14. 長い夜1
夕闇が小屋に忍び入りだしたころ、リィザはひとりぼっちに戻ってしまったことを実感していた。
孤独は慣れっこになっていた。
幼くして亡くした両親をたまに恋しいと感じることはあったが、成長するにしたがって、独りの寂しさと折り合いをつける術を学んだ。
現在では、それほど独りを寂しいと感じたことはない。むしろ最近では、何事にも縛られることのない独り暮らしを気楽だと思えるくらいに余裕も出てきていたのだ。
けれど今になって、たとえようもない辛さと共に、全て間違いだったと思い知らされた。
シオンがいないのが寂して悲しい。本当に愛する人と逢ってしまったら、以前の自分に戻ることは到底できそうにない。
食べなくては、と思ったが食欲がない。何かが胸につかえ、吐気すら込み上げる。
「綺麗なひと……」
リィザは昨日会ったばかりの少女を思い出していた。
なめらかでクリームみたいにまっしろな肌をしていた。春の太陽のように淡い金色の長い髪がふわふわと微風に揺れていた。
あんなに綺麗な人間を見たのは初めてだ。
神魔と人との、はっきりとした相違を見せ付けられた気がした。
シオンと同じ純白の羽根を見せ付けられて悲しさや羞恥といった感情よりも、その美しさに感嘆の吐息が漏れた。
勝負にもならない。自分と神魔の少女とでは、精巧に造られた人形と畑で雨風にさらされて色褪せたカカシほども違っている。
属する世界が初めから違うのだ。種族も、寿命も、住む場所すら。
リィザは神魔の正確な寿命を知らない。自分が死んだ後のことは考えたことすらなかった。
「掟破りだなんて……」
シオンが仲間から離れ自分と暮らすことで、掟破りの烙印をおされるなど知らなかった。シオンが死ぬなどたえられない。
秘密はなしと約束していたのに、シオンは何も言ってくれなかった。打ち明ければリィザが心配すると危惧してのことだろう。
相手のことを心配するあまり、心配事や問題を自分の内に独りで抱え込むのは、いかにも彼らしくて、それを思うと涙が零れそうになる。
「逢いたいよ……シオン」
二度と逢えない苦しさよりも、シオンを失うほうが怖かった。
いつのまにか小屋は闇に包まれていた。
リィザが灯りをともそうとしたとき、小屋の外で物音がした。
「リィザ」
木の扉の蝶番をきしませて、見慣れた姿が微笑む。信じられない思いでリィザはシオンに駆け寄った。
突然の出現に、心はなかば麻痺していた。
両腕が伸ばされる。包み込むような抱擁に、リィザは自ら飛び込んだ。
「リィザ……逢いたかった」
「シオン、シオン……すごく逢いたかった」
背に回された腕がひどく心地良い。温かくて涙が零れた。言いたいことも尋ねたいことも山ほどある。けれど何ひとつ言葉にならなかった。
しばらくの抱擁の後、わずかに身を離すとシオンは静かに言った。
「おれの言うことを聞いて欲しい」
いつになく張り詰めた声の調子に、リィザは顔を上げた。
「村にしばらくのあいだ君をかくまってくれそうな知り合いはいる?」
「突然どうしたの?」
「時間がないんだ。リィザ……答えて欲しい」
ただならぬ雰囲気を察してリィザは答えた。
「ええ、いるわ」
シオンは安堵の吐息をついた。
「よく聞いてくれ、リィザ……ここを出なきゃならない。時間がないんだよ。これからすぐに村に行かなきゃならない」
「こんな時間に? 明日ではだめなの?」
「驚かしてごめんよ。でも、明日では間に合わないんだ。急がなきゃならない……荷物をまとめている余裕もないんだ。いますぐに行動する必要がある」
改めてシオンの姿を見て、袖口に血痕を発見した。注意深く観察してみれば衣服だけではなく、手首の周辺にも乾いた血液がこびりついていた。ズボンの膝で血を拭ったような痕跡もある。
「その血……怪我をしているの?」
「怪我はしていない。すり傷くらいだから。これは……おれの血じゃないんだ……」
「追われているのね?」
シオンは苦しそうに横を向いた。
「ここは襲われる可能性がある。……こんなときに本当にすまない、リィザ」
◆◇◆
「旦那さま、申し訳ございません……お嬢さまのお姿がどこにも……」
外出の準備をしているところを、すまなそうに執事が報告してきた。
「フレアリカが? ……よい。行先の検討はついておる。見かけたら私のほうから戻るように言おう」
「お願いいたします」
執事は深く一礼し、ラルザハルが外套を羽織るのを手伝う。
フレアリカの父コルダー家当主ラルザハルは養い子が引き起こした衝撃的な事件のために現在、微妙な立場に置かれていた。
不用意に立ち回れば自分の首ばかりか、コルダー家すべてに累が及ぶ恐れすらある。二度目の不祥事となれば尚更だった。
発端となるものは、遠い過去にすでに種は撒かれていたのかもしれない。シオンの存在を知ったとき、闇に葬らずに手元に置くことを選択したときから。
シオンがバルダをその手にかけたかどうかは判らない。だが、ねつ造するまでもなく、手にかける理由があることも承知していた。
シオンが知っているかは謎だったが。
知ったとして、どこから情報を手に入れたのだろう、とも思った。
死んだ友人を悼む気持ちとシオンを哀れに思う気持ちが、相反することなく存在していた。好むと好まざるに関らず、自分はもう動ける立場にない。そして事体を収拾に導くことが可能な人物がいるとしたら、それはすでに自分達ではなく、その子供たちだった。
ならば彼らが自由に動けるよう、手を貸そう。今夜は、忙しい夜になりそうだった。
◆◇◆
族長が殺された騒ぎで、どこもかしこも騒然とし、あたりは殺気立った雰囲気に包まれていた。
とるものもとりあえず屋敷を抜けだしてきたものの、フレアリカにはこの後どうするべきか何も思い浮かばなかった。
シオンの消息は依然として不明のままだ。
捕えられたとも、殺されたとも情報は入ってこない。
シオンの処刑の許可がなされたとき、ディーティアは卒倒し、ほどなくして頼みの綱であるレイダールの姿が忽然と消え失せた。
何かがおかしい、と思えてならない。
レイダールの行方までが要として知れないことが、疑惑の念をよけい深めた。
心の優しい従兄が人を殺めるなどとは信じられなかった。何かの間違いに決まっている。
フレアリカは意を決すると歩き出した。
フレアリカは誰にも見咎められないよう用心しながら、現在は物置として使用されている小部屋のひとつに忍び込んだ。
灯りのない部屋は、ひっそりとしている。布で覆いがされた調度品が暗闇に白く浮かんでいた。いくつもある窓の奥まった位置、蝶番が壊れたままになっている格子を外した。予想外に大きな音に鼓動が速くなった。身体を硬直させたまま、しばらく同じ体勢で待つ。幸い誰も来るようすはなかった。
手頃な椅子を一脚選ぶと覆いを取り去って、苦労して窓の下に移動した。椅子は予想外に重かった。少し休んで乱れた呼吸をととのえ、靴を脱いで窓の外側に放り投げた。椅子の上に登り、窓枠に片膝をついて外側に身を乗り出す。殺風景な裏庭を見渡して人影がないことを確認し、深呼吸をひとつすると裏庭に飛び降りた。
そこは遠い昔、まだフレアリカが礼儀作法や常識に縛られることなく、かろやかに行動するのを許される年齢だったころ、何度かディーティアに連れられて歩いた秘密の抜け道だった。ひとりで抜け道を使ったことは一度もなかったが、道順はいまでもしっかり記憶している。
表の喧騒から取り残された石の通路に、ときおり夜風に乗って声がとどく。こんな姿を誰かに見咎められようものなら醜聞は免れない。コルダー家の令嬢は気がふれていると噂が飛び交うだろう。とはいえ他に名案がない以上、選り好みをしてはいられなかった。
通路を抜けて殺風景な裏庭をしばらく歩き、古くなって崩れた塀のほそい隙間を抜けると、景色が一変した。
地上の風景を模倣した、こんじまりとしているが上品な庭園である。
どうどうと正面から行かずに人目を忍んだのはシオンの従兄妹である自分では、正攻法をとったのでは簡単にダルファスに応じてもらなえいと考えたからだ。悪くすれば門前払いの恐れもある。
なんとしても、直接逢わなくてはならない。
シオンが族長を殺害したのは何かの間違いであることをダルファスにわかってもらえるようちゃんと説明し、捜査をやり直してもらう必要がある。
ダルファスらしい影が動くたび、私室の灯りが揺れ、光りが遮られる。
大窓の左脇にある木陰の暗がりに身を潜ませてダルファスの私室のようすを伺がいながら、いつ自分の姿を見せようか、とずっとフレアリカは思案していた。
「夜明けと共に地上の捜索を開始する」
聴こえてきた声にフレアリカは勇気ふりしぼって、そっと立ち上がった。
今度こそ声をかけるつもりで樹木の陰から身を乗り出したが、会話の相手が誰かに気づいたとたん驚いて身を低くした。
「やはりここは、ひと息に決着をつけておくべきでしょうな」
カルズはしたり顔で頷くと、持っていた銀の盃を掲げた。鬱々としたダルファスとは対照的に、奇妙なほど晴れやかな表情だった。
「どうやらこれで、最大の危機は脱したようですな」
「これも、あなたの助けあってこそだ。礼を言うぞ、叔父上」
ダルファスが神妙に頷いた。
「めっそうもない。ダルファス殿のお役に立てただけで、私は満足でございますよ」
「むろん、この恩には必ず酬いるつもりだ」
「ありがとうございます」
どうやらフレアリカは、何かまずい場面にでくわしてしまったらしい。話の内容からも、低く潜められた声の調子からも、ただならぬ気配がただよっている。
「ところで、あの侍女は本当にだいじょうぶなのだろうな?」
「それ相応の報酬をやって、しばらく身を隠すよう言い含めておきました……が、ご心配ならば口を塞いでしまえばいいだけのこと」
「それが良さそうだな。後になって娘が誰かに喋らないともかぎらん」
「そうですな。早急に手を打っておきましょう」
「頼んだぞ」
ふいに思いついたようにダルファスは口を開いた。
「ついでだ。景気づけに目障りな地上人どもの村もいくつか焼き払うというのはどうだ」
「それは名案、地上人贔屓のシオンをあぶりだすには格好の餌ですな」
「族長殺しの汚名と共に、あの小僧の口をふさげば、すべてうまくいく。どさくさにまぎれて目障りなレイダールもいっしょに始末してやればいい」
ダルファスは盃を空にすると、自ら酒をつぎ足した。
「レイダールとシオン……先に冥界に行った父親のもとで、仲良く兄弟の名乗りでもするがいい。皆、同じ相手に引導を渡された者どうし、さぞ話もはずむに違いない」
「まことに」
密談の内容の重大さと恐ろしさに愕然とし、フレアリカの鼓動が跳ね上がった。
逃げなくては……。
この場を離れ、一刻も早く、陰謀を誰かに知らせなくてはならない。
物音をたてぬように細心の注意をはらいつつ、ふたたび木陰に身を潜ませると、フレアリカはそろそろと後退した。
「それでは――」
気が急いて、ダルファスの私室に背を向けていたフレアリカには、話声が途中で途絶えたことに気づかなかった。
「だれだっ!」
誰何された瞬間、隠れている意味がなくなった事実を悟った。
逃げようとして、いくらも走らないうち荒々しく腕を掴まれる。
「きゃ……!」
痛みに悲鳴が喉の奥で凍りつく。
なす術もなく身体をゆさぶられて、衝撃のあまり茂みに倒れ込んだ。
フレアリカは自らの迂闊さを呪いながら、振り上げられた剣を絶望的な思いで凝視した。
長剣を手に、ダルファスは呆然と立ち尽くしていた。
少女がひとり、足元に横たわっている。
上品な衣装に身を包んだ、美しく高貴な少女だった。細いリボンを巻いて結い上げられていた長い髪がみだれ、地に広がっている。
意識はない。危うく、手にかけるところだった。
夜陰に乗じて庭先から室内のようすを伺い、会話を立ち聞きしていた少女は、気づかれたとたん逃亡をはかった。
ダルファスは剣を抜き、逃げようとする少女を追って、暗い中庭に走り出た。
口をふさぐつもりで茂みに追い詰め、フレアリカを見出した。
剣を振り下ろす一瞬に、ダルファスはようやく彼女だと気づいた。気づくのがもう少し遅れたら、自らの手で彼女を殺していただろう。
「まさか、こんなことになるとは……」
ダルファスの後を追って、庭に出てきたカルズが心中を代弁するように言う。
「面倒なことになりましたな」
最悪な事態と言えた。ダルファスは間の悪さに目も当てられなかった。
すべてが順調に進んでいたから、迂闊にも、すっかり油断をしていた。どこまで聞かれたのかはわからないが、咄嗟に逃げ出したようすから、すべて聞かれたと考えるべきだろう。
「殺したのですか?」
「いや、生きている」
ダルファスは憮然として答えた。
彼女の横に膝をつくと、脈を確かめた。
大怪我をしたようすはない。茂みの中に倒れときに負ったらしいかすり傷が、肩や腕に、細長い赤い筋をつけているくらいだった。
「よりによって、こんな場所で発見するとは……」
「まったくですな。もっと、おとなしい娘だと思っていましたが、いやはや」
カルズは肩をすくめると、瞼を閉じたままのフレアリカを覗き込んだ。好色な視線が、華奢な肢体を値踏みするかのように纏わりつく。
「どうなさるつもりですか?」
「しばらくようすをみる」
ダルファスはいったん立ち上がると、剣をしまい、ふたたびフレアリカの前に屈んだ。
「ですが、ダルファス殿……話を聞かれたのであれば、口をふさいだほうが」
「いや……」
ダルファスは手をのばすとフレアリカの髪に絡みついた小枝をはらい、細い身体を抱き上げた。フレアリカはかすかにみじろいだ。胸元に寄りかかるように、ほそい首が傾く。甘い香りが鼻孔をくすぐった。
「コルダーの娘とあっては、おいそれと殺すわけにもいかん……口をふさぐより、いい使いみちがないともかぎらんしな」
「まさか懸想したのではありますまいな」
「下らぬことを」
弁解じみた返答と気づき、ダルファスは苦々しい笑みを浮かべた。
どちらにせよ、廻りだしてしまった時を戻すことなど出来ようはずもなかった。




