第7話
「ふぅ…。なんとかなった」
オレンジ色の夕陽が地平線に沈み、街灯に火が灯り始める頃。
僕たちはどうにか、夜の闇に呑まれる前にアシュタロテの街へと帰還することができた。
負傷したリリをこのまま帰すわけにもいかず、僕たちは彼女の案内で街外れにあるリリ宅へと向かう。
「あそこが私の家です。ずっと肩を貸していただいて、ほんとにありがとうございます」
「気にしなくていいよ、今日は僕も助けられたしね」
ほんとに気にしなくていいよ。役得だし。
リリの柔らかい体を間近で感じられたのだから、これくらいの労働は安いものだ。
しかし、彼女が指差した先を見て、僕は少しだけ言葉を失った。
そこにあったのは、今にも崩れ落ちそうなほど古い木造の平屋だった。屋根の瓦は欠け、壁にはいくつもの亀裂が走っている。
最近引っ越してきたと言っていたが、空き家だった場所を安く借りたのだろうか。
「ただいま、お母さん!」
リリが立て付けの悪い扉をガラガラと開ける。
中も予想通り、生活感こそあるものの、お世辞にも綺麗とは言えないボロ家だった。
狭いワンルームに近い間取りの奥から、ドタドタと慌ただしい足音が近づいてくる。
ママエルかな?
「おかえりなさい。遅かったわね」
ママエルを見て、一目で確信した。
リリの可愛さは遺伝だ。
黒髪のショートヘアに、潤んだ瞳のたぬき顔。
やつれてはいるものの、まだ若々しく、驚くほど整った顔立ちをしている。
そして何より、古びた部屋着の上からでもわかる豊かな胸の曲線。
…母性、溢れすぎじゃない?こっちにも一応、唾をつけておきたいな
「そうなの、ごめんなさい。でも、これ見て!薬草採ってきたの!!」
リリが誇らしげに、ポケットから摘みたての薬草を取り出した。
それを見た瞬間、ママエルの顔から血の気が引いた。
「薬草…?まさか、街の外の森に行ってきたの!?」
「え、うん、そうだけど…」
「どうして街の外にでたの!?魔物がいる可能性があるから出ちゃダメって言ってたでしょう?」
「ご、ごめんなさい」
静まり返った室内で、お母さんの震える声が響く。リリは小さく身を縮めた。
これはマズい。
僕はリリを守るように、一歩前に出た。
「す、すみません。僕たちが連れ出したんです」
ママエルの鋭い視線が僕を射抜く。その瞳には、大切な娘を危険に晒された母親としての怒りが見えた。
結構怒ってるなぁ。実際危ないところだったし、親としては当然か。
「…あなたたちは?」
「と、友達です。昨日仲良くなって、それで…」
「お母さん、大丈夫だったよ。魔物もいたけどみんなでやっつけられたし、そんなに心配しなくてもーー」
「魔物が出た!?あなた、よく見たらケガしてるじゃない!!」
「ち、違うの。薬草をとってる時に油断して、魔物の攻撃は当たったけど、マリンさんが回復魔法を使えて、治してもらったの」
「魔物」という単語に、ママエルはいよいよ真っ青になった。たとえ傷が塞がっていても、それは結果論だ。
一歩間違えれば、娘を永遠に失っていたかもしれない。そう思う親の心境は、今の僕には計り知れないほど重いものだろう。
彼女は震える手でリリの肩を掴み、傷があった場所を何度も確かめる。
やがて安堵したのか、彼女は深く吐息をつくと、こちらを向いて厳しい声音を放った。
「…みなさん、娘を治療してもらい、ここまで送ってもらったことは感謝します。ですが、もう娘を危険な場所へ連れていくのはやめていただけますか?」
下げられた頭からは、感謝よりも拒絶の意志が強く感じられた。
好感度はどん底。マイナスからのスタートだ。ここで下手に言い訳をしても火に油を注ぐだけだろう。
ここは大人しく、誠心誠意の謝罪を見せるべきだ。
「はい。この度は、本当に申し訳ありませんでした」
ソニア姉…はなんて言うかわからないし、マリン姉に目配せをする。
マリン姉も少し頷いて、
「申し訳ありません。年長者としての自覚が足りませんでした」
深々と頭を下げた。
「森に行きたいって言ったのは俺なんで。悪いのは俺です。申し訳ありません」
意外にも、ソニア姉もしっかりと謝っていた。
昨日、あんなに強引に森行きを決めた彼女の真意は未だに謎だが、少なくとも彼女なりに自分の非は認めているらしい。
ほんと、なんで急に森に行こうって言いだしたんだろう?
「…今日はもう遅いし帰りなさい。ごきげんよう」
「失礼します」
これ以上の対話は無意味だと判断し、僕は二人を促して家を出た。
リリの悲しげな視線を背中に感じながら、僕は、次の好感度上昇チャンスを虎視眈々と狙うことに決めた。
ーーママエル視点
「お母さん、ごめんなさい」
扉が閉まった後、リリが消え入りそうな声で謝ってきた。
怒鳴りつけたいわけじゃない。ただ、本当に無事でよかった。それだけが私の本心。
夫が死んだ私にとって、リリはこの世で唯一の宝物だ。
その小さな命が、自分の知らない場所で奪われていたかもしれないと思うと、背筋が凍る。
稼ぎ頭を失い、私たちはつい最近この街へと逃げるように移り住んできた。
家賃の安さ、そして女手一つでも働ける場所があるという淡い期待。
ようやく見つけた職場は過酷で、リリに構ってあげられる時間など一分もなかった。だからといって、放任していたのが間違いだったのだ。
友達を選べ、なんて傲慢なことは言いたくない。けれど、せめて命を大切にする常識は持っていてほしかった。
それに、あのソラとかいう男の子…。
私を見る目が、少しだけ、他の子供とは違っていた気がする。
どこか大人びた、あるいはもっと不純なものを感じるような…。
いえ、それは私の被害妄想ね。あんな小さな子が、私のようなやつれた子持ちの女に特別な感情を抱くはずがない。
あるとしたら、それはきっと娘のリリへの執着だ。
でも、理由が何であれ、子供だけで街の外に出るなんて狂気の沙汰だ。
交友関係を縛る冷酷な母親だと思われてもいい。命を守るためなら、嫌われても構わない。
「…リリ。もうあの子たちと遊ぶのはやめておきなさい」
「そんなっ…!」
リリの顔から、一気に光が消えた。心苦しいのは分かっている。新しい街で、ようやくできた初めての友達なのだろう。
私が仕事でいない間、彼女を笑顔にしてくれた存在なのかもしれない。
「お母さんは誤解してます…。ソラくんたちは、無理に私を街の外へ連れて行ったんじゃありません。そもそも、男の子にいじめられていたところを助けてくれたんです!」
「…いじめられてたの?」
「あっ…」
リリが咄嗟に口を押さえた。秘密にしていたことを、勢いで漏らしてしまったようだ。
「ごめんなさい…。隠していました。実は、昨日街で男の子三人にいじめられていたんです…。それを、ソラくんたちに助けてもらいました」
「そう…」
胸が締め付けられるような思いだった。
リリは優しい子だ。私が仕事で手一杯なのを知っているから、これ以上心配をかけまいと、辛いことも悲しいことも一人で飲み込んでいたのだ。
最低なのは、彼らじゃない。娘にそこまで気を遣わせ、孤独にさせていた私自身だ。
そんな私に、娘の大切な居場所を奪う権利なんて、あるはずがない。
「リリ…。気を使わせてごめんね。ソラくん達にも改めてお礼を言わないとね」
「じゃあ…」
「危険な場所に行かないのなら、ソラくん達と遊んでもかまわないわ」
リリが弾かれたように顔を上げる。その瞳には、先ほどまでの絶望ではなく、宝石のような輝きが戻っていた。
「ありがとうございます!」
「そうだ、今日一緒にご飯を食べる時、ソラくん達の話を聞かせてもらってもいい?」
「はい、もちろん!!」
久しぶりに見る、娘の心からの笑顔。
この笑顔を守るために、私ももっと頑張らないとね。




