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26. 風切り羽



 部屋に入ったとき、シオンは一瞬のあいだ立ち尽くした。

 肩が微かに揺れている。室内の中央に設置された寝台に寝かされている少女を、シオンは食い入るように見ている。

 レイダールもまた、そんなシオンの横顔を息を詰めて見守っていた。

 視線を逸らし、寝台に横たわる姿を見下ろす。そこには、シオンがその存在のすべてをかけて追い求めた少女が静かに横たわっていた。

 目を閉じている姿だけ見れば、ただ眠っているだけのようにも感じられる。

 けれど注意深く観察してみれば、肌は青白く唇も色を失って、彼女がようやく生命を繋いでいるだけの危険な状態だとすぐに理解できた。

 細い、華奢というには細すぎる身体が痛々しく映る。波打って広がる赤い髪だけが、今のリィザの生命の証のようにも思える。

「リィザ……」

 ささやくように語りかけ、シオンは頬にかかった髪をそっと払い落とした。

 愛しくてたまらないというように、一心にリィザを見つめている。胸の上で組んだ少女の手をほどくと、その指に、自らの指を絡めて唇をあてた。

「リィザ……リィザ……」

「シオン、残念だけど彼女はもう長くはないの。時間を完全に止めることも出来ないわ。いまは術の力を借りて、かろうじて生命を繋いでいるだけの状態だから。解放するから、お別れをするといいわ……たぶん、少しなら話す時間が持てると思う」

 シオンは何も言わない。リィザを見つめたまま、ただ静かに頷いた。

「解放するわよ」

 ディーティアがリィザに手をかざす。

 しばらくするとリィザの頬にわずかに赤みがさしてきた。浅く息をつくと、瞼がほんの少し開いて、緑色の瞳が微かに見えた。

「リィザ……っ!」

 シオンの声に応えるように、リィザは荒い息をついた。

「シ……オン……そこに……いるの?」

「そうだよ、リィザ。ここにいるよ」

「……無事……で……よか……」

 擦れる声で言い、微かに笑う。

「ごめんよ、リィザ……けど、もう何も心配いらないから」

 うすく開いた瞼から伝って落ちる透明な雫を、シオンは指でぬぐった。

「君を死なせやしない」

 シオンはリィザの胸の上に手をかざした。

 手のひらに柔らかな光が灯り、横たわるリィザの身体を包み込む。

「何をするつもりだ、シオン……よせっ!」

 レイダールはシオンの意図に気づき、驚愕した。

「ああ、シオン……だめ! だめよ……」

 ディーティアが悲痛な声を上げ、フレアリカはよろめいて座り込み、両手で顔を覆う。

 神魔の中には、ディーティアやシオンのように特殊な能力を持つ者がまれに存在する。

 対象者の時間を一時的に止めることがディーティアの力なら、シオンのそれは自らの生命を他者に分け与える、俗に言う『癒しの手』と呼ばれるものだった。

 どちらの能力も珍しいものではあったが、とくにシオンの持つ特殊能力は滅多に現れることのない稀有なものであった。

 どちらもが能力者の体力を著しく奪う。

 そして『癒しの手』は体力だけではなく、生命そのものを削りとるのだ。誰かを助けることで、能力者自身がその場で命を落とすこともあった。

 リィザの頬にゆっくりと赤みがさし、代わりにシオンにゆっくりと変化が訪れる。

 頬がやつれ、眼が落ち窪み、顔色から赤みが抜け落ちてゆく。白い、不吉なほどに白いおもて、艶やかだった黒髪までが水分を失ったようにぱさぱさになっていく。

「やめるんだ、シオン!」

シオンがぐらりと身を揺らし、身体を二つに折った。

 その瞳は焦点を欠いて、視線が宙をさ迷っている。横ざまに倒れかかるシオンの身体を抱き込むように背後から支え、レイダールはなかば懇願するように告げる。

「もう止めろ……頼む」

「邪魔をするな!」

 レイダールの腕を振り払い、拒絶する。

 シオンはふらつく足取りで寝台に近づくと、その生命を惜しげもなく投げ与えるのだ。

「だめだ、そのまま死なせてやれ」

 見ていられなくて、我慢できなくて、レイダールはシオンを力ずくでリィザからひきはがした。

「解かっていたはずだろう。神魔と地上人とでは生きる速度が違うんだ。彼女はいま助かったとしても、あっという間に死んでしまう。一緒には生きられない。シオン……おまえの生命を削って助けても、彼女はすぐに死ぬ。寿命が違いすぎるのが解からないのか」

「それが何だ!」

 シオンは激昂した。

「邪魔をするな! どうして解らない? 生きる速度が違っていたとしても、それがなんだ。リィザがいなければ生きている意味なんてない。長いだけの生なんていらない」

 最初に決別を告げたあの日のように、レイダールの目前で、シオンは翼を開いた。

 黒い瞳をまっすぐにレイダールに向けて、シオンは右手をあげる。

「リィザだ。リィザだけだ。リィザがいればそれでいい! 彼女のためなら、おれは何だって捨てられる」

 ゆっくりと指先が背の翼をなぞるように移動して、一枚の羽根を探し出す。

「よせっ……!」

 レイダールが叫ぶのと、シオンが一枚の羽根を引き抜くのは、ほぼ同時だった。

 風切り羽。

 季節ごとに抜け替わる羽根の中で唯一、一本だけ代えのきかない羽根がある。

 それは、もしも傷つけたなら二度と飛ぶことの叶わない、代替のきかない羽根だった。

 神魔の証でもある翼。その、天空を飛翔するものの生命ともいえる大切なもの。

 シオンの身体が白く輝く。

 真珠をまぶしたような光沢のある純白の翼から、光が抜け落ちるように輝きが失せてゆく。

 彼が再び羽ばたくことは永遠にない。

 風切り羽を失ったシオンの翼は折れ曲がってだらりと垂れ下がり、一瞬にして生命を失った。




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