第二話 水面下の帳簿(レジャー)
季節は巡り、街路樹の緑が濃さを増す初夏となっていた。
あの嵐の夜から数ヶ月。相田家の空気は、表面上は穏やかに、しかしその内実は大きく歪んだまま流れていた。
休日の昼下がり。リビングのソファでは、義姉の小野寺玲奈が我が物顔で寝そべり、テレビのワイドショーを眺めながらポテトチップスを摘んでいる。床には食べこぼしが散らばり、テーブルの上には飲みかけのペットボトルや雑誌が乱雑に置かれていた。
「あーあ、この女優も不倫か。バカねぇ、バレなきゃいいのに」
玲奈は画面に向かって独り言を呟くと、キッチンに立つ美也子に向かって声を張り上げた。
「ねえ美也子さーん、喉乾いたんだけど。コーラないの?」
「すみません、切らしてます。麦茶ならありますけど」
「えー、麦茶ぁ? 気が利かないなぁ。貴弘の稼ぎで暮らしてるんだから、それくらい常備しといてよ。あ、あとこのポテチもう一袋開けて」
美也子はシンクの水音を止め、手についた泡をタオルで拭き取ると、静かにリビングへと向かった。
以前の彼女なら、「少しは自分でやってください」と心の中で毒づき、不満げな表情の一つも見せていただろう。だが、今の美也子は違った。
「分かりました。すぐにお持ちしますね。コーラは今度買っておきます」
柔和な笑みを浮かべ、少しも嫌な顔を見せずに新しいポテトチップスの袋を開けて差し出す。
その従順な態度に、玲奈は鼻を鳴らして満足げに笑った。
「うん、それでいいのよ。美也子さん、最近やっと『嫁』らしくなってきたじゃない。前はいちいち細かいことに目くじら立てて、可愛げなかったもんねぇ」
「はい、お義姉さんのおっしゃる通りです。私は世間知らずでしたから」
美也子は殊勝に頭を下げる。
その視線は、玲奈の足元に置かれた真新しいブランドもののバッグに注がれていた。
セリーヌの新作。定価はおよそ三十五万円。
先週、貴弘が「接待で遅くなる」と言って帰宅が深夜になった日、彼のカード利用通知メールに高額決済の知らせが届いていたのと一致する。
(セリーヌのラゲージ、ナノサイズ。カラーはデューン。購入日は五月二十日……)
美也子の脳内で、カシャリとシャッターが切られる音がした。
彼女は笑顔のままキッチンに戻ると、エプロンのポケットからスマートフォンを取り出した。そして、音声入力ができないため、フリック入力で素早くメモを取る。
『5/20 夫カード決済 385,000円(推定)→義姉・玲奈のバッグ現物確認。贈与認定』
送信ボタンを押すと、そのデータは即座にクラウド上のスプレッドシートへと反映される。
そこにはすでに、膨大な数の行が刻まれていた。
義姉の子供の入学祝いで消えた十万円、義実家のリフォーム着手金として振り込まれた二百万円、そして玲奈が遊びに来るたびにねだる「ちょっとした買い物」の数々。
美也子は、この数ヶ月間、完璧に「思考停止した妻」を演じ続けていた。
家計簿をつけることを放棄し、「私には難しいことは分かりませんから、貴弘さんにお任せします」と宣言したのだ。
通帳も印鑑も、形式上は貴弘に渡した。
それによって得られたのは、夫と義家族からの「油断」という最大の武器だった。
夜になり、貴弘がゴルフから帰ってきた。
日焼けした顔に上機嫌な笑みを浮かべ、泥のついたゴルフバッグを玄関にドカッと置く。
「ただいまー。いやあ、今日は調子良かったぞ! スコア九十切った!」
「お帰りなさい。それは凄いです。お疲れ様でした」
「おう。あ、姉さん来てたのか」
「たっくん、お帰り! ねえ見て見て、この前のバッグ、友達に超褒められちゃった!」
玲奈が子犬のように貴弘に駆け寄る。貴弘は満更でもなさそうに鼻の下を伸ばし、「そうかそうか、似合ってるぞ」と姉の頭を撫でた。
その光景は、側から見れば仲の良い姉弟かもしれない。しかし、その「仲の良さ」の代償を払わされているのが誰かを考えれば、吐き気を催す光景だった。
「美也子、ビール! あとつまみ!」
「はい」
美也子は冷蔵庫からビールを取り出しながら、貴弘の脱ぎ捨てたポロシャツを拾い上げた。
ポケットに、ふわりと膨らみがある。
美也子はリビングから死角になる洗濯機の前に移動すると、素早い手つきでポケットの中身を取り出した。
くしゃくしゃになったレシートの束と、ゴルフ場のスコアカード。そして、見慣れない領収書が一枚。
『クラブ・アフロディーテ 御飲食代 ¥86,000』
日付は昨日の夜。
「残業で会社に泊まる」と言っていた日だ。
美也子の目が冷ややかに光る。
残業と言いつつ、キャバクラで豪遊。しかも八万六千円。
今の相田家には、そんな余裕などどこにもないはずだ。美也子が節約のために百円の特売卵を買いに走っている間に、夫は一晩でその八百六十倍もの金を酒と女に使ったのだ。
(……馬鹿な人)
怒りよりも先に、哀れみが湧いてくる。
美也子はその領収書をスマートフォンのカメラで撮影し、元のポケットに丁寧に戻した。
そして、何食わぬ顔でリビングへと戻る。
「はい、ビールです」
「おう、遅いぞ」
貴弘は不機嫌そうにグラスを受け取ると、一気に煽った。
「ぷはーっ! やっぱ運動の後のビールは最高だな! ……おい美也子、来週の土曜あけとけよ」
「何かあるんですか?」
「お袋が、リフォームの打ち合わせに来てくれってさ。壁紙の色とか、お前の意見も聞いてやりたいらしい」
「……分かりました。お義母様のご希望に合わせます」
「あと、その日の夜、親父の還暦祝いで寿司取るから。もちろん、支払いは俺持ちな」
貴弘が大見得を切るように胸を叩く。
その横で玲奈が「やったー! 特上にしてよね!」とはしゃぐ。
美也子の胸の内で、冷たい計算機が回る。
特上の寿司、五人前。お酒も含めれば三万円は下らない。
リフォームの追加費用も発生するかもしれない。
今のメインバンクの残高は、先日の学費援助とリフォーム着手金で危険水域に達しているはずだ。貴弘は一体、どこからその金を捻出するつもりなのか。
「貴弘さん、そんなに使って大丈夫なんですか? 今月の引き落とし……」
「あー、うるさいな! お前は金のこと心配すんなって言ってるだろ!」
貴弘が声を荒げる。
玲奈も「そうよ美也子さん、男の人が気前よく振る舞ってるのに水差さないの」と口を尖らせる。
「俺には俺のやり方があるんだよ。お前みたいなパート主婦のちまちました計算とは違う、ダイナミックな金の回し方ってのがな」
「……ダイナミック、ですか」
「そうだ。俺は将来出世する男だぞ? 今の投資が将来何倍にもなって返ってくるんだ。お前は黙って、俺に尽くしてればいいんだよ」
貴弘は得意げに笑い、玲奈とハイタッチを交わした。
美也子は静かに目を伏せ、「申し訳ありません」と謝罪した。
だが、その心の中では、別の言葉が渦巻いていた。
(ダイナミックな金の回し方……。ええ、確かにそうですね。破滅に向かってダイナミックに転がり落ちているという意味では)
美也子には分かっていた。
貴弘が言う「やり方」の正体を。
それは、魔法でも錬金術でもない。
単なる「リボ払い」と「カードローンの自転車操業」、そしてまだ美也子が掴みきれていない「隠し財産」の切り崩しだ。
翌日、美也子は貴弘が出勤し、玲奈が帰った後の静かな家で、本格的な調査を開始した。
「掃除をする」という名目で、貴弘の書斎に入る。
以前は「勝手に入るな」と怒鳴られていた聖域だが、最近の貴弘は美也子を完全に舐めきっているため、鍵をかけることすら忘れていた。
机の上は書類が散乱している。
美也子は手袋をはめ、指紋を残さないように慎重に書類を仕分けしていく。
給与明細、確定拠出年金の通知、保険の証券。
これらはすでに把握済みだ。
美也子が探しているのは、もっと深い闇。
貴弘が「俺の金」と豪語する根拠となっている、簿外の資産、あるいは負債の尻尾だ。
引き出しの奥、古い参考書の下に、一冊の通帳が隠されていた。
地方銀行の古い通帳。表紙には貴弘の旧姓が書かれている。
開いてみると、そこには驚くべき記録があった。
毎月、五万円から十万円の入金。
そして、ボーナス月には三十万円の入金。
送金元は、貴弘の給与振込口座とは別の、「株式会社○○商事・経費精算」という名義。そして時折、「ATM入金」という名目でまとまった現金が入っている。
(これは……空出張のカラ手当? それとも接待費の水増し請求分?)
詳細は不明だが、貴弘が会社の経費を不正に、あるいはグレーゾーンな方法で個人の懐に入れている可能性が高い。
そして、その残高は、結婚当初には五百万円ほどあったものが、この一年で急激に減り、現在は百万円を切っていた。
「……なるほど。これが『俺の金』の正体」
独身時代の貯金と、会社の経費をごまかして貯めた裏金。
それを、彼は「自分の実力で稼いだ金」と勘違いし、湯水のように使っていたのだ。
だが、その底はもう見えている。
このペースで浪費を続ければ、あと数ヶ月でこの隠し口座は空になる。その後はどうするつもりなのか。カードローンか、消費者金融か。
美也子は通帳の全ページを撮影し、元の場所に戻した。
さらに、机の下のゴミ箱から、シュレッダーにかけずに捨てられたカードローンのDMを見つけた。
『相田様、増枠のお知らせ。今なら金利〇〇%!』
封が開けられている。つまり、貴弘はこれに興味を持ち、すでに手を付け始めている可能性がある。
(完全に、多重債務者の入り口に立っている)
FPとして数々の家計相談を受けてきた美也子には、未来が見えるようだった。
見栄のために身の丈に合わない出費を重ね、家族(という名の寄生虫)にいい顔をし、妻の忠告を無視して突き進む男の末路。
作業を終えた美也子は、リビングに戻り、パソコンを開いた。
クラウド上の「裏家計簿」に、新たなデータを入力する。
隠し口座の残高推移、使途不明金の総額、カードローンの利用枠。
画面上のグラフは、恐ろしい角度で右肩下がりの曲線を描いていた。
「……計算完了」
美也子は小さく呟いた。
現在の相田家の「純資産」は、かろうじてプラスを保っている。
まだ、間に合う。
今ここで離婚し、財産分与を請求すれば、美也子が独身時代から守ってきた資産と、婚姻期間中に築いた正当な共有財産の半分は取り戻せる。
だが、もう少しだけ泳がせれば、貴弘の有責性をより確実に証明できる証拠が集まる。
特に、あのキャバクラの領収書や、玲奈への過剰な贈与は、財産分与の際に「共有財産の浪費」として考慮させることができるはずだ。
その時、玄関のチャイムが鳴った。
モニターを見ると、義母の芳江が立っていた。
約束もなしに突然の訪問。以前なら胃が痛くなるところだが、今の美也子は動じない。
「はい、ただいま開けます」
ドアを開けると、芳江は大きな紙袋を提げて立っていた。
「あら美也子さん、いたのね。ちょうどよかったわ」
「お義母様、いらっしゃいませ。どうされたんですか?」
「これ、親戚から大量に野菜が送られてきたから、お裾分けよ。泥付きだから、ちゃんと洗って使いなさいね」
芳江はドサリと重い紙袋を玄関のタタキに置いた。
中からは土のついた大根やネギが覗いている。
「ありがとうございます。助かります」
「あとね、ちょっと上がらせてもらうわよ。貴弘のシャツ、アイロンのかけ方が甘いって言ってたから、私が手本を見せてあげるわ」
「……そうですか。すみません、至らなくて」
芳江はズカズカと上がり込み、リビングのソファに腰を下ろした。
そして、部屋を見回して鼻を鳴らす。
「ちょっと埃っぽいんじゃない? 専業主婦みたいなものなんだから、掃除くらい完璧にしなさいよ」
「申し訳ありません。パートのシフトが増えてしまって……」
「パートなんて辞めればいいのに。貴弘が稼いでるんだから、あなたは家のことに専念するのが一番の貢献よ。……あ、そうそう。リフォームのことなんだけどね」
芳江はお茶を一口啜ると、悪びれもせずに言った。
「やっぱりキッチン、もっとグレードの高いものにしたいのよ。ショールームで見たら、ドイツ製の食洗機がついたやつが素敵でねぇ」
「はあ……」
「見積もりが百万円ほど上がるけど、貴弘に言ったら『お袋の好きにしろ』って言ってくれたわ。あなたも異存ないわよね?」
百万円の追加。
もはや笑いが出そうになるのを堪え、美也子は能面のような表情で頷いた。
「夫が良いと言うなら、私が口を挟むことではありません」
「そうよ、その心がけが大事なの。……ふん、少しはマシな嫁になったみたいね」
芳江は満足そうに頷き、そこから一時間、延々と嫁としての心得や、自分の若い頃の苦労話を説教し続けた。
美也子はその間、直立不動でそれを聞きながら、心の中で別の作業をしていた。
芳江の発言の要所要所を記憶し、後で日記に書き起こすためのメモを脳内で作成していたのだ。
『嫁は家政婦代わり』『金は息子が出すから嫁は口出しするな』『介護は嫁の務め』
これらの発言は、将来の離婚調停や、あるいは慰謝料請求の際に、義実家との関係性の破綻を示す重要な証拠になり得る。
ポケットの中のスマートフォンは、録音アプリが静かに作動し続けている。
「……というわけでね、来週の還暦祝い、粗相のないように頼むわよ。親戚も来るんだから、恥をかかせないでちょうだい」
「はい、承知いたしました」
ようやく芳江が帰った後、美也子はどっと疲れが出た。
しかし、その疲れは以前のような絶望感を伴うものではない。
マラソンランナーがゴールを見据えて走る時の、心地よい疲労感に近い。
夜、美也子は誰もいないキッチンで、家計簿の集計を行なっていた。
貴弘が寝静まった深夜二時。
画面上の数字が、残酷な真実を告げている。
今月の赤字、二十五万円。
補填源、貴弘の隠し口座およびカードローン。
そして、義実家への流出額、累計三百五十万円突破。
「……そろそろ、潮時ね」
美也子は呟いた。
これ以上、共有財産が目減りするのは美也子にとっても不利益だ。
証拠は揃った。
夫のモラハラ発言の録音データ、十時間分。
義姉への不当な贈与のリスト、写真付き。
隠し口座と使途不明金の詳細な記録。
そして、義母からの過干渉と支配的な言動の記録。
美也子はUSBメモリをパソコンに差し込み、全てのデータをバックアップした。
その小さなスティックを握りしめると、冷たかった指先に熱が戻ってくるのを感じた。
寝室から、貴弘のいびきが聞こえてくる。
何も知らず、王様のつもりで眠る男。
彼は明日もまた、「お前は俺の家の人間だ」と偉そうに命令するだろう。
だが、その言葉を聞くのも、もうあと少しだ。
「貴弘さん……精一杯、いい夢を見ていてくださいね」
美也子は暗闇の中で、静かに微笑んだ。
その笑顔は、かつての夫を愛していた頃の柔らかいものではなく、獲物を追い詰めた狩人のような、鋭く美しいものだった。
翌朝。
朝食のテーブルで、貴弘が新聞を読みながら言った。
「おい美也子、醤油」
「はい」
「……お前、最近なんか変わったな」
ドキリとしたが、美也子は表情を崩さずに首を傾げた。
「そうですか? 何も変わっていませんよ」
「いや、なんかこう……妙に落ち着いてるというか。まあいいや、以前より従順になったのはいいことだ。女は愛嬌と忍耐だからな」
「……ええ、忍耐は、たくさん学ばせていただきました」
美也子は深々と頭を下げた。
その言葉の真意に、貴弘が気づくはずもない。
「あ、そうだ。これ、小遣い追加してくれよ。昨日の飲み代でなくなっちまった」
貴弘が空の財布をテーブルに投げる。
美也子はそれを拾い上げ、中身を確認するふりをして、ニッコリと笑った。
「分かりました。……でも貴弘さん、一つだけ言っておきますね」
「あ?」
「お金は、湧いてくるものではありません。誰かが管理して、守っているから、使えるんですよ」
「チッ、また説教かよ。お前は何も考えなくていいって言ってるだろ。俺が稼いでるんだから、俺が管理してるも同然なんだよ」
その言葉。
待っていました、と言わんばかりに、美也子のポケットの中で録音アプリが時間を刻む。
「お前は何も考えなくていい」。
それは、夫が妻の思考と自立を否定し、経済的DVを正当化した決定的な証言だ。
「分かりました。私はもう、何も考えません」
美也子は財布に、自分のヘソクリから一万円札を一枚入れて返した。
これが、最後の手切れ金だ。
来月、この家には嵐が吹く。
それは雨風ではなく、赤い紙(離婚届)と白い紙(内容証明郵便)が舞い散る、法と数字の嵐だ。
貴弘が出勤していく背中を見送りながら、美也子はカレンダーの来月の日付に、赤いペンで大きく花丸をつけた。
その日は、義父の入院手術の予定日であり、そして美也子が反撃の狼煙を上げる、運命の日(Xデー)だった。




