ぼくのテセウスを守って
× × ×
学園相談部にはめったに相談者が来ない。
単純に知名度が低いのもあるが、何より立地が悪すぎる。校舎裏の旧部室棟の二階なんて普通に過ごしていたら視界に入らない。おそらく一般の生徒には解体前の廃屋だと思われている。
だからこそ俺はこの場所を部室に選んだ。
放課後、自宅に帰らずに楽しく時間を潰せる場所を手に入れるため、隠れ蓑となる部活を作ったのである。
学園相談部なんてラノベっぽい名前を付けたのは、俺の迫真の演技に絆された顧問の宇佐先生だ。若くて情熱のある女教師はとてもチョロかった。「学校のみんなの悩みに耳を傾けたいんです!」と涙ながらに訴えたら、すぐにも部活の認可を取りつけてくれた。
おかげで俺は今日も悠々自適の放課後を楽しんでいる。
右手には缶コーヒー。左手にはマンガ。
ふかふかのソファに身も心も預けられる今の時間が何よりも幸せだ。故に飲み物を自販機まで買いに行くのが億劫すぎる。小型の冷蔵庫が欲しいな。夏休み中にバイトでもするか。
学園相談部は相談料を取らない。せめて『ピーナッツ』よろしく5セントでも恵んでもらえると助かるのだが、学校の部活だから仕方ない。下手にがめつい部分を出したら先生方に睨まれるかもしれないし。
全ては快適な放課後生活を維持するためだ。せめて表面上は善意の存在であらねば。
「川口。ちょっといいか」
ガチャリとドアノブが回される。
俺は慌ててマンガをカバンの中に戻した。
経験上ノックもなしに室内に入ってくるのは「友達」あるいは「教師」と相場が決まっている。
前者であれば(悲しいかな人数が少ないから)掛け声ですぐにわかる。逆説的に声でわからなければ後者だということになる。
案の定、訪問者は数学の先生だった。三十路を過ぎた男性。睡眠不足。髭面。白衣。名前もわかるぞ。
「清水先生」
「今日は空いてるのか。他に相談者が居るなら日を改めるが」
「大丈夫ですよ。どうぞお座りください」
俺は相談者が来た時の癖で、清水先生を椅子に誘ってしまう。失敗した。大の大人がこんなところに相談目的で来るわけがねえだろ。
絶対に先週の中間テストの結果を咎めに来たはずだ。俺は理系科目全般が苦手なのである。赤点は回避したつもりだったんだが、及ばなかったか。クソッ。
「時間を取らせてすまない。極めて個人的な話になってしまうが、少しだけ先生の話を聞いてほしい」
「え? 本当に相談に来られたんですか?」
「宇佐先生から紹介されたぞ。旧校舎の学園相談部では熱心な生徒が一生懸命に話を聞いてくれる。おまけにそいつの唇は鉄筋コンクリートのように固い。そうじゃないのか?」
どうやらチョロいことでおなじみの女教師(相談部顧問)が同僚に営業をかけてくださったらしい。
宇佐先生には今度チョコレートでも進呈しよう。職員室での評判は部活の持続可能性に直結する。
遊ぶ場所欲しさに始めた相談部だが、実のところ相談を受けること自体はそんなにイヤじゃない。
他人の話を聞いてやって「川口ありがとう」と言われるのは意外と気分がいいもんだ。
俺はカバンの中から予備の缶コーヒーを取り出す。生ぬるいのは申し訳ないが、先生にはリラックスしていただきたい。
「よろしければ、どうぞ」
「気持ちだけ受け取っておく。近頃カフェイン断ちしていてな。今もらってる睡眠導入剤が効かないんだよ」
「もしかして清水先生、結構深刻な悩みだったりします?」
「眠れないのは今回の件じゃない。ずっと前からだ。人生、忙しさに身を任せすぎるとロクなことがないぞ」
「そういうもんですか」
「まあ。とにかく先生の話を聞いてくれ。川口はこいつを知ってるか?」
清水先生は前のめりになり、スマホの画面を見せてくる。
俺の同級生・とある女子生徒の顔写真だった。体育祭の時のものだ。満面の笑顔が可愛らしい。緑色のハチマキをリボン代わりにしてボリュームのある栗毛がまとめられている。うちの学校は原則染髪禁止だが、彼女の栗毛は生来のものだ。
「隣のクラスの留学生ですよね。たしか外国の古いアニメ会社みたいな名前だったと思いますが」
「そのとおり『宇宙家族ジェットソン』を作ってそうな名前のやつだ。アメリカ・ロサンゼルス近郊生まれのアンナ・バーベラ。こいつと自分は古い知り合いでな。一から話すと長いんだが、SNSのやりとりがきっかけで日本に来たんだ。それもわざわざこの学校にな」
「ほほう」
つまり彼女は清水先生に会うために来日した、と。
俄然、相談の内容に興味が出てしまう。学校の先生と密かに付き合う女子生徒は中学時代にも見たことがあるが、あの時は休み明けに二人とも消えていた。
社会的には許されない。だからこそ燃える。そんな感情もあるんだろうな。俺とは無縁すぎる話だ。
「おい川口。一応言っておくが、先生のほうからあいつに近づいたわけではないからな。あっちからメッセージが来たんだ」
「俺は見ての通り不細工ですから外国人の美女にモテる清水先生が羨ましいです」
「そんな単純な話だったらどれだけ良かったか。それに顔の出来映えで言えば、お互い大差ないだろう」
たしかに清水先生も格好良いとは言いがたい。
やさぐれた中年男性の中には元阪神の下柳投手のように独特の色気を醸し出すタイプもいるが、先生の場合は不健康すぎる上、三白眼が無愛想に映る。
とても海外出身の女の子から熱烈なアプローチを受けるようには見えない。
アメリカでアジア系が好かれやすいという話は聞かないし、他に理由がありそうだ。
「清水先生がやっていたSNSって出会い系ですか?」
「いたって一般的なSNSだが。出会い目的のアカウントでもない。そもそもあいつが初めてメッセージを送ってきたのは向こうのエレメンタリー・スクール、小学生の頃だぞ」
「申し訳ないんですけど、法的にアウトだと思います」
「ああ……アンナ・バーベラが、本当に心の底からアンナ・バーベラだったならアウトかもしれん」
数学教師なのに哲学的な話になってきた。
何となく自分を自分たらしめているものは何なのか、自分なりに少し考えてしまうが、大前提として自分という人物は哲学に詳しくない。故にまともな答えなど捻り出せるはずもない。QED。
逆に先生の中でアンナ・バーベラをアンナ・バーベラと見なせない理由があるとしたら、それはたしかに「悩み」になるかもしれない。
すぐに思い浮かぶのは彼女の両親がアジア人に子供を売ろうとしている、というものだ。
「先生にメッセージを送ってきたのは、バーベラさんではなかったということですか」
「ご明察だ。正直、今ここにおいても川口に信じてもらえると確信を持てなくてな。お前に言うべきなのか迷っている」
「俺はどんな話でも聞かせてもらいますよ」
学園相談部は相談に乗るための部活である。悩みを解決に導く部活ではない。はぐれ者の自分にそんな力はない。
そのかわりに話を聞くだけなら、なるべくお付き合いさせていただくつもりだ。
それで救われるものもあるようだし。
「わかった。よし。ところで川口は人間の『生まれ変わり』を信じるか?」
「信じないッスね」
「おう。先生も以前はそうだった。絶対に創作だと思うよな。輪廻転生は心穏やかに逝くための信仰だろ。現実にはありえない。死んだら消えるだけだ」
先生の頬が気色ばんでくる。
三白眼がギロリと光る。
「だが、あいつはロサンゼルスの小学生のくせに、こっちのことをよく知っていた。学生時代の思い出。与太話。借りてた本の名前。英語じゃないぞ。全部日本語で送ってきやがった。アメリカ人の小学生が、だぞ?」
先生の声に血潮が巡っている。
続く言葉に気迫がこもる。こちらに伝わってくる。そして先生の両手がこちらの両肩をつかんでくる。
「わかるか。川口。ありえないことが起きたんだ。あいつは、死んだオサムの生まれ変わりだったんだよ」
北山修身。享年18歳。高校卒業直前に列車事故に巻き込まれたらしい。
清水先生は亡き友人の人となりを一生懸命に話してくれる。引っ込み思案で読書家だったという。先生とは中学校の入学式以来の大親友で、毎日教室で推理小説の感想を言い合う仲だったそうだ。
本当は同じ大学に入るはずだった。しかし叶わなかった。
どうしよう。俄かに信じがたい話だ。些かロマンチックすぎる。
清水先生が大掛かりな国際恋愛詐欺にかかっている可能性は否定できない。詐欺の手法は年々巧妙化しているという。最近の人工知能(AI)なら外国人の旧友に偽装した文面ぐらい簡単に作り出せるかもしれん。まずは清水先生のSNSなど公開情報から個人情報をザッピングして──否。たかが私立高校の教員の財布に手を伸ばすために、海外の詐欺師がそこまでの労力を払うか?
「ぶしつけな質問で申し訳ないんですけど、清水先生って実はお金持ちだったりします?」
「いきなり何の話だ! ……先生しかやっとらんわ」
「詐欺の可能性は低そうッスね」
「それは自分も疑ったが、気になるならSNSのメッセージを見せてやろうか。8年分あるぞ」
先生のスマホのディスプレイをいくつもの文面が流れていく。
ひょっとすると、本当に彼女は故人の『生まれ変わり』なのかもしれない。そう信じてもおかしくないくらいに密度のあるやり取りが続いていた。何より入金の話が全く出てこない。
というか、そもそも詐欺目的なら本人が来るわけないんだよな。被告人の疑いは晴れました。彼女の主張は正しいです。おそらく。
「あいつがこっちに戻ってくると言い出した時、本気で嬉しかったんだ。SNSでメッセージを送り合うだけだったからな。でも20年ぶりに会ったあいつは、どうあがいてもあいつには見えなかった」
「そりゃ外見はアメリカ人のハイスクール・ガールですもんね」
「容姿だけじゃないぞ。会話のノリもあの頃とは程遠くてなあ。何かあれば『イェーイ』とか『フォー!』とか叫んで、ハイタッチをせがんでくるようなタイプじゃなかった。元々は大人しい奴だったのに。アメリカ生活があいつを変えたのか、アンナ・バーベラだからなのか?」
先生が首を傾げる。
残念ながら他クラスのバーベラさんとは一度も話したことがなく、彼女の性格については何も語れない。
俺は不細工すぎて女子の空間に立ち入ることを許されない男なのだ。話しかけただけで毎回空気が止まる。
以前、渡り廊下で日本語を話しながら他の女子とキャアキャア騒いでいた姿だけが、俺の知りうる彼女の全てだった。
「なるほど、ですね」
何となく。
相談の核心部が見えてきた気がする。
先生は旧友との思わぬ形での再会に戸惑っている。昔の知り合いが美少女になっていたら誰だってビックリするよな。おまけに性格まで派手に変化してたら、すぐに受け入れられない気持ちも想像できる。
もう少し深掘りしてみよう。
「今のバーベラさんとは遊びに行ったりされます?」
「形式的には先生と生徒なんだぞ。一度、家には呼んだが。今は学校で多少話すくらいだな」
「家に呼んだんですか!?」
「声がうるさい。恥ずかしながら先生は今実家暮らしなんだよ。去年倒れた時に連れ戻されたんだ。だからあいつを呼んだ時も実家の連中同席で、まあ身内の歓迎パーティーみたいな感じだ」
「普通に楽しそうですね」
「あいつはノリノリだったな。ウチの庭で音楽かけて踊りまくって。串焼きの肉ばっか喰ってやがった」
清水先生の視線が遠くなる。右膝が小刻みに揺れている。
以前のイメージと合わないことが相当気に食わないみたいだ。なるほど。
「今もメッセージでのやり取りは続けてます?」
「いいや。近況報告の必要が無くなったからな。何かあれば学校で話せばいいだろ。あいつから自撮りの写真が送られてきた時に適当なスタンプを貼るぐらいだな」
「学校ではどんな会話をされるんですか?」
「学生の頃に借りた小説の話が多い。マンガの話もするぞ。あいつは人前でも平気で話しかけてくるから、そういう時は正直話題に困る」
「先生は2人きりのほうが話しやすいんですね」
「当たり前だろ。生徒相手のコンプライアンスがあるから、たまにしか機会がないが」
「旧部室棟は誰も来ないので内緒話にオススメですよ」
「お前がいるだろうが」
先生からツッコミが入った。
実際、他に誰もいないから『相談部』として成り立っているが、旧部室棟は下階の話し声が足元まで伝わってくる程度には防音性がゴミである。
以前一度だけ見知らぬ男女の告白シーンを生で聞かされたことがあった。成功したとわかって思わず拍手を送ってやったら、すたこらと逃げていったな。
「今後は相談の時に音楽でも流そうかなー」
「音楽と言えば! オサムの奴、よく外国の音楽を薦めてくるんだが。今の洋楽ってヒップホップとダンスミュージックが多すぎないか?」
「それはバーベラさんの趣味だと思いますよ」
「昔のあいつは、どちらかといえば──他人の好みを否定するのは良くないな。しかし結局オサムだからなあ」
今の彼女をどのように扱えばいいのか。
生前と同じように接するべきか。今の陽気な性格に合わせるべきか。彼女の性別をどう捉えるのか。
相手の変化を受け入れるしかないのか。
先生は彼女と校内で顔を合わせるたび、対応に悩んでいる。それが日々のストレスにつながっている。
旧部室棟のスピーカーから夕方のチャイムが流れてきた。ノイズ混じりの音色が、古寂びた建物をどうにか現役の校舎たらしめている。
先生が自身の膝を力強く叩いた。白衣の男性が立ち上がる。チョークの粉が少し宙を舞う。
「良い時間になったな。川口と話せたおかげで少し気持ちが楽になれたよ。今度、その缶コーヒーをひと箱持ってくる」
「楽しみにしてます」
「くれぐれも他言無用で頼む」
清水先生は吹っ切れた顔で去っていった。
他言無用も何も。誰かに話したところで絶対にまともに取り合ってもらえないのはわかりきっている。
相談内容は絶対に明かさないと決めているが、今回は確実に墓場まで持っていくタイプの話だった。
× × ×
翌週。校内は衣替えの時期に入った。自分も梅雨の湿気に半袖シャツで対抗している。
これは俺自身の体感に過ぎないんだが、年を経るごとに夏の訪れが早くなっている気がする。今年もすでにそこそこ暑い。
残念ながら旧部室棟には空調設備が一切存在しない。
代わりに自宅から扇風機を持ち込んでみたが、7月以降の猛暑日には「焼石に水」になることが容易に予想される。
夏休み中のアルバイトでガッポリ稼いで、中古でいいからスポットクーラーを導入したいところだ。冷凍室付きの冷蔵庫も置きたい。理想が膨らむなあ。
「スミマセン」
ドアを叩く音がした。
出迎えてみれば、ロサンゼルス出身の留学生が白い歯を見せてくれた。
一年三組のマドンナ。アンナ・バーベラさん。柔らかい栗毛の髪を背中まで伸ばしている。花柄のカチューシャが良く似合う。
わかっていたことではあるが、同年代の女子より明らかに発育が良い。半袖のシャツ姿だと如実にわかる。少し見上げるくらいには身長もあるな。多分170センチぐらいだ。
くっきりした目鼻立ちは惚れ惚れするほどに端正だった。可愛いと美しいの中間といったところ。
「ハロー。ここが『学園相談部』で合ってる?」
「どうぞ入ってくれ」
「アリガトウ」
彼女が外国人っぽい訛りをぶつけてくるたびに吹き出しそうになるが、どうにか堪える。
事情を知っていることを悟られたら駄目だ。間接的に先週の清水先生の相談内容を明かすことにつながってしまう。あれは俺の墓場まで持っていくつもりなんだ。
彼女には相談者用の椅子に腰掛けてもらい、俺は対面のソファに座る。
カバンの中から缶コーヒーを差し出したら「シュガーレスはチョット」と突き返されてしまった。
そう言われても、先日もらった箱入りの缶コーヒーが全部ブラックだったから仕方ねえだろ。俺だって甘すぎない程度に甘いほうが好きだ。
「相談部には川口クンだけ? 他は?」
「一人所帯でやらせてもらってます。扱いは同好会と同じなんでね」
「ナルホド。だったら川口クンに。ご相談があるの」
バーベラさんはどういうわけか、こちらの指先をギュッとつかんでくる。
やめてほしい。相手の素性を知っていたところで女の子相手なんだから勘違いしちゃう。
俺は手汗を悟られないように必死で指先を抜き取った。
「イヤだった?」
「そ、相談に来たなら用件を聞かせてくれよ」
「ワタシの彼氏のフリをしてほしい」
バーベラさんは小首を傾げ、上目遣いで思わせぶりな微笑みを向けてくる。
缶コーヒー。缶コーヒーだ。一気に飲もう。まともに受け取ったら変な流れになっちまう。
とにかく相手の理屈が何一つわからない。何なんだ彼氏のフリって。間違いなく男を勘違いさせる称号じゃん。お付き合いにつながるかもしれないと期待しちゃうじゃねえか。
今のボディタッチもそうだ。上目遣いも同じく。中身は北山修身なんだろアンタ。なんで平然と女の武器を使えるんだよ。
そりゃ清水先生もいちいちストレスを抱えるわけだわ。ほんの少し会話しただけでヤベえもん。相手の素性を知っていてもめちゃくちゃ異性を感じるもん。脈拍上がってるもん。
俺の全神経が相手の仕草から「女」を検知しているのに。頭の中がエラーのアラート音を流しまくっている。
「ご、ごめんだけど。それは勘弁してくれ」
「お願い。アナタしかいないの」
「ここは相談室なのでアプローチしないでもらえますか! 規則違反でございます!」
「ダメなの? はあ。何てこと」
バーベラさんは気落ちした様子で目を伏せる。態度がわかりやすい。アメリカンに染まってらっしゃる。
もしかすると妙に外国人っぽい話し方も、彼女が来日するまで日本人と話す機会を失っていた結果なんだろうか。
生まれ変わりから約16年。長いといえば長い。もし彼女が大阪に生まれてたら大阪弁に染まっていてもおかしくない。阪神ファンに宗旨替えしてるかもしれへん。
ちなみに「学園相談部で異性にアプローチをしてはいけない」というルールは当然ながら存在しない。
こんなことは彼女が初めてだ。
「ねえ。ワタシってそんなに魅力ない? これでもロスにいた頃は、いつもステディな相手が居たんだけど」
「あんたが美人なのは十分わかってんだよ」
「ダッタラ。どうしてダメなの? 信じられない。男の子でしょ?」
バーベラさんは手のひらを天井に向ける。
アメリカのコメディドラマでおなじみのジェスチャーだな。芸人さんのモノマネを思い出したせいか、我ながら心拍数が落ちついてきた。ふう。
「彼氏のフリってことは要するに男除けに使いたいんだろ。利用されてるみたいでイヤだわ」
「そんなつもりないケド」
「だったら他にいる本命にアピールしたいとか。そんなもんシンプルに当て馬じゃねえか」
「ええ。そうかもね。だとしても、キスまでならオーケーよ?」
彼女は人差し指を唇に添える。
こちらとしては心が揺らぎそうになるが、一刻も早く相手から遠ざかりたい気分にもなる。アンビバレント。
なるほど。わかってきたぞ。彼女は生まれ変わってから今に至るまで異性からモテすぎたせいで、こういう感じに仕上がったとみえた。
否が応でも人目を惹く可憐な顔貌に加え、成長期以降はメリハリのあるボディラインも相まって、地元ではあちこちで男の子から声をかけられ、遊びに誘われ、褒められ、チヤホヤされ、好意を寄せられ続けたのだろう。
結果、性格や話し方の変化以上に「モテる女子」の生き方・思考法が彼女の中で培われてしまった。
マザー・テレサの習慣の話を引用するまでもなく、人間は周囲の環境によって容易に変化する。
俺だってイケメンの人生を歩んでいたら女性を苦手に感じなかったはずだ。
「ねえ。今週のウィークエンド。一緒にお出かけしない?」
彼女は美しい。おまけに愛想が良いときた。
あふれんばかりの笑顔にさりげないボディタッチ。それも太ももを指先で突いてくるタイプ。これでモテないはずがないのだ。
手持ちの缶コーヒーが空になっていた。俺は彼女の手を取る。細くて冷たかった。
「一つだけ条件を出していいか」
「ワタシとお出かけしてくれるの!?」
「教えてくれ。バーベラさんがアピールしたい本命の男って、どういう人なんだ?」
「エッ……エート……日本語よくわからないネ……」
それは万能の言葉じゃねえぞ。
彼女は目を泳がせることで誤魔化そうとするが、当然ながら俺の中では見当がついている。
相談者の不利益になるような行為は避けるべし。
変に話がこじれて清水先生から敵対視されでもしたら『学園相談部』の存続に関わってくる。
「デートがしたいならその人にお願いしたらいいだろ。バーベラさんの誘いを断る男はいないと思うし」
「ワタシの目の前にいるんだケド!?」
「もし本命の彼にアプローチできない理由があるなら、他言無用で話を聞いてやってもいいぞ」
「う、ウムム……」
彼女は口を開かない。代わりにスカートのポケットからスマホを出してくる。
端が割れた画面には『二次関数の説明が記された黒板』が映し出されていた。多分彼女なりの危機管理なんだろうな。教師相手の恋は密かにやるもんだ。下手したら両者共に退学処分になりうる。
彼女がこれ以上の説明を加えるつもりがないなら、俺なりに察してやるとしよう。
「俺には意味がわからねえけど。もし数学が苦手なら、清水先生にアドバイスもらうと勉強が捗るぞ」
「イ、イワオとは仲良し。相談部のコトもイワオに聞いた」
「先生を下の名前で呼んでんのかよ」
「うん。清水巌。忘れたことない」
やっぱり気持ちが表に出てしまう性格らしい。本当にわかりやすい。笑顔の品質が違いすぎる。
そりゃそうだよな。元々の性別・人生はさておき、アンナ・バーベラさんは先生に会うために太平洋の彼方から日本の高校に転入してきたぐらいなんだから。
きっとSNSで旧交を温めるだけでは満たされない想いが彼女の中に生じたのだろう。
それほどに彼女は女の子に染まっている、という証左でもある。
「フフン。川口クンは鋭いね。クール」
「何のことだか」
「ウィークエンドのお出かけ。楽しみにしてる」
「いや。今の流れで行くわけないだろ」
「ちゃんと本命の彼を教えたのに? せっかくフレンドになったのに誘ってくれないの? ありえない」
いつのまにか友達にされていた。
それは勝手に決めてくれたらいいんだが、今さら一緒にデートしたいと言われても困る。
今の彼女が好きなのは清水先生だとハッキリしたんだから。
「どうせデートするなら好きな人と行けよ」
「ワタシはイワオが好き。ロスにも良い人はいたケド。イワオが一番優しいから。本当はいつも近くに居てほしい」
「清水先生って指導が厳しいほうだけどなあ」
「ミドルスクールでボーイフレンドとケンカした時。トラブルがあった時。イワオはいつも一番に返事のメッセージをくれたの。日本はミッドナイト、すごく夜だったのに」
「先生、それで不眠症になったんじゃねえの」
「でもティーチャーのイワオとはハグできないデショ。キスもダメ」
「そりゃ人前だとヤバいだろ」
「ワタシ、ロンリーだと寂しい。ダカラ。日本でもウィークエンドは男の子とお出かけしたいの」
俺は手のひらを天井に向ける。
女心には疎いほうだが、寂しくても別の男とデートせずに女友達と遊べばいい話だろ。
アメリカのカップル文化に染まりすぎてやがる。今こそ日本の心を取り戻すべきじゃないか。
週末はネカフェでマンガを読みふけるのが至高なんだぞ。
「悪い。出来れば他を当たってくれ」
「川口クンはそれでいいの? ワタシが他の男子とデートしても?」
グサッ。地味に効くツボを突いてきやがる。
お近づきになれそうな女の子からその台詞を言われると、人間は勿体ないオバケに苛まれてしまうらしい。
心がヒリヒリする。ちくしょう。全然好きじゃねえのに。それは本命の先生に言うべき台詞だろうが。
「フレンドなら、ワタシに冷たくしないで」
「冷たくしてるつもりはねえんだよ」
「はい。仲直りのハグ」
バーベラさんが近寄ってくる。彼女の両腕がこちらの背中に回される。互いの心臓が急接近する。
女子に抱きつかれた。人生初の経験に頭の処理が追いつかねえ。俺の人生にこんなことがあっていいのか。
「川口クン、どうしたの?」
「あばばばばばばば」
「どうしたいの?」
お気に入りのソファが軋む。やめてくれ。すごく柔らかい。めっちゃ良い匂いがする。耳元に吐息が伝わってくる。目尻に映った横顔が美しすぎる。落とされちゃう。好きになっちまう。
俺は咄嗟に思いついた人の名前を叫ぶ。
「清水先生、お前の好きな清水先生に見られたらどうするんだよ!」
「ワタシはイワオに怒られたいの」
「お、俺は怒られてたまるかぁぁぁぁ!」
先生に怒られたら『学園相談部』の評判が下がる。
先生方の評判が下がり、部活認可が取り消されたら、俺は人生唯一の安息地を失うことになる。
「うりゃあああっ!」
俺は彼女の魅惑的な肉体を引き剥がした。過去最高の抱き心地から逃れ、彼女の上半身を少しずつ押し返していく。
それはアンナ・バーベラにとって「ありえないこと」「信じがたいこと」「今までなかったこと」だったようだ。
彼女は叫ぶ。
「どうして!?」
そして再びボディタッチを試みてくる。否。これはタッチじゃない。平手打ちだ。
こちらが右手で払い除けたら、今度は涙目でにらみつけられた。端正な顔が感情にあふれていた。
彼女が部室を立ち去るまで五秒とかからなかった。
女の子を怒らせてしまった。おそらく彼女のプライドを傷つけてしまった。申し訳ないことだ。
それらを反省した上で。
率直に申し上げておきたい。
俺は彼女と対話していく中で、彼女自身の内面から日本人男性の成分を一辺たりとも検知できなかった。
どれだけ思い返しても「好きな男にかまってもらえず、相手の気を引こうと別の男に粉をかけてみたが、拒絶されてしまいショックを受けた女子」でしかなかった。
元の北村修身の意志の介在を感じられない。
俺の前には彼女しか居なかった。
これはつまり。16年前にアメリカ人の美少女に生まれ変わった彼は、彼女の人生を生きていく中で「アンナ・バーベラ」に飲み込まれたということになる。
彼は生まれ変わり、変わり続け、変わり果てたんだ。
性格も。話し方も。考え方も。趣味も。願望も。生き方も。人付き合いの方法も。性的指向も。異性の扱いも。自己認識も。
前世の記憶と折り合いをつけるうちに元の自分がどんどん折れてしまい、今の人格に合成されてしまったんじゃないか。
であれば。
彼女自身が「オサムだった頃がある」と自覚していたところで、今の彼女は日本人男性の記憶を思い出せるだけの他人でしかない、という捉え方もできる。
テセウスの船と同じように。中身をほとんど取り替えられたら、もはや同じ名前でも同一人物ではなくなってしまう。
清水先生から亡き友人の面影を求められても、今のバーベラさんはきっと使い古された思い出話でしか応えられない。
今のバーベラさんがアメリカ生まれの女性として先生に好意を寄せても、欲しい形の愛が返ってくるとは限らない。
互いの期待が中途半端に裏切られ続ける。
互いに対するストレスが溜まっていく。会話がすれ違う。苛立ちが隠しきれなくなる。暴発の日は遠くない……かもしれない。
俺は膨らみきった想像を吐息に変えた。
考えすぎかもしれない。多少言葉を交わしただけで他者の全てを理解したつもりになるなど傲慢にも程がある。
人格(?)の話もそうだ。かくいう俺にしてもコンビニの店員さんに話かける時の人格と、友達と喋る時の人格は切り替えている。
さっきは彼女がこちらに対して「バーベラさん」の人格で接してきただけ、なのかもしれない。
こういうのペルソナって言うんだったか。
とにかく全ては俺の仮説だ。
ただ、彼らが奇跡的な再会を果たしたわりに、微妙に幸せそうに見えないのは確かだった。
学園相談部は相談に乗るための部活である。みんなの悩みを解決に導く部活ではない。はぐれ者の自分にそんな力はない。
それでも。自分なりに気づいたことを相談者に伝えるくらいは出来るだろう。
俺は電話をかける。
「もしもし。清水先生。川口です。先日は缶コーヒーの差し入れ、ありがとうございました」
『おう。なんだ、わざわざお礼の電話か。未成年とは思えないな』
「余談になりますが、先ほどバーベラさんにエッチな誘惑をされました」
『はあ!?』
清水先生の怒声が電話越しに炸裂してくる。
耳が痛い。今度から通話の時はいつも以上に言い方に気をつけたほうが良さそうだな。余計な誤解を招くかもしれん。
「今はお一人になられてます。どこかに消えました。先生が迎えに行ってあげてください」
『お、お前まさかあいつと何か』
「一応言っておきますけど、部室で相談を受けただけッスよ」
『本当だろうな!』
「俺から相談の内容は明かせません。ただ去り際、ものすごく人肌に飢えていた様子でした。後は先生にお任せします」
『………………』
通話が切れた。
無言の中に色んな感情が含まれていた気がする。
部外者の俺に出来るのはここまでだな。残りは自分たちで考えてもらおう。また相談に来られたら、その時はいつもどおり相槌を打って差し上げよう。
× × ×
一ヶ月後。
梅雨明けの超快晴で汗水びっしょり。そんな苦行の日々もようやく終わろうとしていた。
明日で夏休みが始まるからな。
一学期最後のホームルームが終わったら旧部室棟の『学園相談部』にダッシュだ。先日取付工事が終わったばかりの窓用エアコンの冷風を全身で浴びてやる。
若くて情熱のある女教師はとてもチョロかった。「みんなの相談に乗りたいのに部室が高温すぎて誰も近寄らないんです!」と涙ながらに訴えたら、すぐにも取付の段取りをつけてくれた。
冷蔵庫の設置は予算不足で却下されちまったが。やはり俺の夏休みはアルバイト漬けになりそうだ。
「涼しい~」
今日も旧部室棟唯一の冷房が効きまくる。悠々自適な放課後生活が充実していく。
俺は一学期最後の部活動を満喫すべく、カバンの中から缶コーヒーとマンガを取り出した。
「イワオ! プリーズウェイト! 待ちなさい!」
「いい加減にしてくれ!」
廊下から騒々しい会話が聞こえてくる。
男女の諍い。聞き覚えのある声と固有名詞から状況はすぐに把握できてしまった。
白衣姿の数学教師と留学生女子が部室に向かってきている。
俺は手持ちのマンガをカバンに戻した。
「アナタは先にワタシの話を聞くべきよ。アナタをどこにも行かせない」
「もう十分にわかったから。また今度にしようぜ。ここだと川口に聞こえちまうぞ」
「どうでもいいデショ、あんな男」
校内屈指の美女であるアンナ・バーベラさんにどうでもいい扱いをされてしまった。俺たちフレンドじゃなかったのかよ。
彼女とは以前の件があってから一度も会話の機会がなく、代わりに一度だけ中指を立てられたことがある。
「ぼくが思うに、川口は信頼できる男だぞ」
清水先生が唐突に俺の株を上げてくれた。どうしよう。好きになっちゃう。彼女の前だと一人称「ぼく」なんだ。可愛いね。俺が聞き耳立ててるってバレてんのかな。
バーベラさんのほうは無反応。声しか聞こえないから彼女がジェスチャーしても伝わってこねえ。
俺は部室の扉に手を当て、耳を澄ませる。
「ワタシより川口クンを信頼するの? ワタシのほうが付き合いは長いはずじゃない。どうしてワタシの話をちゃんと聞いてくれないの?」
「何度も聞いた。お前が言いたいことはわかってるつもりだ」
「イワオは全然わかってない。ワタシはあなたを心配しているのよ」
「頼むから、ぼくにも考える時間をくれないか」
彼らの足音が止まった。階段の踊り場あたりで立ち止まっているらしい。
あの辺なら柱の影から偵察できそうだな。俺はこっそり部室を出る。廊下はまだまだ暑い。
清水先生とバーベラさんはジャンケンをしていた。
「イエス。ワタシの勝ちだわ。ワタシの言うとおりにしてちょうだい」
「同じ話を聞いてやるだけだろ。オサム」
「イワオは学校を辞めるべきよ」
彼女は仁王立ちで説得を試みる。
まさかそんな理由で揉めているとは思わなかった。
先生はため息をつく。過労が吐息にも出ている。三白眼の下には相変わらずクマが目立つ。
「それは無理だ。仕事がないと生きていけない」
「アナタには作家の収入があるじゃない。もうすぐアニメも始まるわ」
えええっ。
俺は思わず声が出そうになった。清水先生が小説家だったなんて。しかもアニメ化作家。
そういえば前に収入の話を訊ねたら「先生しかやってない」とか言ってたな。たしかに先生ではある。叙述トリックじゃねえか。
「人気なんぞ水物だ。ずっと続くわけじゃない」
「マンガ・アーティストは素晴らしい仕事よ。イワオには才能がある。ワタシはイワオの描く絵が好き。主人公クモイ・ヤクモはサイコーにキュートだわ」
訂正。先生の副業は漫画家らしい。推理小説の愛好家だと話してたから小説家なんだろうと思い込んでしまった。
作品が気になるのでポケットからスマホを取り出し、主人公の名前で検索をかけてみる。
すると『超少女探偵・雲井八雲』という作品の表紙が表示された。彼女は日本各地の殺人事件を優先的に捜査できる「殺しのライセンス」を持っているらしい。結局は推理モノに行きつくのか。
「今は家賃もナッシング。ティーチャーをやめても死なない。逆に今のままだと死んじゃうわ」
「これから夏休みだから平気だよ」
「もうイワオが苦しむところを見たくないのよ。ワタシを安心させてよ」
清水先生の作品は週刊連載らしい。激務で知られる教員との二足の草鞋は相当に歩きづらいはずだ。
俺の目にはバーベラさんが涙を流しているように見えた。先生はまたしても対応に悩んでいる感じだった。
それにしても。
今のやり取りを見ているかぎり、やっぱり彼女の人格に北山修身の成分はほとんど残っていないんだな。
旧友である清水巌の前ですら「アンナ・バーベラ」そのままのふるまいだ。
彼女自身の捉え方は知らないが、先生の目にもはや往時の「オサム」の姿は映っていないだろう。
些細な面影すら、いくら探しても見つかりそうにない。
そんな完全に染まりきった彼女をあの日追いかけたはずの先生は、一体どんな想いに至ったのだろうか。
今も旧友の幻影を追いかけているのか。
逆に現在の彼女に寄り添うと決めたからこそ、すれ違わずにここまでストレートにぶつかり合えるようになったのか。
彼は白髪混じりの脂ぎった頭皮を掻き終える。
「オサム。ぼくに会うために日本に戻ってきたんだよな。お前は」
「もちろんよ」
「ぼくと再会するためにアメリカから日本の高校に転入したんだよな。あの時、一緒に行けなかった大学の代わりじゃないけど、ぼくと同じ学校に通うために」
「ええ。そのとおりだわ」
「だったらさ。ぼくが学校を辞めたら。もうお前に会えなくなるじゃないか。それは僕にとって、死ぬよりも寂しいことなんだよ」
先生の言葉に彼女は両目を見開いた。
彼女は、アンナ・バーベラは小さく首を振る。そして一度目を伏せてから、意を決したように。
目の前の男に口づけをした。
先生の顎を指先で触れながら、身を寄せながら、何度も顔を傾けながら、舌を入れながら。
初めてのキスにしては盛大すぎる気もするが、とにかくキスをした。
「──ふう。そんなことない。アナタに二度と会えないなんて。そんなことは絶対にさせない」
「お前。オサムお前って奴は。誰かに見られたら!」
「まだわからないの?」
むさぼるように。ついばむように。
二度目のキスは短かった。
それはおそらく。先生が彼女を受け入れたから。
「ほら。これでいつでも一緒にいられるようになったわ」
彼女は先生の頬を撫でながら、勝ち誇るように笑みを浮かべる。その立ち姿はさながら苦闘の末に戦利品をつかみとった狩人の如く。
か、格好良い。
バーベラさんかっけえ。
「おい。ぼくに会いたいって、そういうつもりだったのかよ。向こうで男と付き合ってたとは聞いてたけど、まさかぼくなんかのことを」
「ティーチャーを辞めたくなってきた?」
「も、もしかしてずっと前から、オサムじゃなくてアンナって呼んだほうがよかったのか?」
「好きにしなさい」
そして狩人は三度獲物に喰らいついた。
これ以上は部外者が覗き見するべきものではなさそうだ。成就した恋ほど語るに値しないものはないという森見登美彦の格言もある。
「川口クン」
こっそり部室に戻ろうとしたら、キスを中断したバーベラさんに声をかけられた。バレていた。
俺は五秒で言い訳を考える。
「……そ、そろそろトイレに行かせてほしいんだが!」
「アナタにはウィットネス、ワタシたちの証人になってもらうわ。今すぐ職員室に行きなさい。そして今見たことを余すことなく報告するのよ」
「わかったわかったわかったから! ぼくが先生を辞めりゃいいんだろ!」
清水先生が勢いまかせに彼女を抱きしめる。すごい。バーベラさんがわかりやすく幸せを噛み締めていらっしゃる。乙女の顔だった。
仲の良い先生がいなくなるのは寂しいが、そういう流れになりそうだ。
俺は投げつけた言い訳を嘘にしないために足早に階段を下りさせてもらう。このまま駅前のネカフェに逃げ込みたい気分だな。
「ソーソー。川口クン」
「なんでしょうか早くトイレに行きたいんですが!」
「アナタのフルネームを教えてちょうだい。いつか本物の証人になってもらうかもしれないわ」
「川口雄二だ」
「オウ。ユウジ・カワグチ。すごく昔の楽天イーグルスね」
「よく言われるよ」
中高年の先生方には「近鉄で的山の前を打ってそうだな」と笑われる。
いずれにせよ俺が生まれる前のプロ野球の話だ。
もちろんバーベラさんも生まれていない。そしてアメリカ人である彼女がそんなことを知る由もない。
わざわざ前世の記憶から引き出す理由もない。
つまり。きっと未だ覚えていたのだ。昔のことを。今の彼女が。ほんの少しだけ。
「イワオはベースボールのファンよね? 今度一緒にスタジアム行かない?」
彼女自身は自覚していないかもしれないし、清水先生も気に留めていない様子だが。
紛れもない。北山修身の名残がそこにはあった。
俺は「それ」を見つけた時、わずかながら胸の高鳴りを覚えたのだった。




