面状降水帯
本作はフィクションであり現在の気象や将来の予測等とは一切関係がありません。
また刺激の強い描写を含みます。
気分が悪くなった場合はただちに閲覧をお控えください。
日本の南、フィリピン海付近に二つの台風が発生した。
37号と38号。
どちらも海水温の異常な上昇を受けて急速に発達し、猛烈な勢力へ成長していた。
さらに厄介なことに、いったん日本列島を通過し、温帯低気圧へ変わった35号が、太平洋上で再び勢力を増していた。
気象庁の発表は、もはや日常のバックグラウンドノイズに過ぎなかった。
スマートフォンの画面がけたたましく赤く点滅し、「線状降水帯発生情報」という見慣れた文字が躍る。
しかし、窓の外を埋め尽くす光景は、すでにそんな生ぬるい言葉では形容できない、地獄そのものに変貌していた。
空が、文字通り「落ちて」きている。
いつからか、テレビのアナウンサーは恐怖に声を震わせ、新しい言葉を使い始めていた。
それは「面状降水帯」
かつて日本を襲った「線状」の雨雲は、一本の帯として特定の地域を狙い撃ちにした。
だが、地球温暖化が臨界点を突破し、大気中に飽和した狂気的な水蒸気は、日本列島全体を隙間なく覆い尽くす巨大な「面」の雨雲へと進化していた。
数日間にわたり、視界を完全に遮る濃密な水塊が、垂直に降り注いでいる。
都市の排水機能は三日前に完全破綻した。逃げ場を失った濁流はアスファルトを食い破り、地下街や地下鉄の網の目を一瞬で満たした。
地下にいた数万の命の叫びは、数秒で厚い水底へと沈んだ。
さらに恐ろしいのは、内水氾濫が引き起こす激しい冠水だった。
1階は言うに及ばず、2階、3階へとじわじわと、しかし確実に水位が競り上がってくる。
茶色く濁った水面には、高級家具や自動車、そして変わり果てた姿の「かつての住人たち」が物言わぬ生ゴミのように無数に浮き沈みしていた。
そして、この「面」の雨は、日本の国土そのものを解体し始めていた。
飽和限界を遥かに超えて水を吸った山々は、自らの重さに耐えかねて次々と爆発するように崩壊した。
メガトン級の土砂災害が、容赦なく山麓の街を圧殺していく。
かつて「美しい緑」と呼ばれた斜面は、今や巨石と大樹を混ぜ込んだ凶悪な泥の津波となり、避難所だったはずの中学校ごと、数千人の命を瞬時に生き埋めにした。
生存者の捜索はおろか、その場所がどこだったのかすら、降り続く豪雨がまたたく間に削り取り、平らな泥の海へと変えていく。
二つの巨大台風が北上を続け、東から逆走する35号の残骸と激突しようとしている。
そのとき、この「面」はさらに厚みを増し、日本という国そのものを地図から完全に洗い流してしまうだろう。
人々はただ、暗く濁った窓の外を見つめながら、大地が削られる重低音の轟音に耳を塞ぐことしかできなかった。
水に支配された新しい世界の、これが始まりだった。




