第四話 家族は「支配」ではなく「共有」
都心にあるオフィスビルの十階。
「佐伯総合法律事務所」の応接室は、静寂に包まれていた。
磨き上げられたマホガニーの大きなテーブルを挟んで、相田美也子と、夫の相田貴弘、そして義母の芳江が対峙している。
美也子の隣には、依頼人である彼女の代理人、佐伯弁護士が涼しい顔で座り、手元の資料を整理していた。
窓の外には、夏の終わりの高い空が広がっているが、室内の空気は凍てつくように冷たい。
貴弘は以前の覇気を完全に失い、無精髭を生やし、目の下に濃い隈を作っていた。芳江もまた、かつての威圧感はなく、小さくなっておどおどと周囲を見回している。
「それでは、相田貴弘氏と美也子氏の離婚協議、および財産分与に関する最終確認を始めさせていただきます」
佐伯弁護士の落ち着いた声が、静寂を破った。
貴弘がビクリと肩を震わせる。
「まず、離婚の合意については、先日の協議通りでよろしいですね?」
「……ああ。仕方ないだろ」
貴弘が掠れた声で答える。
不服そうではあるが、抵抗する気力は残っていないようだ。
美也子は無言で頷いた。彼女は今日、淡いブルーのセットアップを着ている。それは彼女の決意を表すかのように、清潔感があり、そして冷徹なほどに理知的だった。
「では、争点となっている財産分与についてです。こちらが作成した資産目録と分与案をご覧ください」
佐伯が分厚いファイルを二人に差し出した。
貴弘と芳江がそれを覗き込む。
次の瞬間、二人の目が大きく見開かれた。
「な……なんだこれ! 俺の取り分が、ほとんどないじゃないか!」
貴弘が叫んだ。
確かに、計算書に記された貴弘の受取額は、彼の予想を遥かに下回る金額、いや、ほぼゼロに近い数字だった。
「これじゃあ、これからの生活はどうなるのよ! アパートの敷金だって払えないわ!」
芳江も悲鳴を上げる。
美也子は静かにコーヒーを一口啜り、ゆっくりと口を開いた。
「数字は嘘をつきません。それが、貴方たちが『家族』という名の下に行ってきた経済活動の結果です」
「ふざけるな! 俺は年収一千万近くあったんだぞ!? 貯金だって、もっとあったはずだ!」
「ええ、ありましたね。でも、それは『あった』だけです。貴方が使い込んだんですよ」
美也子は冷ややかに告げた。
そして、FPとしての知識をフル動員し、彼らが理解できていなかった現実を解説し始めた。
「貴弘さん。貴方は常々『俺の金だ』とおっしゃっていましたが、民法七百六十二条をご存知ですか? 婚姻中に夫婦が協力して築いた財産は、名義がどちらであっても共有財産とみなされます」
「だ、だから何だ。俺が稼いだことに変わりはない!」
「ええ。ですが、その共有財産から、貴方が私の合意なく支出した多額の金銭……具体的には、義実家のリフォーム費用、お義姉様の子供への学費援助、そしてキャバクラやギャンブルへの浪費。これらは『特有財産からの支出』ではなく、『共有財産の浪費』と見なされます」
美也子は資料のページを捲らせた。
そこには、過去三年にわたる不透明な出費が、赤字でびっしりとリストアップされている。
「財産分与の基本は二分の一です。しかし、貴方が勝手に持ち出して使い込んだ分は、分与の前渡しとみなして計算します。これを『持ち戻し』と言います」
「もち、もどし……?」
「簡単に言えば、貴方はすでに自分の取り分を、リフォーム代や飲み代として使い切ってしまったということです」
貴弘がパクパクと口を開閉させる。
美也子はさらに追い討ちをかけるように、別のページを示した。
「さらに、貴方の隠し口座の件です。○○銀行の残高、及びそこからの使途不明金。これらも全て洗い出しました。これらは本来、夫婦の貯蓄として計上されるべきものでしたが、貴方が隠匿し、個人的な楽しみに費やしました」
「そ、それは俺が独身時代から……」
「入出金記録を見れば、婚姻後に増えた分が明らかです。これも計算に入れています。そして、ここからが重要ですが……」
美也子は佐伯弁護士に目配せをした。
佐伯が頷き、一枚の書類を取り出す。それは、貴弘の会社宛の請求書のコピーと、裏帳簿のデータだった。
「貴弘さん。貴方が会社の経費を水増し請求し、個人の懐に入れていた証拠です。横領、とまではいかなくとも、業務上横領に近い背任行為ですね」
その言葉が出た瞬間、貴弘の顔から完全に血の気が引いた。
ガタガタと震え出し、脂汗が額を伝う。
「こ、これを……どうするつもりだ……」
「本来なら、会社に通報すべき案件です。コンプライアンス違反ですから」
「や、やめてくれ! それだけは! クビになったら、俺は……!」
「退職金も出ないでしょうし、最悪の場合、会社から損害賠償請求をされるでしょうね。再就職も難しくなります」
美也子は淡々と言う。
貴弘はテーブルに額を擦り付けるようにして頭を下げた。
「頼む! 美也子、いや、美也子さん! 許してくれ! 何でもする! だから会社には言わないでくれ!」
「貴弘、情けない声を出さないで!」
芳江が叫ぶが、貴弘は聞く耳を持たない。彼にとって、会社の地位は唯一残されたアイデンティティであり、命綱なのだ。
美也子は溜息をつき、氷のような瞳で夫を見下ろした。
「取引しましょう」
「と、取引?」
「はい。この財産分与案に、今すぐ無条件で合意してください。そして、慰謝料として五百万円。これは分割でも構いませんが、公正証書を作成し、給与差し押さえの承諾文言も入れます」
五百万。
今の貴弘にとっては絶望的な金額だが、社会的死を避けるためには飲むしかない。
「そ、それで……会社には……?」
「この条件を飲むなら、この証拠は私の胸にしまっておきます。墓場まで持って行ってあげますよ。……優しいでしょう? 私」
美也子がニッコリと微笑む。
その笑顔は、かつて貴弘が「従順で扱いやすい」と見下していた妻のものではない。彼を完全に掌握し、生殺与奪の権を握った支配者の笑顔だった。
「わ……分かった。サインする。何でもサインする……」
「貴弘! あんた正気!? 五百万なんて、どうやって払うのよ! それに、うちのリフォームの残金はどうなるの!? 義父の入院費は!?」
芳江が金切り声を上げて貴弘の腕を掴む。
貴弘は力無くその手を振り払った。
「うるさい! 俺だってどうしようもないんだよ! 会社をクビになるよりマシだろ!」
「そんな……じゃあ、私たちはどうすればいいの? 玲奈だってあてにならないし、このままじゃ破産よ!」
「お義母様」
美也子が静かに、しかしよく通る声で芳江を呼んだ。
「その件ですが、提案があります」
「て、提案?」
「ご実家の土地と建物、売却されてはいかがですか?」
芳江が絶句した。
「な……何を言ってるの? あそこは代々受け継いできた大事な家よ! それに、リフォームしかけたばかりで……」
「リフォーム代が払えないなら、工事は中断されます。中途半端な状態で住むのは危険ですし、何より、お義父様の介護費用と入院費、それに貴弘さんの借金返済を考えれば、あの家を維持するのは不可能です」
FPとしての冷静な診断。
感情論を一切排した、残酷なまでの正論。
「家を売って、郊外の小さな中古マンションか、あるいは公営団地に移れば、手元に現金が残ります。それでお義父様の面倒を見ればいい。……身の丈に合った生活をする。それが一番の解決策です」
「み、身の丈……? 私に、団地に住めと言うの……?」
プライドの高い芳江にとって、それは死刑宣告にも等しい屈辱だっただろう。
しかし、美也子は容赦しなかった。
「お義母様。貴女はいつもおっしゃっていましたよね。『嫁は家の人間として尽くせ』と。でも、その『家』を維持する能力が、貴方たちにはなかった。それだけのことです」
「……っ!」
「私は、貴弘さんと結婚した時、共に歩み、共に支え合うつもりでした。でも、貴方たちが求めたのはパートナーではなく、都合のいいスポンサーと家政婦でした。……残念ですが、私はボランティアではありません」
美也子は手元の書類に目を落とし、署名欄を指差した。
「さあ、貴弘さん。ここにサインを。それで全て終わります」
貴弘は震える手でペンを取り、離婚協議書と公正証書の委任状に署名し、捺印した。
そのペンの音が、彼らの「支配」の終わりを告げる鐘の音のように響いた。
「ありがとうございます。これにて、協議は成立です」
佐伯弁護士が書類を回収し、厳かに宣言した。
美也子は立ち上がった。
バッグを持ち、椅子の背もたれを直す。その所作は最後まで美しく、隙がない。
「では、私はこれで。……ああ、最後に一つだけ」
美也子は出口に向かいかけて、足を止めた。
振り返ると、項垂れる貴弘と、呆然と宙を見つめる芳江がいた。
「貴弘さん。貴方は私に『お前は俺の家に入った人間だ』と言いましたね」
「……」
「家族というのは、誰かの所有物になることではありません。支配し、支配される関係でもありません。信頼し、尊敬し、そして共有するものです。喜びも、悲しみも、そして資産も」
美也子の声は穏やかだったが、その言葉の一つ一つが真理として彼らの胸に突き刺さる。
「家族は“支配”じゃなく“共有”で成り立つんですよ。……貴方には、その資格がなかった。ただそれだけです」
美也子はふわりと微笑んだ。
それは皮肉や嘲笑ではなく、憑き物が落ちたような、純粋で晴れやかな笑顔だった。
「さようなら。お元気で」
美也子は深々と一礼し、踵を返した。
ドアを開けると、法律事務所の廊下の向こうから、明るい光が差し込んでいた。
背後で、芳江の嗚咽と、貴弘のすすり泣く声が微かに聞こえたが、美也子は一度も振り返らなかった。
エレベーターに乗り込み、一階へ降りる。
エントランスを出ると、秋の気配を含んだ風が美也子の髪を優しく撫でた。
空はどこまでも高く、青い。
「……終わった」
美也子は大きく息を吸い込んだ。
肺の中の空気が全て入れ替わったような清々しさだ。
スマートフォンを取り出し、画面を見る。
そこには、「採用通知」のメールが届いていた。
FPとしての実績と、この数ヶ月で見せた事務処理能力が評価され、大手不動産会社の資産コンサルティング部門への採用が決まったのだ。
年収はパート時代の数倍。そして何より、自分自身の力で、自分の人生を切り拓いていく実感がある。
「よし」
美也子は力強く頷き、歩き出した。
ヒールの音が、軽快なリズムを刻む。
一方、法律事務所の応接室。
残された貴弘たちは、地獄の底に突き落とされたような顔で沈黙していた。
これから彼らを待っているのは、慰謝料の支払い、家の売却手続き、義父の介護、そして社会的信用の失墜という過酷な現実だ。
「俺の金」と威張り散らしていた男は、本当の意味での「自分の価値」と向き合わされることになる。
支えてくれていた妻を失った今、彼が一人でどこまで耐えられるのか。それは誰にも分からない。
だが、それはもう、相田美也子という一人の女性の物語には、何の関係もないことだった。
駅前の大通りに出ると、多くの人々が行き交っていた。
その喧騒の中で、美也子はショーウィンドウに映った自分の姿を見た。
背筋が伸び、瞳に力が宿っている。
こんなに生き生きとした自分を見るのは、何年ぶりだろうか。
「今日は、美味しいケーキでも買って帰ろう」
誰のためでもない、自分のために。
自分の稼いだお金で、自分の好きなものを買う。
そんな当たり前の幸せを噛み締めながら、美也子は未来へと続く道を、迷うことなく歩いていった。
その足取りは、どこまでも軽やかだった。




