19. 陰謀
あれはいつのことだったのか。
おぼろげな記憶をディーティアはたどる。そう、その鳥を見たのは神魔界の外れだった。
薄紫色に、青みのかった緑の羽根を持つ、綺麗な小鳥だった。まだ幼かったディーティアの手のひらにさえすっぽり収まるような、それは本当に小さな鳥だった。そんなにも小さな鳥を目にしたのは初めてだった。
ディーティアが今まで見たことのある鳥はどれも大きくて、鋭いくちばしを持っていた。荒々しい翼に風をはらませて、悠然と大空を漂うように飛んでいた。そんな大きな鳥に襲われたのかもしれない。猛禽に追われ、こんなに高い空まで迷い込んでしまったのだろう。小鳥がゆっくり羽根を休める青々と茂った樹木は、神魔界にはどこにも無かった。
雲の間から切り立って伸びた岩肌で鷹が飛び立ち、小さな薄紫の鳥を追った。小鳥は隠れる場所の無い広い空を、やみくもに逃げ回った。吹き抜ける突風に幾度も煽られながら、薄い小さな翼で懸命に羽ばたいていた。生きるために。
「逃げて、逃げて、逃げるのよ!」
ディーティアは声の限り叫んだ。祈るように胸の前で手を組んで、心の底から願った。
想いが通じたのか、やがて諦めたように鷹は離れていった。小鳥はディーティアのすぐ近くまで飛んでくると力を失って地に落ちた。
「……うっ……えっ、えぇえん……」
シオンを必死で探して、ようやくその姿を目にしたとき、ディーティアは堪え切れなくなってしまった。血にまみれた小さな鳥を両手に抱え、むせび泣く。シオンはそっとディーティアを抱きしめて、その背中をあやすように叩いている。
「こ、小鳥が……鷹に、襲われ……」
手が血で汚れるのもかまわずに、シオンはそっと自分の手でディーティアの手を小鳥ごと包み込んだ。涙が、後から後から溢れて止まらない。悲しくて苦しくて、けれども暖かな何かにそっと包まれているような気がして。
「と、時を止めたの……でも、もう間に合わない……きっと死んでしまったわ……」
「大丈夫だよ。きっとまだ間に合う……開放して」
シオンは安心させるように微笑んだ。
やがてシオンの手のひらが光に包まれた。穏やかで暖かい、哀しいくらいに綺麗な光だった。なぜか胸が痛くなり、ディーティアはまた泣いた。
◆◇◆
一族の者は、皆、神魔界に引き上げたのだろう。地上には、シオンのほか、神魔の気配は皆無だった。
ひとすじの煙りが、うすく天に昇っている。
シオンは村から離れた小高い丘に立ち、炎がまだ燻っている焼跡をぼんやり眺めていた。
もとから豊かとは言い難い鄙びた村だったが、現在の状態と比較したら天と地ほどの差がある。
燃え残ったものは、ほとんどなにもない。
倒壊した家屋、焼け落ちた納屋。黒く煤けた柱が倒れて道端に転がり、崩れ落ちた家壁が無残な姿をさらしている。
あの騒ぎで逃げだし、深い森の奥に消えていった家畜は、とうの昔に獣の餌になっているはずだ。踏み荒された畑をふたたび収穫できるまで蘇らせるには、あと何年の歳月が必要だろう。
この村は、はたして次の冬を越せるのだろうか。
遠い地のことと楽観するには、シオンは地上に深く関り過ぎていた。責任の一端は彼にある。眼下にある惨状を引き起こす原因の一部は、間違いなくシオンに起因しているのだ。
後悔をしても、すべては遅すぎた。
レイダールの言葉が、今ごろになって思い出される。これがすべて自分自身の短慮による結果なのだ。
「けど、だけど……っ、あのときは他に方法がなかったんだ……。くそ……っ!」
どれだけの罪のない人々が村を焼け出され、無駄に生命を落としたのだろう。恐怖に満ちた悲鳴が、いまも耳にこびりついている。
「おれの、おれのせいだ……リィザ……ッ!」
呟きは、むなしく風に流されて消えていった。
ひとつだけ、この世界でたったひとつだけ大切なものを選ぼうとした。
仲間を捨て、故郷を捨て、その結果、その唯一のものさえ失った。
なぜ、自分は、あの場に残らなかったのだろう。
あの恐ろしい出来事に遭遇して頭の中がまっしろになり、意識が完全に麻痺していた。
だから愚かにもディーティアに急かされるまま、咄嗟にシオンはあの場を逃げ出したのだ。リィザを置き去りにして。
特別な力があったとて、何の役にも立たなかった。神魔の力を持ってしても、愛する者ひとり救えない。死んだ者を生き返らせるこは叶わないのだ。
もう二度と離れないと約束したというのに彼女を守ることすら出来ず、おめおめと自分ひとり生き延びてしまった。悔やんでも悔やみ切れない。
追っ手に追われ、森の中をただ必至に逃げ回った。
脳裏には、リィザの胸に深々と刺さった短剣の映像が、おぞましい幻影となって焼き付いている。
どうして、真実、願うままに行動できないのだろう。
リィザの姿は忽然と消え失せていた。
どこかにうち捨てられたか、一族の誰がか持ち去ったのか、リィザの亡骸はどこにも見つからない。
彼女がいないなど信じられない。
実際にこの目にするまでは信じたくないし、到底、信じられるはずもない。
それでもシオンは思わずにいられなかった。
彼女は苦しんだろうか?
それとも少しは安らかだった?
恐ろしくは、悲しくはなかっただろうか?
それだけが気がかりだった。
「……なぜ殺した? レイ……ッ!」
幼いころからいつもいっしょだった。兄弟のように思っていた。レイダールが本当の兄だったら、どんなに良かったろう。
だからこそ、虫の良い考えと知りながら、それでもレイダールだけは解かってくれるだろう、と身勝手を承知でなかば信じていた。
「おれは、おまえを許さない……っ」
傷を負っているようだった。ひどく具合が悪そうで、立っているのさえやっとのように見えた。
見当違いな怒りかもしれない、けれど、憎まずにはいられなかった。
◆◇◆
意識が戻ったときレイダールは自室にいた。寝台に横たわって、ぼんやり天井を眺めていたところを名を呼ばれ、視線を向ける。
「リタ……?」
「ああもう、レイダールさま、本当に……本当になんてこと……」
女官頭でありレイダールの乳母でもあるリタは、丸々とした体をゆすりながら寝台に歩み寄ると、水差しの中身を杯に注ぎレイダールに手渡した。
「いったい何事があったって言うんです? ……久々にあたしゃ肝が冷えましたよ。肋骨が何本も折れたとかで、そりゃあもう酷いありさまだったんですからねぇ。お命に別状がないだけでも、本当にようございました」
「心配をかけてすまなかった」
「いいんですよ。無事にお帰りになったんだから、それだけでいいんです」
小さな目には涙が浮かんでいる。
レイダールは杯を受け取ると、よく冷えた水で喉を潤した。
「もっとお飲みになりますか?」
「ああ、いや……ありがとう。これで充分だ」
消毒薬の匂いがした。胸にはきつく包帯が巻かれており、腕や肘がひりひりしている。
レイダールは自己嫌悪を覚え、眉をしかめた。散々に醜態をさらしたらしい。寝台に寝かされたことすら覚えがない。あれからどのくらい時間が経過しているのだろう。
「シオンはどうなった?」
「行方知れずのままですよ」
地上のどこかに、ひっそりと身を潜めているのだろう。捕まっていないのなら今のところシオンは無事ということだ。
「それからお嬢さまが」
「ディーティアが?」
「お嬢さまは地上から戻られたあと、急にお加減が悪くなって、先ほどから臥せっておいでなんです」
「怪我をしているのか?」
「いいえ。お怪我はないようです。ただ相当ショックを受けられているようで、いまにも倒れそうなご様子でした」
「ひどいのか?」
「それが、誰もお部屋に入れないとかで……お医者さまも拒否なさっているんですよ」
「そう……か……判った。……しばらくのあいだはそっとしてやってくれ」
心労のために違いない。あんなことがあったばかりなのだ。
負けん気が強く多少のことには動じないように見えても、彼女がか弱い女性であることに変わりはない。あんな血生臭い場面に遭遇したのだから。気分が落ち着くまでは静かに見守ってやったほうが、本人のためにもいいだろう。
「ところでレイダールさま、さっきから何をなすっておいでなんですか?」
「出かける」
「お出かけになるなんてとんでもない! そりゃあもう酷いお怪我なんですから」
寝台から身を起こして立ち上がろうとするレイダールに、リタは目を剥いた。
「リタ、すまないが急いでいるんだ。着替えを出してくれ。動きやすいものがいい……それからコカの葉を」
「いけませんよ、坊ちゃま」
リタはぴしゃりと言った。
「頼むから、坊ちゃまは止めてくれ」
半分逃げ腰での要望はあえなく却下された。
今日に始まったことではない。彼の誕生する以前からこの屋敷で女官をしているリタに、レイダールはどうしても頭が上がらなかった。
「いいえ、止めませんよ。誰が何と言おうと、私にとって坊ちゃまは坊ちゃまです。それだけは変わりません。だいたいコカなんてろくでもないもの、いったい何に使うっていうんです? このリタの目の黒いうちは、そんなものに絶対に手を出させたりはしませんよ」
「リタが心配してるようなことではないよ」
やるならもっと上手くやる、と危うく言いそうになって口をつぐんだ。そんなことを口走ろうものなら、盛大に雷が落ちることになるだろう。昔のように、外出禁止例でも下されようものなら災難どころではなかった。
「い、言ってみただけだ。痛を和らげるのに使えると思ったんだ。解ったよ、コカの葉は止めておけばいいんだろう。普通の痛み止めにしておく。だから頼む、服を出してくれ。とにかく動きやすいものを」
「出かけるなんて冗談じゃありません。その怪我以上に、どんな大切なことがあるっていうんです。あたしゃ嫌ですよ」
ふいに、私室の扉が開いた。
「好き勝手に出歩かれては困りますな」
突然の闖入者に驚いてリタは非難した。
「主の許可も得ずに入室するとは無礼な。いくらルゼニ家の御当主といえど、あまりに非礼が過ぎますぞ。いますぐに出ておいきなさいませ」
レイダールに見せる、いつもの気のいい乳母の顔ではない、有能な女官頭としての表情だった。
「私はレイダール殿と話しているのです。女官頭殿には関わりのないこと。少し黙っていていただきたい」
リタの叱責を一笑に伏し、カルズは無遠慮に室内を見回した。背後には手勢らしい衛兵が剣を手に、五人ほど控えている。
「衛兵を引き連れて現れるとは物騒な」
リタは、男たちの物々しい様子に怯んだが、すぐに気を取りなおした。体を揺すって衛兵の方に向き直り、声を大きくする。
「この者たちは、いったい何なのです。誰の許しがあってこのようなことを。人を呼びますよ」
「この、うるさい女を黙らせろ」
「なっ、なんのまねですっ!」
衛兵に取り押さえられ、リタは悲鳴を上げた。
「やめろ! リタに乱暴するな」
助けようとしたが、衛兵の剣に行く手をふさがれる。リタを人質にとられた格好になり、レイダールは鋭い視線をカルズに向けた。
「……さて、と」
カルズは胸をそらすように上を向くと、組天井を眺めた。ゆるゆると室内を歩きまわり、調度品のいくつかに目を止めた。飾ってあった茶器のひとつを手にとって吟味し、ようやく口を開いた。
「ふむ。さすがに趣味の良いものがそろっていますな」
「もったいぶっらずに早く用件を言え」
「よろしい。では……」
カルズはわざとらしく咳払いをすると、懐から巻き物を取り出して封蝋を外した。中身を広げ、厚手の羊皮紙を目の高さにかかげると、朗々と宣言した。
「離反者にして先の族長を殺害したシオン逃亡を助けた罪により、レイダール殿、あなたを連行いたしますぞ。あなたには謀反と、そして族長殺害の嫌疑がかけられています。これは新族長ダルファス殿の正式な要請であることもお忘れなきよう」
「そういうことか」
レイダールの呟きに、リタは卒倒せんばかりになった。
「ダルファスさまはこの機会にレイダールさまを排除なさるおつもりか! なんと、なんと恐ろしい」
「命が惜しくば滅多なことを言うないぞ、女」
なりゆきから察するに、まず極刑は免れない、そうレイダールは確信していた。
かけられた嫌疑に信憑性があるかどうかは大した問題ではない。証拠がないのなら用意するだけのこと。難しいことはない。ダルファスなら苦もなくやってのけるだろう。
連行されれば、みせしめとして正面切って処刑されるか、口封じに獄中で暗殺され病死として処理されるか、そのどちらかの運命が待っている。そう遠くない未来、シオンも同じ道を辿ることになるだろう。
それはなにも今に始まったことではない。レイダールにとっては驚きにすら値しない、ただの事実だった。遠い過去より似たようなことは粛々と続いている。
「連行しろ」
カルズの命令を受けて、衛兵がレイダールの周囲を囲んだ。
「坊ちゃまっ!」
「俺なら心配ない。それよりもリタ、もうそろそろ、その呼び方は代えてくれると嬉しいのだがな」
笑顔で言って背を向ける。レイダールは扉の前で立ち止まると、長年馴染んできた私室をゆるりと見渡した。二度とこの部屋には戻れないかもしれない、そんな考えが頭をもたげたからだった。




