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12. その恋は叶わない



 むせるほど濃密な緑の匂い。

 空気が体にねっとりと纏わりついていた。

 風に梢が揺れている。小動物の気配と鳥の羽ばたき。

 地上に降り立ったディーティアは、木々のあいだを抜けるようにして村のある方向に向かっていた。

 神魔の証である翼は隠してある。

 その背を覆うのは美しく結われた、絹糸のような金の髪だけだった。

「きゃ!」

 ディーティアは顔をしかめて立ち止まった。

 ふわふわとした髪が風になびき、枝葉に絡みついている。

「ああもうっ、嫌になるわ! 髪が傷んでしまうじゃないの」

 ディーティアは大袈裟に溜息をついて辺りを見回した。この辺は地上人のテリトリーだ。目的地であるあばら家はそう遠くあるまい。

 絡まった髪と格闘しつつディーティアは眉をしかめる。なかば力まかせに解いたときには、自慢の髪が数本ひきちぎれていた。

 腹違いの兄、ダルファスには地上に興味があるようなことを口にしたものの、それは兄の気を引くためにすぎない。

 本心では、ディーティアは地上など興味もないし好きでもなかった。

 地上人狩りを楽しむダルファスを悪趣味だと思う。嫌悪を覚えるのも事実だった。だがシオンのように地上に特別な思い入れもなかった。

 けれど今はちがう。

 シオンのことがあってからは、今までのように無関心ではいられなくなっていた。

 嫉妬かもしれない。けれど興味はあった。

 あのシオンが選んだという地上人に、シオンが綺麗だと感じた女のことに。

 その地上人の女がどんな女なのか自分の目で確かめるつもりで、ディーティアはわざわざ地上などに足を運んだのだ。

「ほこりっぽいし風は生暖かくて気持ち悪いし、ほんと最低なところ」

 不機嫌にディーティアは言った。

 けれど何もせず、このまま帰るつもりはなかった。

 見ているのが辛くなるほどにシオンは地上人の女のことを案じていた。

 一言も告げることも叶わず地上を後にしたことを、ひどく気に病んでいた。

「べつにシオンのためなんかじゃないわ」

 とはいえ、女の様子くらいは教えてやってもいい。不本意ではあるけれど。




 ほどなくディーティアは、シオンの気配をたよりにあばら屋を探しあてた。

 小屋の前には小さな畑がある。

 藤の花篭を手にして野良仕事に精を出す娘が、おそらくシオンの恋人なのだろう。

 ディーティアに気づくと娘はいぶかしげな視線を向けてきた。

「あなた誰? この辺では見ない顔だけど」

 土の中にしゃがんでいた娘は花を摘んでいた手を止めて立ち上がった。

 色褪せたスカートについた土をはらい落すと、花篭を両手で持ちなおす。

「ここは村の外よ。村に用があるのなら、この先を道ぞいにまっすぐ行くといいわ。それほど遠くじゃないからだいじょうぶよ」

 娘――リィザが指し示した方向を一瞥し、ディーティアは鼻を鳴らした。

「汚いわね」

 リィザが目を丸くする。

「え? なんですって……いまなにか」

「汚いわね、と言ったのよ」

 ディーティアは尊大な態度で宣言すると、リィザを指さし、大きく頷いた。

「その服の――いいえ、あなたのことよ。手にも足にも泥がこびり付いているじゃないの。それにそのみっともない赤い髪! おお嫌だ、ここにいるだけで私まで汚れてしまいそう」

 なおも意地悪く甲高い声でまくしたてる。

 リィザは恥ずかしそうに俯いたが、すぐに睨み返してきた。

「よ、よけいなお世話よ。用がないなら、さっさと出ていきなさいよ!」

 痩せた手足は細長いばかりで、陽に焼けている。侮辱された怒りに、頬がほんのりと赤くなっている。

 どうして髪をちゃんと手入れしないのだろう、と内心ディーティアは不思議に思った。

 念入りに櫛を入れて結い上げれば、みちがえるほど豪華な髪になるだろうに。

「用ならあるわよ。シオンのことがなければ、この私が、こんな場所までわざわざ降りてくるはずないじゃないの」

「シオン! いまシオンと言ったの?」

 声がいっそう甲高くなり、語尾に震えが混じった。

 持っていた花篭が手から滑り落ちて、摘んだばかりの白い花が風にあおられて地面に降りそそいだ。

「シオンを知っているのね。教えて、シオンはどこ? 彼に何かあったの?」

「いいわ、教えてあげる。そのほうが、あなたのためでもあるもの」

 もっと挑発してやろうかとも思ったが、考えなおした。彼を失うことになる娘を少しだけ哀れに思ったのだ。

 ディーティアは背中にしまっていた翼を開くと、かるく羽ばたいた。ヒュンと風を切る音とともに砂埃がまきあがる。

 蒼褪めた顔でリィザは立ちすくんだ。

「……神魔」

 畏怖を込めたつぶやき。

「あたりまえじゃないの。シオンが何者か知らなかったとでも言うつもり? でも安心してもいいわよ、シオンにめんじて殺さないでいてあげる」

「け、けど……どうして」

 それには答えずにディーティアは告げる。

「シオンは、もう二度とここへは戻らないわ。あきらめなさい。あなたと彼は違うし、神魔が地上で暮らすわけにはいかないのよ。それに掟破りは許されないことよ」

「嘘よ、そんなの……信じない」

「信じなくてもいいけれど、彼があなたのところへ帰らない事実は変わらないわ。あなたのためにと思って、わざわざ教えてあげているのよ。感謝しなさい」

「嘘だわ。いっしょに住もうって彼は言ってくれたのよ。それに私――」

 翠の瞳を潤ませて言いはるリィザをさえぎって、ディーティアは諭すように口を開く。

「神魔の寿命が何年なのか知っている? こう見えて、私もシオンも、あなたの両親よりも長く生きているわ。きっとあなたの孫が死んでも、私たちは変わらずに生きているでしょうね。あなたには一生のことでもシオンにとっては人生のほんの一部にすぎないわ……この意味がわかる?」

 リィザは悲しそうに頷いた。

「いっしょに暮らして、そしてあなたが死んだ後、ひとりぼっちになったシオンはどうなると思う? それとも自分が死んだ後のことなんて、あなたにはどうでもいいことかしら」

「……そんな」

「それだけじゃない。掟を破って仲間を捨てれば、二度と仲間のもとへ帰ることはできないわ。それどころか掟破りには死の報復が待っているのよ」

 リィザは呆然としている。硬直したまま、唇が悲鳴の形で固まっていた。

「掟を破れば必ず殺されるわ。逃げ切れると思ったら大間違いよ。あなた達は逃げ回って、そして最終的にシオンは死ぬことになるでしょうね。彼は仲間や友人に追われて命を奪われるの。そうなったら全部あなたのせいよ」

「う、嘘だわ。だってそんなこと……シオンは一言だって」

「馬鹿ね、彼が言うはずないじゃないの」

 その一言がリィザを納得させたようだった。

 うちひしがれたように地面に座り込み、リィザは肩を落として下を向いた。数滴、涙が落ちて、地面に染み込まれて消えた。

「伝言があるのなら聞いてやってもいいわ」

 リィザはのろのろと顔をあげた。

「愛して――いいえ、さよならと」

 リィザは首を左右にふった。あきらめのにじむ擦れ声が告げる。

「なにもないわ。言えば、かえってシオンを動揺させるだけだろうから」

「そうね」

 ディーティアは否定しなかった。




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