18. きえゆく炎
どのくらい隠れていたのだろう。周囲に人影は無かった。村人も神魔の姿も。
リィザは森の奥に逃げ込むと、下草に覆われた樹木の根元に身を潜ませていた。体中が燃えるように熱く、頭がぼうっとしていた。矢を射られた左肩からは、とめどなく血が流れている。この場所まで走って来られたのは奇跡に近かった。
上の方でドーンという衝撃があった。衝撃と共に物音がした。枝がバキバキと折れ、すぐ近くに大きな物が落下してきた。
「な、何なの?」
リィザは恐怖を覚え、身を小さくした。反射的にギュと目蓋を閉じて再び開けたとき、目の前に純白の羽根が漂っていた。
「あ……」
リィザは急いで立ち上がると、震える足取りで歩き出した。
リィザは倒れているシオンを発見した。先ほどまでリィザが隠れていた木の根元の、すぐ近くだった。
「シオン!」
シオンは脇腹に怪我をしているらしく、染み出した血がじっとりと衣服を濡らしていた。意識はない。けれど生きていた。その事実が嬉しくて、リィザは泣いた。
そのとき、右手の木陰で気配が動いた。がさがさと葉を掻き分ける音がする。
「……神魔」
シオンがこの場にいることを気づかれてはならない。リィザはシオンの剣を手に取ると、足音を忍ばせて近づいた。
守られてばかりいるのは、もう嫌だった。
◆◇◆
遠くで微かな音が聴こえてくる。何もかもがぼんやりとして暗く、薄布を通して見るように不鮮明だった。ここはどこだろう。頭がぼうっとして意識が定まらない。
まばたきをすると、少しだけ視界がはっきりしてきた。もう一度目を閉じて今度はゆっくり瞼をあげる。暗くかげっていた景色が徐々に霞み、やがて深みを帯びた緑に変化した。
よく見ると緑は一色ではない。黒を思わせる濃いものから、ほとんど黄色に見えるものまで様々だった。それらが混在して溶け合い陰影をつけて揺れながら、さわさわと繊細な楽を奏でている。
緑だと思っていたものは、頭上高くうっそうと葉を茂らせる樹木だった。重なり合った深緑が光に濃淡をつけ、黒々とした木々のあいまを縫って、うっすらと陽が射し込んでいる。まるで透きとおった光の帯のようでもあった。土のしめった匂いがした。草花を濡らす朝露の透明な雫が、しっとりと袖口や襟元をしめらせている。
「……っう……」
空気を吸い込もうとして激痛が胸を焦がした。嘔吐感がせりあがってくる。
痛む場所に手を伸ばしかけて止め、かきむしりたくなる気持ちを必至に堪える。まずい。どうやら肋骨をやられているようだ。動けるだろうかと本気でいぶかりながら、息を凝らし呼吸をととのえた。しばらく動かずに待って様子をみる。どうにかいけそうな気がした。
上半身を起こすのは勇気がいった。なるべく助骨に負担をかけないように、細心の注意をはらいつつ身を起こす。無言のまま呼吸を止める。やはり痛む。
周囲には誰もいなかった。レイダールの剣は、すぐ横の草むらに投げ出されていた。
いっしょに墜落した刺客らしい男は、別の場所に落ちたらしく姿が見えなかった。とどめをさしに現れないところをみると死んだのかもしれない。あるいは怪我をして動けないのか。すでに逃走した後かもしれなかった。だが確認していない以上、油断は禁物だろう。
「コカの葉でもあれば助かるのだが……」
高価で稀少な物だったが、コカの葉には苦痛を和らげる効果があるのだ。教訓というには馬鹿馬鹿しいが、これからは常に持ち歩くことにしよう、とレイダールはなげやりに考え、ついで苦笑をもらした。
「……痛っ!」
そんなものを持ち歩いていることを知ったら、ディーティアはさぞかし不信がるだろう。何度説明しようと、もう一方の使いみちに余計な心配をして、目を光らせて詮索するに違いない。
レイダールはゆっくりと立ち上がった。
今度は、我慢しきれないほどの激痛ということもない。苦痛に変りはないが、じくじくと胸を圧迫するような感じがするくらいには、どうにか治まっていた。
無傷というわけにはいかないが、それでも幸運だった。あの高さから墜落して命があったのは、まさに奇跡と言っても過言ではない。
木の枝に何度かぶつかったのが、うまく作用したのだろう。落ちる途中、無意識にたたんだのか背を覆う翼も無事だった。念の為にもう一度、翼を広げてみる。だいじょうぶだ。
ふいに気配が生じた。蔦の絡まった低木の陰で、殺気がゆらりとたちのぼる。細枝をかきわけ下草を踏み越えて、背後の茂みから黒々とした陰が飛び出してくる。振り返る暇すらなかった。
考えるより早く身体が動く。レイダールは上体を左に捻った。刃が風を切る音がして、切っ先が背中の右側を掠めた。振り返りざまに、予備の短剣を腰のベルトから引き抜く。
陽光を反射して白刃がギラリと不吉な光を放ち、再びレイダールに向かってくる。敵は太陽を背にしていた。視界が白く塗りつぶされ何も見えなくなる。
逆光に塗りつぶされた陰に向けて、反射的にレイダールは短剣を突き立てた。
「……なに」
あっけないほどの手応えを不可解に思うよりも、その相手に驚愕した。
赤い髪が、風に揺らめく炎のようにひるがえり、ゆるやかに波を打って沈んでいく。
いっぱいに見開らかれた緑の瞳が、驚きのそれから、哀しみとも微笑みともつかない奇妙ないろに変わった。表情の一切が消失し、後ろに首が傾いた。ずるずると身体がすべり落ちていく。地に両膝がつき、ゆっくりと前のめりに倒れていく。
シオンが行方を捜して飛び出したはずの――リィザという名前の、痩せっぽちの地上人の娘がそこにいた。
「なぜ……こ、んな……」
手を伸ばして抱き止め、草の上に横たえた。レイダールは少女の脇に膝をつき、色を失ったおもてを凝視した。
胸の中央を深々と刺し貫いている短剣から、じわじわと血液が染み出している。
けれども少女はすでに全身傷だらけで、その薄い夜着はもとの色を判別できないほど血で赤く染まっていた。
この夜をどう過ごしてきたのだろう。肩に深い傷を負っている。
レイダールは震える手を伸ばし、少女の胸に刺さった短剣の柄に触れた。
「抜いてはだめよ」
「ディー……」
いつからそこにいたのだろう。神魔界にいるはずの妹が佇んでいた。
「抜いてはだめ。抜いたら血が吹き出てしまうわ」
レイダールの手のひらを、白い手がそっと包み込んだ。ささやくような声が、さとすようにうながす。
「……なぜ……こんな、つもりじゃ……俺は……」
「手を放すのよ、兄さま。言う通りにして」
レイダールは、目の前に座っている妹の顔を見た。それから視線を落とし、足元に横たわって微動だにしない少女に目をうつす。
不思議と穏やかな表情をしていた。
恐れも悲しみも、苦痛のいろもそこにはなく、まどろんでいるだけのようにも見えた。よく見ると、うっすらと瞼が開いていたが、その奥にある瞳の色まではわからない。
ひょっとして、眠ったふりをしているだけかもしれない。どうして、動かないのだろう。 そして、その理由に思い至った。
血の気が失せた、白いおもて。唇が、もう青く変わりはじめている。
「殺してしまった」
地上人とは、なんともろく、あっけないのだろう。
「リィザ……ッ!」
悲鳴のように声が響いた。
小さな竜巻がおこる。風が渦を巻いて、砂埃の混じった木の葉が乱舞している。なかば墜落するように、レイダールの目前に人影が降ってきた。
「シオン!」
ディーティアの声もまた悲鳴のようだった。
「リィ……ザ、どうしてっ……こんな……」
シオンはリィザのかたわらに膝を着くと、細い身体をかき抱く。
そのとき少女が瞼を開けた。
「……シ……オ」
か細い声で名を呼ぶ。もう目が見えないのか視線は焦点を欠いて宙でさ迷っている。
シオンの姿を探し、リィザは震える手を必死に伸ばす。その手をシオンの手が包み込み自分の頬に当てた。
「リィザ、ここにいるよ。大丈夫だ、今すぐに――」
「……無事、で……よか……」
緑の瞳から涙が一筋頬を滑り落ちる。リィザは微かに笑むと目を閉じた。
「あ、嘘だ……そんな……そんなこと……」
シオンは首をめぐらすと、レイダールを見た。
「レイ……おまえがやったのか」
「そうだ」レイダールは肯定した。「俺が殺した」
「……兄さま、いまなんて」
「……おれ……のっ、リィザを……きさまよくもこんなことっ!」
「シオン……っ、待って、これは違うのよ」
「どこが違っているんだっ」
「お願いよ、シオン……っ」
ディーティアが口に手を当て、首を横に振った。その瞳に、みるみる涙がもりあがった。
「そうだ、シオン……俺が娘を殺した」
レイダールはゆっくりと立ち上がった。
ようやく顔を上げてシオンの方を向く。だが目が合ったとたん、彼は自分から視線をそらした。
「許さないぞレイダール。絶対に許さない」
かつての友人が剣を構える姿をレイダールはなんの感慨もなく目にした。何も感じない。ただ、頭がぐらぐらして、吐気がするだけだ。
視界がぐるぐる回り出した。目に見える風景のすべてが二重映しになっている。
全てが次第にあやふやになっていく。レイダールは剣を構えた。シオンのいるのがどっちの方角か判らない。けれど、そんなことはどうでもよかった。
悪夢というものが実在するとしたら、きっとこれを言うのだろう。親友であったはずの兄と友人が剣を手に互いに相対していた。
いったんは自分たちのもとへ戻ってきたはずのシオンの視線は、レイダールを断罪するかのようにきつい色を帯びている。ディーティアにはそれが辛く悲しかった。
どうして、こんなことになってしまったのか判らない。自分たちはどこで道を踏み誤ってしまったのだろう。
リィザという地上人の娘を殺め、シオンを引きとどめていた一本の糸を断ちきる――レイダールは決して触れてはならないものに触れてしまったが、同時にそれはディーティアが感えていたことでもあった。
疑問を覚えることもなく、シオンのためと言い切った自分は、なんと押し付けがましく傲慢だったことか。どんな権利とて、最初からありはしないというのに。
いま目前にあるのが、その結果なのだ。
「彼女には何の罪もなかった。なのに……おれは、おまえを許さない、レイダール!」
血を吐くような慟哭だった。シオンはひどく憔悴したように見える。両眼が落ち窪み、瞳だけが異様な光を放っていた。
「……ああ」
レイダールもまた隠し切れない動揺が滲んでいた。苦しそうな表情は、胸元の傷や、体のあちこちを赤く濡らす血のせいだけではない。むしろ傷を負っているのは心の方だろう。
けれど表に出す態度は心情とはうらはらで彼の表面しか見ようとしない者たちには、レイダールはごく冷静に見えるだろう。
「にっ……兄さまっ……!」
ぐらり、と上体を揺らし倒れかかるレイダールを、ディーティアは慌ててささえた。
意識が遠のきかけているらしく、レイダールの反応は何もない。そのときになって兄が深刻な傷を負っていることに、初めて気づかされた。剣で切られたものだけじゃない。おそらくは肋骨だろう。ひょっとしたら肺を傷めているのかもしれなかった。
「……誰か来る!」
いくつかの気配が急速に接近していた。神魔だった。シオンも気づいたらしく空を仰ぐ。
「大変! ダルファス兄さまだわ」
空を羽ばたく人影に気づき愕然とする。この状態でダルファスに見つかれば、シオンは問答無用で殺されかねない。
「はやく逃げて、シオン」
「……だめだ」
「逃げるの!」
「でも、リィザが……」
シオンは首を振ると、草の上に横たわる少女のほうを見た。
「何を言っているの! 判っているの? ダルファス兄さまが来るのよっ」
「リィザを置いては行けないよ」
「行くのよシオン! 行きなさいっ」
羽音がすぐそこまで近づいていた。もう一刻も猶予はならない。
「行って!」
ディーティアが叫ぶと、ようやくシオンは身をひるがえし樹木の奥に消えた。




