前はどのタイミングで俺に惚れていたんだ。
「ほんとね。七夕君の言うことは理にかなっている。どうなの、瑞穂」
これで、抜け出せない迷路の謎は解決か。
と思いきや、
「ごめん、分からないの。スタッフさんが来てくれて、私の前を歩いてくれているのは分かったんだけど、迷ったせいでとにかく方向感覚が無くて。時間を気にしてるみたいで、凄い勢いですたすた歩くスタッフさんに着いて行くのがやっとだったの。何度も曲がって延々と続く書架の間を進んだ印象しかないなぁ。それで、気が付いたら出口だった」
ま、無理もないか。それが分かってたら、そもそもこんな話題にならなっただろうに。実に不毛な質問をしてしまった、と思ったが実はそうでもない。収穫はあった。
「おっと、彦星君。何か閃いたんだ」
思わず体がこわばる。だから悠太は油断ならないんだ。答えずにいる俺に秋山と花笠嬢の視線が刺さる。
「ほんとなの彦星」
「ん、まぁ、まだ仮説だけど、一応。でも、ちょっと確認した事がある。スタッフは本当に時間を気にしていたんだな」
「う、うん。でもどうし――」
秋山の返答を遮るようにしてもう一つ質問をする。
「それと、これは秋山でも、花笠でもいいんだが、迷路の一辺の長さはどの位だった」
「200mジャスト。パンフで確認してるから間違いないわ」
さすが花笠嬢、抜かりがない。そして、これで俺の仮説はほぼ立証された、はずだ。
「なんなのよー。モヤモヤするから早く教えてよっ!」
まあ、そう急ぎなさんな秋山瑞穂よ。
「さて、『言葉攻め鬼畜大臣』の推理をご教授願いますかね」
調子に乗るな、悠太。
「悠太」
「ん?」
「お前が、その赤いリュックを隠すならどこに隠す?」
「うーん。さしずめ地下にシェルター付きの金庫でも作って匿おうかな」
「こら、真面目に答えろ」
悠太はごめん、ごめんと居住まいを直すと、
「赤いリュックを隠すなら赤いリュックの中に紛れさせる。友樹はそう答えてほしかったんだろう」
「その通り。ま、この出られない迷路の謎はそう言う事だ」
一同がぽかんとした表情になる。
「何か考えがあるんだろうけど、それだけじゃ分からないわ、七夕君」
花笠嬢にそう言われてしまったらこれ以上勿体ぶる事も出来ない、か。
「つまり、俺が言いたいのは『通路を隠すなら迷路の中』ってことだ。秋山が壁を伝っても脱出できなかったところからだ。実はあの迷路攻略法には盲点があるんだ。例えば、迷路の出口が階段とかで二階とかになっている場合だ。ただ、それは平屋だったっていう話から否定できた。となると、恐らく『図書館迷宮』は迷路囲むようにもう一層の通路で囲まれている構造になっている。そして、この迷路の出口は多分、複数だ」
「えっ。箱庭ってこと? それに、確か出口はちづるが言ってたように北側ひとつだけのはずじゃ。ちゃんと説明してよ」
秋山が明らかな動揺を見せる。花笠嬢も驚きを隠せない様だ。一方悠太は、相変わらずニヤニヤしている。分からんやつだ。
「ま、ある意味出口は一つ、か。外側の出口に限ればな。分かりやすく言えば、『図書館迷宮』は内側に小さな迷路、外側に一周できる通路を持った二重構造の迷路だというわけだ。そして、多分内側の迷路は四方に出口があって、時限式で変動していくんだろうな。さしずめ、五分おきぐらいに四つぐらいある扉のうちの一つが開く仕掛けなのだろう」
「だから、スタッフが時計を気にしていた事を念入りに確認したの?」
お、秋山もだいぶ分かってきたみたいだな。
「そうだ。それに、一辺200mとして人が歩く速度は約分速70m。出口が五分ごとに時計回りに変動を続けたとして、スタート時、秋山と一辺ずれた状態――例えスタート時の秋山の位置が南で、開いている扉がの位置が西だったりする場合だ。そうなれば、両者が出会うことは相当難しいだろうな」
「これが、『図書館迷宮』の謎だってわけか。なんか、あっけないなー。なにより、彦星が謎を解いちゃったことが何より悔しい」
だれだよ、最初に俺に話を持ちかけた秋山さんは。
「よくこれだけの話で、そこまでの推理、しかも恐らく正解まで導けたね」
「いやぁ、別にそれ程の事じゃ」
花笠嬢に褒められるとは恐悦至極に存じ上げ奉りまする。
*
結局あの後、あの場はすぐ解散になった。
所変わって、大学の最寄り駅。俺の隣には悠太がいる。ふんふんとなにやら鼻歌を歌ってゴキゲンの様子だ。
「ところで、本当にあれだけで推理したの? 迷路が二重構造で、出口が複数なんて突飛な推理は飛躍しすぎていたんじゃないのかい。ま、瑞穂は納得したみたいだったけどさ」
やはりそうきたか。ただ、俺も悠太がこう出てくるだろうことは予想済みだ。
「あの迷路の主催団体の名前覚えてるか」
「ゲームで有名なXサイト社だろう? そのくらい僕だって知ってるよ」
「簡単なアナグラムだ。会社名を並べ替えてみろって」
Xサイト (X- Site)
E X I T S
悠太がハッとするのが分かる。そこまでは気付いていなかったのだろう。
「出口(EXIT)の複数形とは恐れ入ったよ。いかにも日本人らしい」
「ま、そんなところだ。秋山には内緒な。黙っていたのがばれると厄介だからな」
もちろん。と悠太は親指を立てた。
ホームに電車の到着を告げるアナウンスが響く。テストは明後日からか。丁度いい頭の体操になったな、とぼんやり考えながら到着した電車に乗り込んだ。