16. 長い夜3
深い闇はいつしか藍色に染まり、血液を溶かし込むように暁が滲み始めている。小屋の外では木々の梢が風に揺れ、微かな音をたてている。
レイダールは窓辺に立ち、格子越しに、外の景色を眺めていた。
「……夜が明ける」
昨夜は眠れるわけもなく、じりじりとした気持ちで夜を過ごした。傍らではシオンが、やはりまんじりともせずに夜を明かしていた。
シオンが、ふと顔を上げる。
「おかしいな……鳥のさえずりが聴こえない」
いやに静かな夜明けだと思っていた。
言われてみれば、確かに森の生き物達の気配が消えていた。動物達は危険を察して昨夜のうちにこの付近を離れたか、あるいは巣穴の中にひっそりと身を隠しているのかも知れない。
突然、轟音が轟き、明け方の静寂を切り裂いた。
「いったい、なにが……!」
シオンが立ち上がる。粗末な木の椅子が背後に倒れ、耳障りな騒音を発した。横倒しになった椅子を跨ぐようにして部屋を横切り、木戸を開け放す。
「村が」
出口に立ちすくむシオンの脇を通り抜け、レイダールは空を振り仰いだ。うっすら白みだした東の空に、黒煙が立ち昇っていた。村に火の手が上がっている。
「村が襲われている……どうして? 追われているのはオレのはずなのに」
ふらつく足取りで、シオンは小さな庭に進み出た。花茶の苗を植えた畑の横にある井戸の手前で立ち止まる。木板で造られた蓋の上に手を置いて、崩れるように膝を着いた。
「まさかレイ、知ってたのか?」
ゆっくりと振り向く。漆黒の瞳にありありと不振の色を滲ませて。
「最初からオレを足止めするつもりだった?」
しぼりだすようにシオンは言った。問うような言葉だったが、それは問いではなく確認の響きを持っていた。
「おれを裏切ったんだな」
ゆらりとシオンが立ち上がる。鋭い視線にレイダールはたじろいだ。
「違う、シオン。聞いてくれ」
「何が違うものか! 知っていて足止めしたくせに。そうか、最初から村を焼くつもりだったんだな。見せしめのために。離反者を罰するため。そのために、おれとリィザを引き離した。そうだろう」
「違うシオン、話を聞け……頼む」
はっとしてシオンは目を見開いた。二人を引き離した理由を想像したのか、その面が苦痛に歪んだ。
「リィザ!」
シオンは庭の中央に走り出た。
たん、と地を蹴って宙に浮く。短く風を切る音がして、その背中に翼が出現した。花が開くように広がる翼にレイダールは必死に手を伸ばす。
「待て、駄目だ!」
翼が湧き起こった風と共に指の間をすり抜けてゆく。シオンは空へ飛び立った。掴み損ねた手のひらに純白の名残を残して。
空の向こうへ消えたシオンを追って、レイダールも飛びたった。
突如、魚影のごとく眼下を影がよぎった。
瑞々しく生い茂った緑の隙間を縫って、吹き上げる水飛沫のごとく人影が飛び出してくる。手にした長剣が朝日を反射してギラリと光る。獲物を追って青海原を跳ねとぶ肉食魚のように、三体の影が弧を描きながら飛来して、レイダールに襲いかかった。
「な、にっ……!」
もうひとりの存在に気づくのがあと少し遅れたら、生命はなかったろう。
剣を抜こうと腰に手を伸ばした刹那、真下でふくれあがった殺気の渦に、なかば反射的に上半身をそらす。絶妙な間合いだった。体を斜めに捻りながら、繰り出された剣をかろうじて避けた。
どれも知らぬ顔だった。だが背の翼を見れば、一族の者であるのは一目瞭然だ。送り込んだ人物の検討もついている。
敵は、全部で四人いた。多勢に無勢だ。四対一では、明らかにレイダールに不利がある。まともに戦っても勝ち目はなかった。
さっと、周囲に目を走らせる。左手には波間に浮かぶ孤島のごとく、一本の巨木が頭を突き出して枝を広げていた。
「そいつに剣を抜かせるな!」
背後で頭領らしき人物の声が響く。両脇から包囲が狭まる寸前、レイダールは方向を転じた。
「逃がすな! 追えっ」
地上に向かって急降下する。乱立する緑が津波のごとく眼前に打ち寄せる。樹木をすれすれでかわし、追い風に乗って更に加速した。真横にとりついて飛行する敵を狙いをすませ、蹴りを放つ。
「くらえっ!」
骨の砕る音がした。肋骨の二、三本はいったろう。男の体が後ろにふっ飛とび、足元に広がる緑の中へ墜落していった。まずは、ひとり。
間髪を入れず、別の男が剣を横に薙ぐ。避けきれず、刃が胸元を掠める。
「……っ!」
男の持つ剣の切先が、衣服と一緒に皮膚の表層を斜めに引き裂いていった。焼けつくような痛みに一瞬のあいだ意識が遠のく。飛行速度が落ちた。ふたたび刃が一閃する。レイダールは肩を右側にそらし、すんでのところで受け流した。
たどり着いたばかりの巨木の裏に身を滑らせて回りこむ。幾重にも張り出した枝を避け、密集して視界をふさぐ葉を吹き散らし、螺旋を描きながら、大木の頂上をめざし飛翔した。レイダールを追い、三人残った男たちが、いっきに上昇してくる。
「……くぅっ……」
耳鳴りがし、耐え難いまでの苦痛を呼び込んだ。狂ったように血管が脈を打つ。頭の中が、いまにも破裂しそうだ。体中の血が逆流するような感覚に、歯を食いしばる。
鋭さを増した殺気が悪寒を伴い、後ろを這い上がってくる。追い付かれれば終わりだ。その思いが、レイダールを上へ駆り立てた。
鋭い羽音が耳をかすめた。左脇で突風が湧き起こった。風に巻き上げられた木の葉が、目の前で吹き荒れ、風に流されていく。
唐突に視界が開けた。
巨木の頂点まで達したと同時に、上半身を横に捻って、体ごと反転させる。山間から姿を現わしたばかりの白い太陽を背に、レイダールは剣を抜き放った。
空中に、一瞬だけ、静止する。
すぐ背後を急激に追い上げながら上昇してきた敵の最初のひとりと、レイダールの視線が交錯する。男の表情を驚愕がかすめ、純然たる恐怖のいろに取って代わった。躊躇も、手加減をする余裕もない。その理由も。
「二人目だっ!」
これで、残るも、ふたり。急速に落下していく人影を目の端にとらえながら、声にせず独白する。レイダールは自ら距離をつめ、手近な方に襲いかかった。
一撃目は弾かれた。反撃が来る。横だ。
「させるかぁっ!」
白刃が風を切った。青く白く、交差した刃から火花が散る。体ごとぶつかるようにして、剣を叩きつける。
男が、上へと羽ばたいて、後ろに退く。それを追って、剣を突き上げる。外した。
息をつく間もなく、殺気が生まれる。背後に、もう一方の気配が迫る。上からも。挟まれている。先に来るのは、下だ。咄嗟に、振り向きざま剣を横に凪いだ。わずかに及ばない。剣を持つ手に伝わったのは、布を裂く浅い手応えだけだった。
ほぼ同時に、上からも攻撃がくる。間に合わない。眉間を狙って降ってくる刃の鋭利さに、レイダールの全身が粟立った。
「……くっ!」
横に逃れる余裕はない。咄嗟に全身を脱力させた。ガクン、と体が落ちる。突き下ろされた刃が意識に白く射しこみ、熱い痛みが右脇腹を焼き、すり抜けていった。
「があぁっ!」
気の遠くなりかけたところを、耳に届いた男の断末魔に引き戻された。
レイダールの代わりに串刺しにされた男の全身が大きく波を打った。弛緩した四肢がだらりと垂れ下がって滑り、胸を貫いていた刃から離れる。その体は徐々に小さくかすみ、やがて緑の中に吸い込まれていった。
「……さんっ、にん……!」
痛みに喉がつまる。宣言したつもりが、ほとんど声にならなかった。残すは眼前にいる、その男のみ。レイダールは手を伸ばした。頭上にいる男の襟首に掴みかかる。
上体が右に傾いた。地に向けて体が横すべりしていく。縺れるように男と共に落下する。
樹木の中に頭から突っ込んだ。衝撃が来た。重なり合った枝が折れ、レイダールの全身を容赦なく打ちすえる。視界が霞み、やがて緑の闇にふさがていく。




