15. 長い夜2
月明りだけが唯一の光源だった。
足元は何も見えず、自分がどこを歩いているのかも定かではない。耳にとどくのは下草を踏む互いの足音と、どこからか聴こえてくる獣や虫の音だけだった。
「だいじょうぶかい? リィザ……疲れたなら少し休憩をとるけど」
「心配しないで、あたしはだいじょうぶよ。まだまだ歩けるわ」
いたわるような問いかけに、リィザはつとめて明るい口調で応じた。息に微かな乱れが生じたが、声が擦れるほど疲労してもいない。
「つらくなったら遠慮せずに言うんだ。わかったね?」
「ええ」
大事をとってなのだろう。それでも歩調が少しゆるくなる。シオンの無言の配慮を察し、リィザは心中で感謝をした。
見えるのは前を歩くシオンの背中だけ。
互いをつないだ手のぬくもりだけが、ゆいいつ確かなものだった。
獣から身を守るためではなく、追っ手の目から逃れるのが目的である以上、灯りを持って移動するわけにはいかなかった。
目立つことは極力さけなくてはならない。
翼を持つ神魔よりも、地上人である自分のほうが夜目がきくからと、リィザは自分が先に立って歩くことを提案したが、ころんでは大変だから、とシオンにあっさり却下されている。
本当は自分のことよりも、シオンのことのほうが気になってしかたがない。
彼は、なぜ追われているのか。
シオンが仲間から命を狙われている、と神魔の少女は言っていた。
もしもそれが事実なら逃げる先は村ではなく、もっと別の場所、誰にも追ってこられないほど遠くへ行くべきではないだろうか。
そう思うと不安で胸がつぶれそうになる。
シオンを信じていないわけではない。
むしろ全幅の信頼を寄せていた。
たとえ最悪の結果になったとしても後悔はしないつもりだ。
心残りがひとつもないと言ったら嘘になるけれど、それでもシオンと運命を共にする覚悟はとうにできていた。
また離れ離れになるよりは、シオンをふたたび失うことになるよりは、少なくともずっとましだ。
もうすぐ村に到着するというところで、ふいにシオンは足をとめた。
よく知っている気配を感じ取っていた。闇に意識をこらし、確認する。間違い無い。太陽が昇るまでは猶予があるとふんでいたが、考えが甘かったらしい。
「リィザ、ここからは、君ひとりで行くんだ」
シオンは、押し殺した声で告げた。
「シオン?」
「大切な、片付けなくてはならない要件があるんだ」
「だめよっ……行っちゃだめ!」
何かを察したのだろう。すがりつくようにリィザは繋いだ手に、ぎゅっ、と力を込めた。
「いや! お願い、いっしょに来て……約束したじゃない……離れるのはもう嫌なの」
いっぱいに見開らかれた瞳に浮かぶ脅えをわずかでも癒してあげたくて、シオンは彼女を抱きしめた。
「おれは村に入るわけにはいかない。神魔を村に引き入れれば、君までが村を追われることになってしまう」
「黙っていれば平気よ。判りっこないわ」
「無理だよ。おれは目立ちすぎるから」
穏やかに、さとすように告げる。
シオンが正体を隠し地上人になりすますなど到底むりなことは、どちらもが承知している。だからこそ自分たちは村の外に居をかまえたのだ。
「待っていてほしい」
リィザは泣いていた。悲しみをたたえた瞳が、静かにシオンを見上げる。
抱き寄せて、頬に光る涙を指でぬぐい、シオンは震えている恋人にそっとくちづけた。
「かならず迎えに行くよ。これが最後になるわけじゃない。約束する……さあ行くんだ」
抱擁をといて、微笑む。
リィザは悲しそうな顔をしたが、やがて諦めたように歩き出す。途中、何度も振り返りながら。
少しずつ足音が遠ざかる。
完全に足音が聴こえなくなるのを待って、シオンは視線を転じると、闇に向けて呼びかけた。
「そこにいるんだろう……レイダール」
まっすぐに向けられた視線に応え、レイダールは姿を見せた。
「完全に気配を消したつもりだったが、気づかれていたとはな」
「そりゃあね」
静かに見返してくる黒瞳が、当然、と雄弁に語っている。
互いに気配を消し、相手に気取られないように追いかけ合う、という子供の遊びがある。レイダールとシオンはその遊びに熱中していた時期があり、幾度、繰り返したかしれなかった。
「驚かないんだな」
ごくあっさりと、シオンは頷いてみせた。
「ああ。どちらにしても来ると思っていたからね。ただ予想外だったのは、夜明け前に君が現れたことだ」
腰の剣を抜くそぶりも逃げる様子もない。
「おれを殺しにきたの?」
「そこまでは考えていない」
いかにもシオンらしい単刀直入な質問にレイダールも正直に答えを返した。
族長を殺害した犯人がシオンだとは思えない。犯行現場に侍女が居合わせること事体、できすぎていて変だった。なによりもダルファスの行動が不可解でならない。
「ひょっとして闇のなかを飛んで来たの?」
「完全に陽が沈む前に向こうを出たんだが……まあ、なんとかたどり着けた」
「なんとか、って……そういうのを無謀って言うんだろ」
内心、自分でも判っていたから、むっとなる。しゃくにさわるとは、きっとこういうことを言うのだろう。
「状況判断くらいできる」
そうは言ったものの、実際にはかなりきわどい状態で地上に降りたっていた。
無謀にも、ほとんど直感だけに頼って、夜闇のなかを飛行したのだ。岩場や高い木々のどれかに激突して墜落しなかったのは、奇跡と言っても過言ではなかった。今回は運が良かったからどうにか免れたが、幸運が次もあると期待できるわけもない。こんな危険をおかすのは、もう二度とごめんだ。
「おれだって夜は避けるっていうのに、なんだってそんな危険なこと……君にもしものことがあれば、フレアリカやディーティアが哀しむだろうに」
同じ言葉をそっくり返してやりたいところだが、レイダールは黙っていることにする。
だが、自分を含め、さんざん皆を心配させたことへの多少の意趣返しの意味も込めて、言ってやることにした。
「夜明けまで待てなかったからな」
「悪かったよ」
シオンがうなずくのを目にして、大人げなくも、レイダールはちょっとだけいい気分になった。
とはいえ今度こそ頭を冷やして、もう少し冷静になってくれることを願う。このまま坂を転がり落ちるようにして、自ら自滅していくことだけは阻止せねばならなかった。
「兄上が新族長の名乗りをあげた。陽が昇れば、ここに大挙して一族の者が追し寄せてくるはずだ」
「おれは殺していない」
「その言葉が聞きたかった」
「あばら家だな」
非難がましい視線に完全無視を決め込んで、レイダールはうすい木戸をくぐった。
この小屋に足を運ぶのは二度目になる。場所を代えよう、と申し出たのもシオンのほうだった。
まっくらな森の中での立ち話は、どちらにとっても魅力的とはいえない。レイダールは喜んで提案にのることにした。
「はやく灯りをつけろ」
「うるさいな。言われなくても今つけるところだよ」
ほどなくして部屋が明るくなった。粗末な木のテーブルを挟んで椅子が二脚、前に来たときとおなじ簡素な居間がうつしだされる。
シオンは片側の椅子にこしかけると、いつまでたっても動くようすのないレイダールを不機嫌に一瞥し、残った方を指さした。
「さっさと座れよ」
「服が汚れる」
「レイ、おまえひょっとして、おれにケンカ売ってんのか?」
「事実を言ったまでだ」
しばし二人は無言で睨み合った。
「いいから座れよ。おれが毎日きれいに掃除しているんだ、汚いはずないだろ」
「おまえが掃除を?」
「分担だから……なんだよ、悪いかよ」
「おれは何も言ってないぞ」
シオンは何事かを言いかけてやめ、引きつった笑みを浮かべた。
「何か飲むか?」
「花茶」
無言で背を向けると、湯を沸かし、茶の用意を始める。
「もう少し静かにできないのか」
必要以上の騒音に、レイダールは注意をうながした。
シオンの返事はない。むしろ騒音がいっそう酷くなった。とはいえ花茶の用意をしているうちにだんだん落ち着いてきたのか、出された茶は色も鮮やかで、味も良かった。
「俺が煎れるのより美味い」
「蒸らす時間をちゃんと取って、あとは湯をそそぐとき、花を崩さないように丁寧にするのがコツなんだ」
機嫌もなおっている。
「おれよりも、リィザの方が上手に煎れるけどね。飲み比べればわかるよ」
「ああ、あの娘か……」
「どう思う?」
「何がだ」
「もちろん彼女だよ」
聴こえないふりを装って、レイダールは茶をすすった。
「きれいだろう、彼女」
飲み終わって目を上げると、シオンの嬉しそうな顔と正面からぶつかった。あろうことか、テーブルに身まで乗りだしている。
「俺にはさっぱりだ」
シオンは何も言わない。
「怒ったのか?」
「べつに!」
シオンはそっぽを向いた。
「とりあえず、俺といっしょに神魔界に戻るんだ」
「ちょっと待ってくれよ。おれは帰るつもりはないって、さっきから言ってるじゃないか」
「それについてはもう話がついているはずだ」
抗議するシオンをにらみつける。
「甘ったるいことばかり言ってないで現実を直視しろ。一族の者が、おまえを殺しに来るんだぞ。俺に捕まらなければ、死ぬまで逃げ回ることになるのがわからないのか」
「だからおれは――」
「何と言われようと議論の余地はない」
さっきから堂々めぐりをくり返すばかりで、いっこうに前に進まなかった。どちらもが譲れないし譲るつもりもない。しまいには険悪な空気がただよってくる始末だった。
「以前にも言ったことだが、これ以上、女のことでぐだぐだ言うなら、この俺が、その女ごと原因を絶ってやるぞ」
「……脅しならもうたくさんだ」
「脅し? 俺はやる、と言ったら必ずやるぞ」
その一言で完全に黙らせる。気まずい雰囲気がながれた。
自分だけでなくディーティアまでが同じことを考えていると知ったら、シオンはどんな顔をするだろう。
傷つけられたような表情のシオンを見て、レイダールは嘆息した。
「とりあえず」
しかたなく、妥協案を提示する。
「それについては、後であらためて話し合うことにしよう。いいな?」
「……判った」
不承不承シオンが応じた。




