第三話 傲慢の代償
真夏のような日差しが照りつける七月の午後。相田家のリビングには、重苦しい空気が漂っていた。
エアコンがフル稼働しているにも関わらず、室温以上に湿っぽく、不快な熱気が充満しているように感じるのは、そこにいる人間たちの放つ負の感情のせいだろう。
「……で? 美也子さんは何て言ってるの?」
義母・芳江が、扇子をパタパタと仰ぎながら苛立たしげに問い詰める。
その視線の先には、気まずそうに頭を掻く貴弘がいた。
「いや、だから……パートのシフトがどうしても抜けられないって」
「はあ? 何言ってるのよ。義父が倒れたのよ? 脳梗塞で入院して、これからリハビリも始まるっていうのに。パートなんかより、家のことの方が大事に決まってるじゃない」
芳江の甲高い声が響く。隣に座る義姉・玲奈も、うんうんと大袈裟に頷いた。
「そうよ、たっくん。お父さん、半身麻痺が残るかもしれないんでしょ? お母さん一人じゃ介護なんて無理だし、私だって自分の家のことで手一杯なんだから。美也子さんがやるのが一番合理的じゃない」
「分かってるよ。俺だってそう言ったさ。でも、あいつ最近、妙に頑固でさ……」
貴弘は言い淀んだ。
三日前、義父が自宅で倒れ、緊急入院した。命に別状はなかったが、左半身に麻痺が残り、長期の入院とリハビリ、そして退院後の介護が必要となった。
当然のように、芳江と玲奈は「美也子にパートを辞めさせて、介護に専念させる」という結論を出した。貴弘もそれに同意し、美也子に命令したのだが、返ってきたのは予想外の「拒否」だった。
「だいたいねぇ、嫁の分際で生意気なのよ。貴弘が稼いでるんだから、パートなんて遊びみたいなものでしょ? そんなもの、いつでも辞められるじゃない」
「まあまあ、お袋。俺からもう一度きつく言っておくから」
貴弘が芳江をなだめていると、玄関の鍵が開く音がした。
美也子が帰ってきたのだ。
「ただいま戻りました」
リビングに入ってきた美也子は、喪服のように真っ黒なワンピースを着ていた。手にはビジネスバッグを持っている。
その異様な出立ちに、三人は一瞬言葉を失った。
「あら、遅かったわね。随分と偉そうな格好じゃない」
芳江が嫌味を飛ばすが、美也子は無視してダイニングテーブルの端にバッグを置いた。
そして、三人の前にゆっくりと立つ。その表情は、貴弘が見たこともないほど冷徹で、静かだった。
「お義母様、お義姉様。お揃いでいらしたんですね。ちょうどよかったです」
「何がちょうどいいのよ。あんたねぇ、親父の介護のことなんだけど」
「その件も含めて、お話ししたいことがあります」
美也子の声には、有無を言わせぬ圧力が込められていた。
貴弘は眉を顰める。いつもの従順な妻とは明らかに違う。何かがおかしい。
「座ってください」
「おい美也子、誰に向かって命令してるんだ?」
「座ってください、貴弘さん」
低い、ドスの効いた声。
貴弘は気圧され、思わずソファに座り直した。芳江と玲奈も、毒気を抜かれたように押し黙る。
美也子はテーブルの上に、バッグから取り出した書類の束をドン、と置いた。
一番上に置かれた紙を見て、貴弘の目が点になる。
『離婚届』
緑色の用紙の右側、美也子の欄にはすでに署名と捺印がされている。
「……おい、なんだこれ。ふざけてるのか?」
「ふざけてなんかいません。本気です。貴弘さん、離婚してください」
「はあ!? いきなり何言ってんのよ、この女!」
玲奈が金切り声を上げる。芳江も顔を真っ赤にして立ち上がった。
「あんた、親父が倒れたこのタイミングで離婚!? 正気なの!? 恩知らずにも程があるわよ! 相田家に泥を塗るつもり!?」
「恩? 恩とは何でしょうか。私はこの家に入ってから、ただの一度も『家族』として扱われた覚えはありません。あるのは『搾取』と『労働力の提供』だけでした」
美也子は淡々と告げた。
感情的にならず、まるで事務報告をするかのような口調が、逆に三人の不安を煽る。
「搾取だぁ? 誰のおかげで飯が食えてると思ってるんだ! 俺が養ってやってるんだぞ!」
貴弘が激昂し、テーブルを叩く。
しかし、美也子は怯むどころか、冷ややかな視線を貴弘に突き刺した。
「養っている? ……本当にそう思っていますか?」
「当たり前だろ! お前のパート代なんか微々たるもんだ。俺の稼ぎでお前は生きてこれたんだ!」
「では、事実を確認しましょう」
美也子は書類の束を開き、一枚のシートを貴弘の前に突き出した。
そこには、過去三年間の相田家の収支が、詳細にグラフ化されていた。
「これは……」
「我が家の家計簿の完全版です。貴弘さんの手取り給与、私のパート代、そして支出の内訳。見てください、この赤い部分を」
美也子が指差したのは、「使途不明金」と「義実家関連支出」の項目だ。
その金額は、棒グラフの半分以上を占めていた。
「貴弘さんの給与の約六割は、ご自身の遊興費と、義実家への援助、そしてお義姉様の浪費の補填に消えています。生活費として家計に入っていたのは、残り四割。それに対し、私のパート代は全額、食費と光熱費に充てられていました」
「だ、だから何だ! 俺の金なんだから、どう使おうと勝手だろ!」
「いいえ、勝手ではありません。民法上、婚姻期間中に得た収入は『共有財産』です。貴方が浪費したそのお金の半分は、本来、私の権利であるべきお金なんです」
美也子の言葉に、貴弘は鼻で笑った。
「法律? またその話か。お前みたいな小賢しい女が一番嫌いなんだよ。いいか、離婚したいならすればいい。だがな、お前には一銭も渡さないぞ。路頭に迷うのがオチだ」
「そうね! 身の程知らずの女にはお仕置きが必要よ!」
玲奈が援護射撃をする。
だが、美也子は憐れむような目で貴弘を見た。
「一銭も渡さない……ですか。残念ですが、それは不可能です。むしろ、貴方の方こそ、一銭も残らないかもしれませんよ」
「あ?」
「貴弘さん。貴方、隠し口座持ってますよね? ○○銀行の」
その瞬間、貴弘の顔から血の気が引いた。
「な……なんで、それを……」
「結婚前から持っていた口座ですよね。そこに、会社の経費を不正にプールしていたことも知っています。毎月五万から十万。ボーナス月には三十万」
「ば、馬鹿な! 妄想だ!」
「証拠はあります。通帳のコピーも、入出金の記録も、全てここに」
美也子は次の資料を提示した。通帳の写しだ。
貴弘の手が震え始める。
「そして、その口座の残高、もうほとんどないですよね? ギャンブルとキャバクラ、そして最近始めたFXでの損失で」
「う、うるさい! お前に関係ないだろ!」
「大いにあります。貴方はその損失を埋めるために、共有財産である定期預金を解約し、さらにカードローンにも手を出していますね。これは『悪意の遺棄』に近い、共有財産の侵害です」
美也子は畳み掛ける。
彼女の口から次々と飛び出す事実は、貴弘が必死に隠してきた恥部そのものだった。
芳江と玲奈は、訳がわからずおろおろしている。
「ちょっと、貴弘! どういうことなの!? 隠し口座って! 借金って!」
「ち、違うんだお袋! これは……!」
「さらに」
美也子は容赦無く続ける。
「お義姉様。貴女に渡ったバッグや貴金属、そしてお子様の学費。これらも全て記録してあります。貴弘さんのポケットマネーだと思っていたようですが、これらは家計から捻出されたものです。法的には『不当利得』として返還請求の対象になり得ます」
「はあ!? もらったものを返せって言うの!? 泥棒扱いしないでよ!」
「泥棒? ……ええ、人の家の共有財産を勝手に持ち出す行為は、泥棒と変わりませんね」
美也子がニッコリと笑う。その笑顔の恐ろしさに、玲奈はヒッと息を呑んだ。
「さて、本題に戻りましょう。お義父様の介護費用の件です」
「……」
「現在、我が家の貯蓄残高は、ほぼゼロです。貴弘さんの隠し口座も空。カードローンの枠も限界に近い。つまり、お義父様の入院費も、リフォームの残金も、払えるお金はどこにもありません」
その事実に、芳江が崩れ落ちそうになった。
「う、嘘よ……。貴弘、嘘だと言ってちょうだい! あんた、お金はあるって……」
「……」
「貴弘!」
「うるせえ!!」
貴弘が絶叫し、頭を抱えた。
その姿が、全ての答えだった。
「そんな……じゃあ、リフォームの代金は? 入院費は? 誰が払うのよ!?」
「それは、ご実家でなんとかしていただくしかありません。少なくとも、私たち夫婦の財布からは一円も出ません。なぜなら、無いからです」
美也子は冷酷に事実を突きつけた。
「私が仕事を辞めて介護? とんでもない。私が仕事を辞めたら、明日の食事にも困る状況なんですよ? 貴弘さんの見栄と、お義母様たちの集りに、我が家は食いつぶされたんです」
「……っ、お前……!」
貴弘が充血した目で美也子を睨みつける。
「お前が家計管理してただろ! なんで止めなかった!」
「止めましたよ。何度も。でも貴方は言いましたよね? 『俺の金だ』『お前は黙って従え』『足りない頭で考えるな』と」
美也子はスマートフォンを取り出し、再生ボタンを押した。
『お前は、俺の家に入ったんだ。俺の金で俺の家族を助けて何が悪い』
『お前みたいなパート主婦とは稼ぐ桁が違うんだよ』
貴弘の傲慢な声が、リビングに響き渡る。
自分の声を聞かされ、貴弘は顔面蒼白になった。
「この録音データは、他にもたくさんあります。モラハラ、経済的DVの証拠として、弁護士にも提出済みです」
「べ、弁護士……?」
「はい。今回の離婚は、協議でまとまらなければ調停、裁判まで徹底的にやります。慰謝料請求もさせていただきます。財産分与に関しては、貴方が浪費した分を『持ち戻し計算』し、私の取り分を確保します」
美也子は立ち上がり、三人を睥睨した。
かつて見下していた「従順な嫁」は、今は巨大な壁となって彼らの前に立ちはだかっていた。
「待って……待ってちょうだい、美也子さん」
芳江が縋るように声を上げた。
「離婚なんて、世間体が悪いわ。それに、貴弘だって反省してるはずよ。ねえ、やり直しましょう? 私も手伝うから……」
「手伝う? 何をですか? 借金の返済をですか?」
「そ、それは……」
「お義母様。貴女は私に言いましたよね。『女は男を立てて、陰で支えるのが美徳』だと。私はその通りにしました。貴弘さんのプライドを傷つけないよう、彼の浪費を黙って見過ごし、破滅するまで支えて差し上げました。満足でしょう?」
皮肉たっぷりの言葉に、芳江は言葉を詰まらせた。
「ふざけるな……!」
貴弘が立ち上がり、美也子に掴みかかろうとした。
だが、美也子は一歩も引かず、鋭い眼光で彼を射抜いた。
「触らないでください。暴力を振るえば、さらに慰謝料が増えるだけですよ。それに、会社にも居られなくなりますよ?」
「なっ……」
「貴弘さん、会社の経費の不正流用。あれ、バレたら懲戒解雇ですよね? 私、その証拠も持っています。もし私がその気になれば、匿名で会社に通報することも可能です」
それは、トドメの一撃だった。
貴弘の膝から力が抜け、ドサリと床にへたり込んだ。
会社のエース、将来有望な男。その地位が、実は砂上の楼閣であり、妻の手のひらの上で転がされていたに過ぎなかったことを、彼はようやく理解したのだ。
「あ……ああ……」
「脅しではありません。事実を申し上げているだけです。円満に離婚に応じていただけるなら、この件は私の胸にしまっておきます。ですが、ゴネるようなら……分かりますよね?」
美也子はニッコリと微笑んだ。
その笑顔は、かつて彼が愛した優しい妻のものではなく、彼を裁く女神の、慈悲のない微笑みだった。
「お義姉様も、お気をつけください。旦那様にこの事実が知れたら、どうなるでしょうね? 『弟の嫁をいびり倒し、弟の金を搾取してブランド品を買い漁っていた妻』なんて」
「ひっ……!」
玲奈は顔を覆って震え出した。彼女の夫は堅物で通っている。こんなことがバレれば、彼女もまた離婚を突きつけられるだろう。
リビングは静寂に包まれた。
聞こえるのは、エアコンの駆動音と、貴弘の荒い息遣いだけ。
美也子は時計を見た。
「さて、そろそろ時間ですね」
「じ、時間……?」
「ええ。今日はこれから、FPとしての仕事の面接があるんです。正社員の。離婚後の生活基盤を作らなければなりませんから」
美也子はバッグを持ち上げ、背筋を伸ばした。
「離婚届は置いておきます。記入して、一週間以内に私の弁護士宛に郵送してください。それがなければ、調停の申し立てを行います」
美也子は踵を返し、玄関へと向かった。
背後から、芳江の泣き叫ぶ声と、貴弘の呻き声が聞こえてきたが、美也子は一度も振り返らなかった。
マンションのエントランスを出ると、夏の強い日差しが美也子を照らした。
眩しさに目を細めるが、その視界はこれ以上ないほどクリアだった。
「……終わった」
いや、正確にはまだ終わっていない。手続きはこれからだ。
だが、精神的な呪縛からは完全に解放された。
「お前は俺の家に入ったんだ」という呪いの言葉は、もはや何の意味も持たない。
彼女は自分の足で立ち、自分の人生を歩み始めたのだ。
美也子はスマートフォンを取り出し、とある番号に電話をかけた。
「あ、もしもし。〇〇法律事務所ですか? ……はい、相田です。先ほど夫に条件を提示してきました。……ええ、おそらく全面的に降伏すると思います。……はい、よろしくお願いします」
通話を終え、美也子は大きく伸びをした。
空は青く、雲は白い。
世界はこんなにも広かったのかと、改めて思う。
これから始まるのは、本当の意味での「清算」だ。
夫から、義実家から、奪われたものを全て取り戻す。
金銭だけでなく、自尊心も、未来も。
美也子はカツカツとヒールの音を響かせ、駅へと歩き出した。
その足取りは軽く、希望に満ちていた。
一方、背後のマンションの一室では、地獄のような家族会議が始まろうとしていた。
「誰が金を払うんだ」「お前が悪い」「母さんが甘やかしたからだ」
醜い責任の押し付け合い。それが、彼らが選んだ「家族の形」の末路だった。
美也子にはもう、関係のない話だ。
彼女は二度と、あの薄暗い「家」には戻らない。
彼女の前には、光り輝く自分の人生だけが広がっているのだから。




