11. 涙の理由
部屋は薄暗かった。
陽光が落ちてずいぶんたつのに、明かりすら灯っていない。主の心情を反映するかのように陰鬱な空気ばかりが満ちている。
「……シオン」
部屋の中央に置かれた長椅子に座っているシオンは相変わらず俯いたまま、顔を上げることもしない。
背中を丸め両膝を抱えている姿は、うちひしがれた幼い子供のようだった。
「わたしよ、シオン。勝手に入ってごめんなさい」
シオンは小さく身を震わせて閉じていた目を開けた。
眠っていたのではない。
何日も寝ていないのは明らかだった。
綺麗に澄んでいた黒い瞳が今は濁って疲労を滲ませている。
「ディーティア」
燭台に火を灯し、ディーディアはシオンの隣に腰を下ろした。
暗かった部屋に柔らかな灯りが彩りを加える。
膝の上で握りこぶしを作ったシオンの手のひらに、そっと自分の手を重ねる。
皮膚を通してかすかな震えが伝わってくる。
よほど強く握り締めていたのか指先が白く変色していた。
「顔色がよくないわ」
ようやく顔を上げたシオンの両目を、ディーティアは覗き込んだ。
「……見ないで。おれ、きっと情けない顔をしているから」
恥じ入るようにシオンは目を逸らす。
「そんなことないわ」
ディーティアはいつになく優しい口調でそう言った。
「食事をとらないのですって?」
シオンは首を横に振る。
消え入るような声で「ちゃんと食べているよ」と答えた。
「それならいいのだけれど」
その言葉を信用したわけではないけれど、ディーティアは気づかぬふりをする。
無理に追求することで彼を追いつめたくなかった。
「悲しそうな顔をしているのね。あなたのそんな顔を見ていると、わたしまで悲しくなってしまうわ」
「ごめんよ、ディーティア」
シオンは無理に微笑んだ。
感情と逆の笑みは歪んで、泣き笑いのような表情になっている。
やつれた横顔が橙色の炎のなかで揺れている。ディーティアは泣きたくなった。
「シオン……大罪だと知っていて、あなたがなぜ地上に降りたのか兄さまから聞いたわ」
シオンは溜息をついた。
「でも結局はこんな所にいる」
そう言って、やるせない微笑みを浮かべる。こんなときにすら。
怒りをあらわにしたシオンを、今まで一度だって目にしたことがあったろうか。
「ふさいでいるあなたを見るのは辛いわ。とても。でも、何て言ったらいいのかしら。うまく言えないけれど……怒らないで聞いてくれる?」
「もちろん怒ったりしないよ」
あたりまえじゃないか、と安心させるように言い、先をうながす。
「そのことで、あなたが苦しんでいるのも知っているの。それでもわたし、シオンが無事に帰ってきてくれて良かったと思うわ」
涙が出そうになって慌てて顔を上向ける。
シオンが今ここにいてくれることが、こんなにも嬉しい。
けれど目の前で悲しみに沈んでいる友人の姿に胸を痛めるよりも失わずにすんだことに、再び戻ってきてくれたことに密かに安堵していた。
ディーティアはそんな自分自身に嫌悪を覚えた。
ディーティアは横を向き、ちょっと身を退いた。心のうちを悟られるのか恐かった。
「どうしてなのかな」
しばらくしてシオンがぽつりと呟いた。
返答を望んでいるわけではない。
誰かに問うというよりも、胸のうちだけで考えていたものがそのまま言葉になってしまったように見える。
「なぁに?」
「……うん」
それ以上は言わず、シオンは茶器に目を落とした。
胸の内の思考を反芻するように、茶器から白い湯気がたちのぼるのを静かに眺めている。
「レイが……いや、何でもない」
途中まで言いかけて、やめる。
「兄さまがどうかしたの?」
シオンはかぶりを振った。
「たいしたことじゃないんだ」
「嘘。たいしたことじゃないって顔ではないわ。話してシオン」
ディーティアにうながされ、シオンはしぶしぶ口を開いた。
まだ話すことをためらっているような、そんな口調だった。
「熱に浮かされているようなものだって」
「どういうこと?」
「一時的な感情だって、いくら違うって否定してもレイはわかってくれないんだ。ひょっとして君もそう思っている?」
「わたし、わたし……解らないわ」
正直な気持ちだった。
シオンが地上人の娘に惑わされている。そう思うと我慢がならなかった。
惑わされているだけならいい。
一時的なものならいずれ目を覚ます。
目を覚ましさえすれば今まで通りのシオン戻るからだ。
「どうしたらレイや君に解ってもらえるのかな」
考え込むように、シオンは目を伏せた。
ディーティアは不安になった。もしも一時的な感情でなかったら?
いずれまたシオンが行ってしまうような気がした。
そうなったらきっとシオンは二度と戻らない。
生きて再び会うことはないだろう、と予感めいた確信があった。
「やめてシオン、そんなことを言うのは。そんな話聞きたくないわ」
湧き上がる感情に語尾が震えた。
悪い想像ばかりが膨らんで手に負えなくなる。
「ねえシオン。あなたは帰ってきてくれたのでしょう。どこへも行ったりしないわよね? そうでしょう」
シオンは答えない。
「どこにも行かないって約束して。もう二度と地上には降りないと誓ってちょうだい。ねえ答えて。お願いよ」
テーブルに身を乗り出して、ディーティアは正面からシオンに視線を向けた。
覗き込んだ黒い瞳には迷いがあった。
とまどいに言いよどみ、やがて静かな口調が告げる。
「約束は……できないよ」
恐れていた言葉だった。
予感していたと言ってもいい。
いつシオンの口からその言葉が出るのかと、本当はいつだって恐かった。
「彼女のことが心配なんだ」
シオンは言った。静かな口調だった。
「彼女に何も言わないで来てしまったから、きっとリィザはおれの身に何かあったんじゃないかって心配している。本当はこんなことをしている場合じゃないのに。早くリィザのもとへ帰らないと……彼女は」
「やめて!」
ディーティアは両耳をふさいだ。
「やめて。聞きたくないわ、そんなこと」
どくん、と鼓動が悲鳴をあげる。
熱を持ったこめかみが痛む。知らず、手が震えていた。
「掟を……一族の掟を忘れたわけではないでしょう。離反は極刑と決まっているのよ。一族の皆があなたを追うわ。レイダール兄さまも。あなたと兄さまが互いに殺し合う姿なんて見たくない。どちらかが傷つくのも……いいえ、誰が死ぬのもたえられないわ」
椅子から立ち上がったひょうしに足元がふらついた。
「危ない!」
派手な音をたてて茶器が割れた。
ディーティアはよろけてテーブルに手をついた。
反射的に付いた手のひらの下、ぱりんと薄い茶器がさらに砕け、破片が床に散る。
「きゃ……」
テーブルからしたたる香草茶には鮮やかな朱が溶けていた。
シオンが慌てて立ち上がる。
「痛っ……」
刺すような痛みにディーティアはうめいた。手のひらが燃えるように熱い。
「手を握ったらだめだ」
腕をとられ、握り込もうとした手のひらを掴まれる。
シオンは真剣な面持ちをしている。
「動かさないで。手を握ったらよけい破片が食い込むから」
「え、ええ……」
ディーティアが頷くと、シオンは手の力をゆるめた。傷を見て眉根を寄せる。
「……酷いな」
右の手のひらから手首にかけて、ざっくりと皮膚が裂けていた。
斜めに大きく走った傷口もその周囲も血にまみれ、白い破片がいくつも皮膚から突き出ていた。
「痛む?」
「ええ……痛むけど、でも大丈夫よ。そんなに大した傷じゃないと思うわ」
シオンは首を横に振る。
「そんなことないよ。ざっくり切れてるし、破片が深い所まで食い込んでいる」
血の筋を傷つけたのだろう。あとからあとから溢れ出す血液は、ちょっとやそっとでは止まりそうになかった。
「早く手当てをしないと」
シオンは血に濡れた傷口に手をかざし瞑目した。
柔らかな光が満ち、手のひらが暖かくなる。
その手をディーティアは振り払った。
「やめて!」
「ディーティア?」
振り払ったひょうしに血が飛び散った。
ドレスの裾から床にかけて、弧を描くように赤い染みが落ちた。
「血が……ドレスが汚れるよディーティア。手を貸して。早く手当てをしないと」
「ドレスの汚れなんてどうでもいいの!」
「そんなに手を振り回さないで。それよりも手を。もしも傷痕が残ったりしたら」
「やめて、と言っているでしょう!」
ディーティアは金切り声をあげ、なおも力を使おうとするシオンを睨み付けた。
「必要ないわ! こんな傷たいしたことないのよ。何度言えばわかるの?」
荒れた感情に涙が零れた。
「あなたっていつもそう」
そうやってシオンは他人のことばかり気にかけている。
誰かのために平気で自分を犠牲にするくせに、本当は何ひとつ解っていないのだ。
反対に誰かを傷つけているなんて、きっと考えも及ばないに違いない。
「こんな怪我にいちいち力を使わないで。いいえ、力は使わないで」
「ごめん」
シオンは決して怒ったりしない。
それがいっそうディーティアを苛立たせるのだ。
「謝るようなことじゃないでしょう。必要なら自分ですると言っているの。あなたのように治癒までは使えないけど、わたしだって血を止めておくくらいのことはできるのよ」
しだいに刺々しくなる口調に解っていながら、ディーティアにはどうすることもできなかった。




