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「お前は俺の家の人間だ」と嘲笑う夫へ。静かなる妻が突きつける、愛と資産の完全清算報告書  作者: jnkjnk


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第一話 支配という名の「家族愛」

リビングの壁に掛けられた時計の針が、午後九時を回ろうとしていた。

窓の外では冷たい雨がシトシトと降り続いており、時折吹き付ける風が窓ガラスをガタガタと揺らす。その無機質な音だけが、静まり返ったマンションの一室に響いていた。


ダイニングテーブルの上には、丁寧に作られた夕食が並んでいる。

豚肉の生姜焼き、ほうれん草の胡麻和え、出汁巻き卵、そして具沢山の味噌汁。どれも夫である相田貴弘の好物だ。冷めてしまわないようにラップがかけられているが、その表面にはうっすらと水滴がつき始めていた。


相田美也子は、キッチンカウンターの椅子に浅く腰掛け、スマートフォンで家計簿アプリの画面を眺めていた。

画面に並ぶ数字は、決して余裕があるとは言えない我が家の経済状況を如実に示している。


「……今月も、ギリギリか」


美也子の口から、小さなため息が漏れた。

かつては中堅の会計事務所で働き、ファイナンシャルプランナー(FP)の資格も持つ美也子にとって、数字の管理は呼吸をするように自然な行為だ。独身時代は、顧客のライフプランに合わせた資産形成の提案を行い、それなりに評価もされていた。

しかし、結婚を機に状況は一変した。

「俺の妻が外でガツガツ働くなんて恥ずかしい」「家を守るのが女の仕事だ」という貴弘の強い要望により、美也子は正社員の職を辞し、現在は近所のスーパーで扶養内のパート勤務をしている。

世帯年収は下がったが、貴弘は商社の営業職で、同年代の平均よりは高い給与を得ている。本来ならば、将来のために十分な貯蓄ができるはずだった。

あくまで、本来ならば。


ガチャリ、と玄関の鍵が開く音がした。

美也子は弾かれたようにスマートフォンを伏せ、立ち上がった。表情筋を意識的に動かし、「従順で優しい妻」の仮面を被る。


「ただいまー。いやあ、降られた降られた」

「お帰りなさい、貴弘さん。大変でしたね。タオル、すぐに用意します」


廊下から現れた貴弘は、濡れたスーツの上着を無造作にソファへ放り投げた。美也子はそれを黙って拾い上げ、ハンガーにかける。

貴弘は三十四歳。営業のエースとして活躍しているだけあって、容姿は整っているし、外面もいい。しかし、家の中での彼は、王様のように振る舞うのが常だった。


「飯、すぐにしてくれ。腹減った」

「はい、温め直しますね。着替えている間に用意します」


手際よく食事を並べ直しながら、美也子は貴弘の機嫌を窺った。今日はやけに機嫌が良いようだ。鼻歌交じりに着替えを済ませた貴弘が、ダイニングテーブルにつく。

ビールを一口飲み、満足げに息を吐く夫を見ながら、美也子も向かいの席に座った。


「あのね、貴弘さん。今月の生活費のことなんだけど……」


美也子が切り出すと、貴弘の手がピタリと止まった。機嫌の良かった顔に、露骨な不快感が浮かぶ。


「食事中に金の話かよ。せっかく美味い飯が不味くなる」

「ごめんなさい。でも、大事なことなの。先月、光熱費が上がったのと、貴弘さんのゴルフコンペの費用が重なって、貯蓄に回す分が少し足りなくなりそうなの」

「足りないなら、お前のパート代から出せばいいだろ」

「私のパート代は、全額食費と雑費に充てています。それに、将来のための積立には手を付けたくなくて」

「チッ……細かいなあ、相変わらず」


貴弘は舌打ちをして、生姜焼きを口に運んだ。

咀嚼音を響かせながら、彼はまるで取るに足らないことのように言い放った。


「そういえば、俺からも話があるんだ。ちょうどよかった」

「え? 何ですか?」

「姉貴のことだよ。玲奈姉さん」


義姉の名前が出た瞬間、美也子の背筋に冷たいものが走った。

小野寺玲奈。既婚者だが、実家である相田家に頻繁に入り浸り、何かと弟である貴弘に甘えてくる人物だ。

彼女が話題に出る時、ろくなことになった試しがない。


「姉さんのところの翔太、来年中学だろ? 私立に行かせたいらしいんだが、旦那の稼ぎじゃ心許ないらしくてな」

「……ええ、そうみたいですね」

「だから、俺が入学金と当面の学費を援助することにした」


美也子は、自分の耳を疑った。

箸を持ったまま、呆然と夫の顔を見つめる。


「え……援助って、いくら?」

「とりあえず、入学金と初年度の授業料で百五十万くらいか。あとは制服代とか諸々含めて、二百万見ておけばいいだろ」

「に、二百万!? そんな大金、どこから出すつもりですか?」

「どこからって、俺のボーナスが入ったばかりだろ。定期預金もあるし」


あまりに悪びれもしないその態度に、美也子の頭の中で警鐘が鳴り響く。

二百万円。それは、美也子が日々の食費を切り詰め、特売日にスーパーを走り回り、自分自身の化粧品や服さえ我慢して、数年がかりで積み上げてきた「将来のための防衛資金」の一部だ。

それを、相談もなく。しかも、自分たちの子供のためですらなく、義姉の子供のために。


「待ってください。それはおかしいです。二百万なんて大金、私たちにとっても大切なお金です。それに、お義姉さんには旦那様もいらっしゃいますよね? なぜ弟である貴弘さんがそこまで負担しなければならないんですか?」


美也子は精一杯の抗議をした。声が震えないように必死で腹に力を入れる。

しかし、貴弘は心底不思議そうな顔で首を傾げた。


「水臭いこと言うなよ。困った時はお互い様だろ。姉さんは俺の家族なんだぞ」

「家族だからって、限度があります! 私たちが家を買うための頭金はどうするんですか? もし子供ができたら? そのための貯蓄じゃないですか」

「そんなもん、また稼げばいいだろ。俺は営業のエースだぞ? お前みたいなパート主婦とは稼ぐ桁が違うんだよ」


カチン、と何かが切れる音がした。

美也子は拳を握りしめ、言い返そうとした。だが、貴弘はそれを遮るように、さらに信じられない言葉を続けた。


「それとな、実家のリフォームの話も進めてきたから」

「……はい?」

「お袋が、最近キッチンの使い勝手が悪いってぼやいてただろ。あと風呂場も寒いし、手すりをつけたいって。親父も還暦過ぎたし、バリアフリー化も含めて全面的に直すことにした」

「そ、それって……費用は……」

「見積もりで五百万くらいだったかな。まあ、親孝行だと思えば安いもんだ」


五百万。

さきほどの二百万と合わせて、七百万。

現在、相田家の貯蓄総額は一千万円弱。その七割が一瞬にして消え失せる計算になる。

美也子の目の前が真っ暗になった。それは単なる数字の増減ではない。美也子がこの三年間、貴弘の理不尽な要求や家事ハラスメントに耐え、必死に守り抜いてきた「安心」そのものが、強奪されようとしているのだ。


「ダメ……絶対ダメです」

「あ?」

「七百万なんて、絶対に無理です! うちの貯金がほとんどなくなってしまいます! どうして私に一言の相談もなく決めてしまうんですか!? 私だってこの家の家計を管理している人間です!」


美也子は立ち上がり、叫んでいた。

いつも穏やかで、何を言っても「はい」と頷く人形のような妻が、初めて見せた激昂。

しかし、貴弘の反応は、美也子が期待したような「反省」でも「動揺」でもなかった。


彼は、ゆっくりと箸を置き、ビールを飲み干すと、冷ややかな目で美也子を見上げた。

その瞳には、侮蔑と、圧倒的な優越感が宿っていた。


「おい、美也子。勘違いするなよ」

「……っ」

「誰の金で飯が食えてると思ってるんだ? お前のそのパート代の小銭で、このマンションの家賃が払えるのか? 俺が汗水垂らして稼いだ金だ。俺がどう使おうと、俺の勝手だろ」

「でも……夫婦の財産は共有のもので……法律的にも……」

「法律? 家の中で法律の話なんか持ち出すなよ、可愛げのない。いいか、よく聞け」


貴弘は立ち上がり、美也子に一歩近づいた。威圧的な空気が美也子を包み込む。

彼は美也子の肩に手を置き、顔を覗き込むようにして、低く、ドス黒い声で言った。


「お前は、俺の家に入ったんだ」


その言葉は、鋭利な刃物のように美也子の心臓を貫いた。


「俺の籍に入り、俺の稼ぎで暮らし、俺の親や姉弟と親戚になった。つまり、お前は『相田家の人間』として、俺たちに尽くすのが当たり前なんだよ。嫁に来たっていうのは、そういうことだ」

「…………」

「姉さんが困ってるなら助ける。親が不便してるなら直す。それが長男である俺の務めであり、その妻であるお前の務めだ。お前は黙って、俺の言う通りに家を守っていればいいんだよ。金のことなんて難しいことは、お前の足りない頭で考えなくていい」


貴弘はそう言って、嘲笑うように美也子の頬を軽く叩いた。

ペチ、ペチ、という乾いた音が、屈辱となって美也子の内側に降り積もる。


その時、リビングの電話が鳴った。

貴弘は「お、お袋からだな」と言って、上機嫌で受話器を取った。


「もしもし、お袋? ああ、今帰ったとこ。……うん、美也子にも話したよ。……ははは、喜んでるよ、もちろん。『お義姉さんのためなら当然です』ってさ。……ああ、代わる? 待って」


貴弘はニヤニヤしながら、受話器を美也子に差し出した。

美也子は震える手でそれを受け取った。


『もしもし、美也子さん?』


義母・芳江の声だ。猫なで声だが、その奥には隠しきれない棘がある。


『貴弘から聞いたわよぉ。玲奈のところの学費と、うちのリフォーム代、出してくれるんですってねぇ。本当にありがとうねぇ』

「……お義母さん、その件ですが、まだ私たちも話し合いが……」

『あら? 何か不満でもあるの?』


芳江の声色が、一瞬にして低くなる。


『まさかとは思うけど、貴弘の顔に泥を塗るようなことは言わないわよね? ああいう立派な息子を持った私の誇りなんだから。嫁のあなたが足を引っ張ってどうするの。それにね、女は男を立てて、陰で支えるのが美徳なのよ。私もそうやって、この家を守ってきたんだから』

「でも、金額が……」

『お金なんて、貴弘ならすぐ稼げるわよ。あなたは何も心配せず、貴弘と、相田家のために尽くせばいいの。それがあなたの幸せでしょう? ……まさか、自分だけ贅沢したいなんて思ってるんじゃないでしょうね?』

「…………」

『玲奈も喜んでるわ。「美也子さんは気が利く良いお嫁さんね」って褒めてたわよ。期待してるから、頼んだわよ』


一方的にまくし立てられ、通話は切れた。

ツーツーという電子音が、美也子の耳元で虚しく響く。


貴弘は満足げにビールのおかわりを冷蔵庫から取り出し、「じゃ、明日銀行に行って手続きしてくるから、通帳と印鑑出しといてくれよ」と言い捨てて、シャワーを浴びるために洗面所へと消えていった。


リビングに、美也子だけが取り残された。

雨の音は、先ほどよりも強くなっている気がした。


美也子はゆっくりと椅子に座り込んだ。

体中の力が抜け、指先が冷たくなっていくのを感じる。

悲しい、という感情は不思議となかった。悔しい、という感情さえも、どこか遠くにあるように感じられた。

ただ、心の中にあった「何か」が、音を立てて崩れ落ちていく感覚だけが鮮明だった。


それは、夫への情であり、家族としての信頼であり、いつか分かり合えるかもしれないという淡い期待だった。

「お前は俺の家に入ったんだ」

「お前の足りない頭で考えなくていい」


貴弘の言葉が、リフレインする。

彼は美也子を、人生のパートナーとして見ていない。ただの「所有物」、あるいは「便利な機能がついた家政婦」としか認識していないのだ。そして義母たちも、美也子を「相田家の財布の一部」としか見ていない。


支配。

そう、これは結婚生活ではない。支配と被支配の関係だ。

彼らは「家族」という言葉を、搾取するための免罪符として使っているに過ぎない。


美也子はふと、自分の手を見た。

結婚指輪が光っている。かつては幸せの象徴だったその輝きが、今はただの呪いのかせのように見えた。


「……そう、ですか」


誰もいない部屋で、美也子はポツリと呟いた。

その声は、驚くほど冷静で、氷のように冷たかった。


「私が家族じゃないなら、もう、いいです」


美也子の瞳から、揺らぎが消えた。

彼女は涙を拭うこともなく、キッチンの隅に隠していた自分専用のノートパソコンを取り出した。

深夜のリビング、雨音だけが響く中、美也子はパソコンを開き、慣れた手つきでパスワードを入力する。


画面に表示されたのは、表向きの家計簿アプリではない。

美也子が独自に作成した、クラウド上のスプレッドシートだ。そこには、貴弘の給与明細、クレジットカードの利用履歴、投資信託の評価額、そして義実家へ贈った品々の金額に至るまで、一円単位で詳細に記録されていた。

FPとしての知識と経験、そして執念が作り上げた、裏の帳簿。


「二百万と、五百万……」


美也子はキーボードを叩き、その数字を「負債予定」の項目に入力した。

そして、別のタブを開く。そこには、「離婚準備」と名付けられたフォルダがあった。


「分かりました。貴弘さんがそのつもりなら、私もプロとして振る舞わせていただきます」


美也子の顔に、もはや弱々しい妻の面影はなかった。

あるのは、冷徹な計算を行い、顧客(自分)の利益を最大化しようとする、優秀なファイナンシャルプランナーの顔だけだ。


「貴方が言った『俺の金』が、法律上どう扱われるか……たっぷりと教えて差し上げます」


画面の光に照らされた美也子の口元が、微かに歪んだ。

それは、長い戦いの始まりを告げる、静かで凶暴な笑みだった。


美也子はパソコンの画面を見つめながら、静かに、しかし確実に決意を固めていた。

夫への愛は、今この瞬間、完全に死んだ。

これからは、愛する夫ではなく、「共有財産を不当に毀損する敵」として、彼と向き合うことになる。


浴室から、貴弘の調子外れな鼻歌が聞こえてくる。

彼はまだ気づいていない。

自分の足元が、すでに崩れ始めていることに。

そして、彼が見下していた「従順な妻」が、彼を破滅させるための最強の武器を研ぎ始めていることに。


美也子はパタンとパソコンを閉じ、深く息を吐いた。

嵐の夜。しかし美也子の心の中は、奇妙なほどに静まり返り、澄み渡っていた。

明日は早い。銀行の手続きをする前に、やるべきことが山ほどある。

美也子は冷めた生姜焼きをタッパーに詰めると、冷蔵庫へとしまい込んだ。

その手つきには、迷いなど微塵も感じられなかった。

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