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10. それぞれの苦悩

 ダルファスは来客を送り出すと侍女に飲物を持って来るように命じた。

 書斎に戻って中断していた仕事の続きをするつもりだったが、その前にしなくてはならないことがいくつかあった。

 友人を伴って現れたディーティアの目的は聞くまでもなく想像が付いていた。

 レイダールにべったりの腹違いの妹の関心といったら、いつだってあの忌々しい小僧のことばかりなのだ。

 ルゼニ家と肩を並べる一族の〈片翼〉たる名家コルダー家のやっかいもののシオン、父親の判らない私生児、一族の面汚し。

 そんなどこの誰ともわからない者をフレアリカの従兄として優遇するなど、コルダー家の当主であるラルザハルの気が知れなかった。

 身分違いもはなはだしい。

 コルダーは御息女の周囲にもっと気を配るべきなのだ。

 少なくとも離反を企てるような者を近くに置くべきではない。

 地上のいったい何がそんなにいいのか理解に苦しむが、おかげでディーティアやフレアリカが地上に興味を持つ始末だ。地上など高貴な女性のおもく場所ではない。

 とはいえフレアリカの前で約束した以上、シオンが家に戻れるようダルファスは口添えをするつもりだった。

 シオンのことなどどうなろうと知ったことではなかったが、フレアリカには色よい返事をしてやりたかった。

「失礼します、ダルファスさま」

 扉の向こうで声がした。

 ダルファスが入るように言うと、しばらくして少年が現れた。少年は扉の前で立ち止まって一礼すると、利発そうな青い瞳をダルファスに向ける。

「ユールか、どうした?」

「お客さまがおみえです」

 ユールは行儀見習いとしてダルファスの雑用をするようになってから今年で二年になる。

 ダルファスの生母であるルーディエラの実家ルゼニ家の遠縁にあたる少年で、身元はしっかりしている。家柄もいい。きびきびとよく動くうえに頭の回転も早かった。

「客だと? 今日は、確かそんな予定はなかったはずだが」

「はい、ダルファスさま」

「俺はこれから父上の所に行かなければならん。今日は忙しいからと、日を改めてもらうように言って、お帰りいただくように」

 するとユールは申し訳なさそうに言った。

「それが、お客さまとは、カルズさまなんです」

「叔父上が? 仕方がないな。わかった、すぐに伺うとお伝えしてくれ」

「かしこまりました」

 どんな用件かは知らないが、どうせ急を要するようなことでもあるまい。

 だが相手がルゼニ家当主とあっては追い返すわけにもいかなかった。

 カルズはときどき前ぶれもなしに現れては世間話や愚痴をながながとしゃべったり、執務についてあれこれと好き勝手なことを並べ立ててゆく。

 やれ遠縁の誰々をこの役職に就けてほしいとか、この名目で金をまわしてもらいたい、といった具合にだ。

 腹立たしく面倒ではあったが、ルゼニ家は強力な後ろ楯でもある。ないがしろにするわけにはいかなかった。

 ダルファスはかるく身支度をととのえると客人の待つ応接室へ向かった。





「お久しぶりですな、ダルファス殿」

 カルズは枯れ枝を思わせる小柄な老人だった。

 やぎに似た白いあごひげをはやし、薄くなった頭にふちのない平たい帽子をかぶっている。

 二重襟のついたかかとまである長衣を身に着け、赤紫の帯を腰の低い位置に巻いていた。刺繍のされた袖口から骨ばった手がのぞいている。見るからに重たそうな宝石の嵌めこまれた指輪が目に眩しかった。

「ようこそおいでくださいました、叔父上。お元気そうでなによりです」

「今日は、ぜひとも内密にダルファス殿のお耳に入れておきたいことがございましてな。すまんが人払いをお願いできませんかな」

 もったいつけたようすで言う。

 いったい何事だろうとダルファスはいぶかしんだ。

 ユールが退出するのを見届けてから、ダルファスはカルズの方に向きなおった。

「どうぞ、叔父上。お話ください」

 カルズは心持ち声のトーンを落として話し始めた。

「ここ数日、つまり例の離反の件があったあたりから族長とコルダー家の間で、表立ってはいないものの、何やら頻繁にやりとりをしているような気配がありましてな」

 低い声がつづける。

「事情にくわしい者に探らせたところ、内密に弟君とコルダー家の令嬢との間で婚姻の話が持ち上がっているらしいのです」

「レイダールとフレアリカ殿が? 確かなことなのですか、叔父上」

「もちろん確かなことです」

 カルズが頷く。両家の家柄を考えれば有り得ない話ではない。

 だが、続く言葉にダルファスは、一瞬、我が耳を疑った。

「それどころか族長殿は次代の座からダルファス殿をしりぞけ、かわりに弟君であるレイダール殿を次の族長にすえるつもりらしいと」

「私のかわりにレイダールを族長にするというのか! いったいなぜ」

 ダルファスに心当りはない。

 長男であるダルファスが次代を継ぐのがすじというものだ。

 幼いころからダルファスはそう言い聞かされて育ったし、そのつもりで行動してきた。

「信じられん。そんなことがあってたまるものか。なにかの間違いに決まっている」

 両手で頭を抱え込み、頭を振ると、ダルファスは苦々しくつぶやいた。




   ◆◇◆


 シオンが一族を裏切って離反をくわだて地上人の女と駆け落ちをした事実は、どうにか表沙汰にならずにすんだ。

 離反の件は追及をまぬがれ、少しなら面会も許されるという。

 どういう心境の変化かダルファスが急に態度を変えたことで、シオンはこのニ、三日中にもコルダーの屋敷に戻れることになった。

 知らせを受けたレイダールはシオンがとどめ置かれている屋敷の一角に足を運んだ。

「元気そうだな、シオン」

 しらじらしく響く声に、内心で苦く笑う。

 シオンにしてみれば社交辞令というよりむしろいやみに近いだろう。

「べつに」

 返ってきたのは感情のこもらない、どこか投げやりな声だった。

 シオンは窓の前に立ち外の景色を眺めていた。

 視線をめぐらせレイダールを見たシオンは、視界から締め出すように再び横を向いた。

 静かな横顔には、はっきりとした拒絶が現れている。

 数日前までお決まりだったはずの何気ないやり取りは、レイダールが地上の娘の生命を盾にしてシオンを神魔界につれ戻した一日で全く別の意味を持っていた。

 友情で結ばれていたはずの関係に亀裂が入り、信頼は裏切りという形で幕を閉じた。

「今度のことは離反ではなく単なる軽はずみな行動ということで全て不問になった。二、三日中には帰れるそうだ。もう地上へは二度と降りるなよシオン……聞いているのか?」

「聞いているよ。それで、おれに何を言わせたいんだ? 何もかも君のおかげだ、ありがとう、とでも言えば満足なのか」

 横を向き、かたくなにレイダールから視線を逸らしたままシオンは言った。

「放っておいてくれればよかったんだ」

「そんなわけにいくか。俺には俺の立場がある。おまえにとっての優先順位と俺の優先順位が違うのはあたりまえのことだろう」

「おれはただ、リィザと一緒にいられたらそれでよかったんだ」

「くだらない、子供じみた幻想だな。地上人と暮らすだと。おまえのためにいったいどれだけの人間が迷惑をこうむっているか、一度でも考えたことがあるのか?」

「だからって、あんな裏切りかた」

 とがめるというよりも、すがるような口調だった。

 シオンにしてみればレイダールに裏切られたことがそもそも信じがたいのだろう。

 反対されるとわかっていてそれでもシオンが打ち明けた理由は、それが自分なりのあかしだと思ったからだ。

「一族を裏切ったのはおまえだ」

 そうと知っていながらレイダールは冷酷に突き放した。認めるわけにはいかない。

「それは」

「俺じゃない。裏切ったのはおまえのほうだ。願いさえすれば、すべてが叶うと本気で信じているわけではあるまい」

 はっ、としてシオンは身を引いた。

 苦しげに見えるのは、自分のしでかしたことの重大さを理解しているからだ。

「だけどおれは……おれはリィザと約束したんだ。一緒に生きようと……レイ」

 たとえ離反者の烙印を押され一族に追われようとも、好いた娘と添い遂げられればそれで満足だと言う。死さえいとわないと。

 シオンがそれでいいからと納得できようはずもない。

 間違いは正さなくてはならない。少しでも早いうちに。

「いいかげんに目を覚ませ。ただ地上の女が珍しくて、それで惑わされているだけだ」

「ちがう!」

 ばっ、とシオンは振り向いた。

 押さえ切れない感情の波が荒げた声と共に溢れ出る。

「ちがう、そんなんじゃない」

「ちがう? どこがちがうんだ。そんなもの、ただの一時的な感情にすぎない。熱に浮かされて夢を見ているだけ、熱病のようなものだ。本当に解っているのか? 何もかもを失うことになるんだぞ。生命をかける価値などどこにあるというんだ!」

「ちがうよ、レイ……ちがうんだ。どうして解かってくれない? 熱に浮かされているんでも、ましてや一時的な感情でもない」

 届かないもどかしさにはがみしながらも言葉をさがす。シオンは恐ろしく真剣だった。

「ああ、レイ……本当だとわかってもうには、おれはどうしたらいい? 何を提示すれば信じてくれる?」

「おまえはどうかしている」

 言い様のない恐れを隠し、レイダールは呟いた。

 胸の奥、不吉を象徴するかのような得体の知れない何かが湧き上がる。

「この話はもう終わりだ」

 一方的に宣言してレイダールは背を向けた。

 いまは辛くとも、いずれ時が解決する。

 最初から解りきっていることだ。

 生きる世界の違う二つの種族が共に暮らすなど無理に決まっている。どうせ最後には傷ついて別れることになる。

「おれは……」

 耐え切れなくなったように口を閉ざす。

 シオンは扉の前に立つレイダールから顔をそむけ、窓の外に目をやった。

「女のことはもう忘れろ。どちらにしたって二度とは逢わない相手だ」

 応えはなかった。




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