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08. 恋人たち2

 シオンが地上人の女と暮らし始めた家は、女の仲間が住む村のはずれにあった。

 村といっても規模は小さい。

 村長の住居を囲み数軒の民家がまばらに建っているだけの、あるものといったらこじんまりとした畑と家畜くらいという鄙びた田舎だった。

 土地の名産品として近くの町に卸す〈花茶〉は貧しい村の貴重な資金源となっている。

 その村の外れ、村人の利用する水場を抜けたルザの森を少し入った場所、生い茂る樹木の枝葉に埋もれるように一軒の民家がある。

 長いこと空家だったのを修繕でもしたのだろう。煉瓦造りの外壁は色がそげ落ち、今はわずかに赤みがかった色合いを残すのみとなっている。家の脇には小さな薪小屋と小規模な畑があり、花茶の原料になるリアーネが黄緑色の新芽をつけていた。

 木の扉を開けるとすぐ台所になっていた。土間の台所にある釜戸では野菜のスープが白い湯気をたてている。テーブルと椅子が置いてあるところを見ると、食事もこの場でするのだろう。木の椀と皿、使い古されたスプーンとフォーク。棚に並んでいる食器はどれもが二組、数も種類も乏しく最低限の物しか揃っていない。狭くて質素だが清潔な家だった。

 土間の台所の他には部屋はひとつだけしかない。奥は寝室になっていた。部屋の南に面した嵌め込み式の格子窓では、窓際に置かれた鉢植えが可憐な白い花を咲かせている。

 開け放した窓から射し込む陽光が床に淡い光を投げかけている。豪華な調度品も色鮮やかなタペストリーもない。粗末な木の寝台がひとつあるだけだった。

 腕に抱いていた娘をレイダールは寝台に降ろした。動作は乱暴ではなかったが丁重というほどでもない。捨てるわけにはいかない他人からのあずかり物を、とりあえずその辺に置いておく、せいぜいがそんなものだ。

 意識のない身体はぐったりと寝台に横たわり微動だにしない。動く気配はなく、どこまでも無防備だった。たかが地上人、その生命を奪うのは容易い。かぼそい首をほんの少し絞めるだけでことたりる。それとも……

「冗談じゃない」

 ふと脳裏に浮かんだ考えをレイダールは慌てて打ち消した。

 娘はどう贔屓目に見ても魅力的という言葉からは程遠い。見ているだけでその気も失せるというものだ。興味を引かれるところといったら何も無く、せいぜいが「シオンが選んだ相手」というその一点に尽きる。

「この女の、いったいどこが綺麗だというんだか……」

 首を傾げたくなる。レイダールにはシオンの審美眼には、どこかしら致命的な欠陥があるとしか思えなかった。地上人などを選んだだけでも充分に驚きだが、どうせ選ぶのならせめてもう少し見栄えのする娘はいなかったのだろうか。

 年齢は十七、八といったところか。この年齢の娘にしては痩せぎすだった。洗いざらしの粗末な木綿の衣服から伸びた手足は陽に焼けているうえに傷だらけで、透き通るような白い肌を持つ神魔の女性を見慣れているレイダールにはひどく粗雑に感じられた。

 唯一、印象的なものがあるとすれば娘の赤い色をした髪の毛だった。かるく波をうって寝台に流れる髪は、地を這って広がる炎のようだった。美しく結い上げてピンで留めるどころか、髪飾りすら挿していない。陽焼けした肌ときつい色合いの赤毛、どちらをとっても神魔界にはないものばかりだった。

 目覚めが近いらしく娘は眉根を寄せ、微かにうめいた。睫毛が揺れ、瞼が痙攣するようにぴくぴくと動く。やがて娘はうっすらと目を開けた。瞳の焦点はまだ定まってはおらず、意識も朦朧としている。眼は深緑を思わせる透き通った色をしていた。

 いま目を覚まされては面倒なことになる。

 レイダールは寝台に身を乗り出すと、娘のあらわになった額に手をあてた。ことがすむまでは眠らせておくにかぎる。娘に邪魔をされるのは我慢がならなかった。

「これでいいだろう」

 二、三度、頬を軽く叩いて、暗示が完全かを確かめた。娘はよく眠っていた。これならあと数刻は目を覚まさないだろう。

「来たか……」

 村とは反対側、森の方から何者かが近きつつある。神魔独特の気配だった。相手が誰なのか確かめるまでもない。

「そうとう慌てているようだな」

 その理由に思い当たり、レイダールはうすく笑った。




「リィザ!」

 悲痛な声が室内に響いた。

 どうやら思った以上に効果をあげたらしい、寝室に駆け込むなりシオンは絶句して、その場に立ち尽くした。食い入るように見つめる視線の先には、寝台によこたわる少女の姿がある。

「リィザに何をしたんだ」

「べつに何もしていない。見ての通り邪魔をされたくなかったから眠らせておいただけだ。放っておいても、そのうちに目覚める」

 シオンは寝台の横に膝を付いた。リィザが本当に眠っているだけなのを確かめ、ようやく口を開く。

「だからって、こんな手荒なこと」

 声には隠し切れない憤りが含まれていた。

「何が手荒だ。俺にはその娘の身を案ずる理由などない。そんなことはどうでもいい。そんなことより俺がなぜ、わざわざ地上に降りてきたか言わずとも解っているな」

「おれを殺しに来たんだろう」

「いいや、ちがう。殺しに来たわけではない……今のところは」

 レイダールが否定すると、シオンはわからないというように首を振った。

「それじゃあ、なぜ?」

「父上……いや、族長の意向で俺がおまえの意思を確かめに来た。これが最後通告だ。離反と決まれば討伐隊が組織されるだろう」

「前にも言ったけど、帰るつもりはないよ。……覚悟も出来ている」

 返って来た答えは予想したままのもの。本当はいくら言葉を重ねようと無駄だと理解さえしている。けれど手段を選ばなければ方法はまだあった。

「覚悟か、いい答えだな」

 憎まれることなどかまわない。そうディーティアが言っていた。失うことに比べたら何も怖くないと。レイダール自身そうと認めたくはなかったが、自らの気持ちを代弁するかのような妹の真剣な眼差しが脳裏に甦る。

「それなら念のために確認しておくが、その覚悟とやらを女も出来ているのだろうな」

「なん、だって……」

 信じられないとでもいうようにシオンは目をむいた。蒼褪めたおもてを歪めると、唇をかみしめた。

「まさか、レイダール……」

「そのまさかだ。女が大切なら片時も側を離れずに見張っていることだ」

 言外に匂わせ、寝台の方へ視線を移す。

「そんな、嘘だろう?」

 とことん甘くできている。この後に及んでもシオンはまだそんなことを口にした。

「レイ……なぜ、そんなふうに言えるんだ? ずっと友達だと思っていたのに」

「笑わせるな、友達だと? いつまでそんな子供じみた幻想に捕らわれているつもりだ。自ら進んで一族を裏切り離反者となったのを忘れたわけではあるまい」

 笑みすら浮かべ、レイダールは言い捨てる。相反する二つを天秤にかけたとき、どちらに傾くか答えは決まっていた。残った一方を切り捨てる覚悟もとうにできている。

「嘘や脅しだと思うのなら女の生命を賭けて試してみるといい」

「そんなこと、出来るわけないだろ」

 すがるような目をしてシオンは首を振る。

「リィザをどうするつもりだ」

「解っているはずだ。それを決めるのは俺じゃない、おまえだ」

「おれに神魔界に戻れというのか?」

「そうだ。おまえが神魔界に戻るのなら女に用はない。地上人の女のひとりぐらい見逃してやってもいい」

 重苦しい沈黙がその場を支配した。シオンに選択の余地はない。無条件に要求を受入れると確信していた。







「お帰りなさい、兄さま。あら……シオンは一緒ではないの?」

 族長に報告を終え、自室に戻ったばかりのレイダールの前にディーティアが現れた。こんな時のディーティアは驚くほど素早い。

「シオンはしばらくのあいだ族長の預かりになった」

「何よそれ、ようするに体のいい軟禁じゃないの」

 苦々しい面持ちでディーティアは言った。

「もう少し言いようがあるだろう。せめて謹慎といってほしいな」

「どちらも同じことだわ」

「まあな」

 レイダールはあっさりと認めた。この妹を相手に隠すだけ無駄だったからだ。

「しばらくの間は仕方がないだろう。むしろこれくらいの処罰で済んだだけでも幸運なくらいだ」

「冗談じゃないわ。ひょっとしてダルファス兄さまが、また何か関係しているの?」

 二人の兄の対立を熟知しているディーティアは不安そうに言った。

「そんなところだ。今度のことで兄上がシオンを尋問したいとおっしゃっている」

 腹違いの弟の存在を忌々しく思うダルファスは悪意を隠そうともしなかった。レイダールの友人というだけで、シオンをすら嫌っている。レイダールの鼻を明かす絶好の機会をふいにされたのを根に持って、ダルファスはあれこれと理由をつけて鬱憤を晴らすつもりなのだろう。

「尋問だなんて、本当にそんなことをさせるつもりなの」

「それほど大掛かりなものじゃない、内々にだ。俺も同席することになっているしな」

 そうは言ったものの、レイダールにしたところで本心は別のところにあった。シオンが余計なことを口にしないとも限らない。地上人の女を盾に釘はさしてあったから心配はないだろうが、一抹の不安が残っている。

「不本意だが、兄上の顔をたてるためにも、しばらくの間は仕方がないだろう。シオンにしたところで、頭を冷やすにはちょうどいい機会だろうし」

 兄の手前、シオンを無罪放免にするわけにはいかない。せめて謹慎処分くらいは負わせなければダルファスにしたところで収まりがつかないだろう。

 気がかりはもうひとつあった。ダルファスのことだけでなく、族長であるバルダまでがシオンに興味を持っているらしいのだ。

 シオンとバルダは今回が初対面である。むろん一族の長であるバルダの顔をシオンは知っていたが、公の場に出席したことのないシオンとバルダは、ほぼ初対面と言っても過言ではなかった。

 族長であるバルダがシオンに抱く興味といったら、大罪である離反を企てたふとどき者に対するものか。あるいは親友コルダーの甥だからかもしれない。ディーティアのこともある。

 シオンは牢に閉じ込められているわけではなかった。待遇は悪くはない。むしろ破格の待遇と言えた。




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