01. 銀翼の逃亡者
失うなど思いも寄らなかった。
ごめん、と決別を告げる声に、レイダールは言葉を失って立ちつくす。
「正気か?」
しばらくの間をおいて、ようやく口にした問いは喉に絡みついたように擦れていた。冷静さを欠いている自身に気づき、動揺を一呼吸で飲みこんで平静を装う。
「やめるんだ、シオン」
神魔界――地上人のいうところの〈神魔〉の住まう、天外の地。
その最果てに二人は立っていた。
互いに遠く距離を置いたまま真正面に向かい合い、どちらもが剥き出しの岩肌を踏みしめている。
青い海原にも似た空に、折り重なるようにして白雲が連なっている。それはやがて流れるように碧空に溶け、視界の彼方で白くけむっていた。
地上より遥か高みに位置するその場所を、下界に住まう人の子は〈神魔界〉と呼び、憧れと畏怖の入り混じった眼差しをもってふり仰ぐのだ。
「本当に解っているのか? 一族を裏切ればそれで終わりだ。二度とは戻れないぞ」
「解ってる」
シオンは静かに頷いた。
「だけど、もう決めたんだ」
まっすぐに見つめてくる瞳には欠片ほどの迷いすらなく、むしろ決断を下したゆえの奇妙な安堵がうかがえた。
夜を思わせる瞳。その混じりけのない色に、どれほどの言葉を重ねようとも引き止める術などありはしないのだ、と思い知らされる。
「それも相手は人間だぞ。地上の者となど添い遂げられるはずがないだろう」
解りきった真実だった。簡単に予想しうる未来ですら、シオンにとってはもう無意味でしかないのだ。
「……死ぬぞ?」
「たぶん、な」
裏切りは死をもってあがなう。それが神魔と呼ばれる一族の掟だった。
一族を捨て、神魔界を後にすることは、いかなる理由を持ってしても許されない。離反は死に値する。
神魔は地上に住まう人間の倍以上の寿命を持っていたが数は少なく、出生率は極端に低い。
地上人が繁栄の上り坂を歩いてゆく陰で、一族はゆるやかな衰退の道をたどっている。
さげすみの対象でしかない地上人に一族の尊い血が混入することを彼らが望むはずもなく、むしろ嫌悪を覚えるのが通常なのだ。
ただひとりの例外を除いては。
「一族の者たちが許すと思っているのか?」
「思ってないよ、思うはずがない」
「それなら」
シオンは遮るように言葉を継いだ。
「ごめんレイ、でもこれだけは譲れない」
シオンがこんなにも自己を押し通すのを、レイダールは初めて目にした。
出逢ったのは、二人が共に幼い頃だった。
すでにシオンは両親を亡くしていて、昔からあまり強く自己を主張することがなかった。無口でおとなしい――深く付き合えば決してそうでないと解ったが――シオンはそんな子供だった。
「きっと後悔することになる」
ほんの少しの差とはいえ、自分がシオンよりも年長者である、という自覚がレイダールにはあった。
「いいよ、それでもかまわない」
年齢の差か互いの性格ゆえか、幼い頃から何をするにもレイダールが先にたって、その後をシオンが付いて来るという図式が自然に出来上がっていた。
レイダールが族長の息子だったからかもしれない。
そんなふうに成長して、それがあたりまえになっていた。頭から信じこみ勘違いしていた。
気がついたら己のほうが慌てふためいて、醜態を晒している事実に気づかされる。
「逃げきれるはずはないし、今ならまだ間にあう。すべてをなかったことにして、今までの生活に戻れる……考えなおせ、シオン」
「できないよ」
シオンは首を振った。
決意はどうあっても変わりそうになかった。
だから、そうなってほしくないと願って、あえて意識をそらしていたもうひとつの事実をレイダールは告げる。
「俺も、追っ手に加わることになる」
答えないかわりに頷いて、うすく笑む。
視線をながし、シオンは眼下に広がる雲間に目をやった。
突風が漆黒の髪を吹き散らす。
短髪と形容するにはすこし長めの、穏やかな色をたたえ、それでいて意志の強さを映す瞳と同色の、少し癖のある黒い髪。
斜光が射している。突風に煽られた小石が乾いた音を響かせて視界の底へ消えていった。
短く風を切る音がした。
背にしまわれていた翼が開いて、鮮やかに空に広がる。
それは内側から光輝くような純白だった。風に煽られて波打つ翼の周囲を、真珠の粉を振り撒いたような淡い光が乱舞している。
「シオン!」
抜け落ちた羽根が数枚、粉雪のように宙を舞う。
最後に一度だけ振り向いて、シオンは地を蹴った。




