第14話 閑話
ーーララ視点
「それでは、本日よりよろしくお願いします」
アシュタロテ家の制服に身を包み、私は目の前の小さな主人に深く頭を下げた。
鏡に映る自分は、あの居酒屋にいた頃のやつれた影を洗い流し、一人の女性として再生したかのように見えた。
「ああ、二人の時は敬語じゃなくて、普段通りの言葉使いでよろしくね」
「…分かったわ」
今日から私はソラ様の専属メイドとなる。
広大な屋敷の中で、彼の一番近くに侍り、身の回りの世話をする。
ここは、かつての地獄が嘘のような、あまりに恵まれた環境だった。
娘のリリも、同じ屋敷の中で教育を受けながら暮らすことが許されている。
私は誓った。この温かな居場所を守るため、そしてこの居場所を用意してくれたご主人様のためなら、どんな献身も厭わないと。
ーー
ご主人様の朝は早い。剣の稽古や学問の準備があるため、毎朝7時には起こしに行くのが私の仕事だ。
「ご主人様、起きていますか?」
豪華な扉を開け、カーテンから漏れる陽光が揺れる寝室へ足を踏み入れる。ベッドの中では、まだ幼さの残る少年が、微かな寝息を立てていた。
「ん~?ララさん?おはよう。起こしてくれてありがとう」
まどろみから覚めたばかりのご主人様が、目を細めて私を見上げる。
…寝起きのソラ様の顔、すごく愛らしい。普段の聡明な彼も素敵だが、寝起きの、全ての防壁を解いた無防備な表情は、私の胸を激しく締め付ける。
「じゃあ、おはようのキスをして」
「はい………。えっ!?」
反射的に承諾しかけ、私は自分の声を裏返らせた。何を、この子は何を言っているの!?
困惑する私の腕を、ご主人様がグイと引っ張る。十歳とは思えない、確かな「男」の力を感じて、私の心臓が跳ねた。
「ね、寝ぼけているのですか?」
「ううん、本気だよ。それとも、ララさんは僕じゃ嫌?それと、二人の時は敬語は禁止だよ」
至近距離で見つめられる、濁りのない瞳。
…嫌なはずがない。私は、命を賭して娘と私を救ってくれたこの少年に、とっくに魂まで奪われているのだから。
けれど、自分の娘と同じ年齢の子供を相手に、こんな胸の高鳴りを感じていいはずがない。
葛藤を嘲笑うかのように、私は抗うことなく彼が待つベッドの上へと引き寄せられ、シーツに倒れ込んだ。
だめだ。目をそらせない。うれしく思ってしまう自分がいる。
「ソラくんは、私で、こんなおばさんで本当にいいの…?」
「もちろんだよ。毎朝、ララさんのキスで目が覚めたら、とても幸せだろうな。」
なんて、恐ろしい人…。
私が一番欲しい言葉を、彼は呼吸をするように吐き出す。
この人は将来、どれほどの女性を狂わせ、その人生を翻弄するのだろう。
そう予感しながらも、彼の視線に射抜かれた私は、もう嘘をつくことさえできなかった。
「…ソラくんの将来が楽しみだわ…」
「もちろん、その将来にはララさんもいるよね?」
…リリ、ごめんね。あなたの彼への淡い恋心には気づいている。けれど、私はもう、この毒のような甘さに抗えない。
大人になるまでは、この唇を重ねるだけで我慢する。
けれど、いつか彼が大人になったらーーソラくんの最初の相手はこの私でありたいと願ってしまう。
…リリ。
ソラ様が、あなたで満足できない体になったらごめんね…?
ーーソニア視点
「今日も鬼気迫る表情で修業をしているな。結構結構」
父の感心したような声が、中庭の木々に吸い込まれていく。
あの森の一件以降、俺はアシュタロテの街に行くことができなくなった。
ソラに会いたい。その情熱だけが、私の剣を研ぎ澄ませる砥石となった。
焦る必要はない。数年後、俺たちは王都の貴族学校で必ず再会する。その時まで、この身を究極の武器へと変えておけばいいのだ。
ソラが学校に通い出せば、絶対に、羽虫のように女たちが群がる。
身の程を知らない卑しい女たちが、こぞって俺のソラを狙うだろう。
けれど、問題はない。俺が誰よりも強くなって、ソラを女たちから守ればいい。
ソラに害をなす者も、ソラに色目を使う者も、全て俺の剣で叩き伏せる。
実習で魔物に襲われることがあっても、俺がいればソラは指一本触れさせない。
…だからソラ、次会う時を楽しみにしておけよ…?
血が滲むほど握りしめた剣を振り下ろす。その刃の源にあるのは、愛しいソラを独占するという歪んだ執念だけだった。
ーーマリン視点
ソラちゃんとキスをすると、ハイヒールが使えるようになった。
話によれば、ソラちゃんのスキルが私のスキルの一時的な進化を促したのだという。
…おそらく最初にその恩恵に授かったのはリリちゃん。その事実は、今考えても腸が煮えくり返るほど不快だ。
けれど、そのおかげでソラちゃんが生き永らえたのだから、今は不問にしてあげる。
…それに、リリちゃんにムカついている時間はない。もし、次にソラちゃんが死の淵に立たされた時、私の魔法が届かなかったら?「ハイヒール」で足りない傷だったら?
だから、私は自分自身の力で、至高の回復魔法――エクストラヒールを、あるいは死者すら呼び戻す蘇生魔法を、この手に掴み取らなければならない。
もしかしたら、エクストラヒールを自分で使えるようになれば、それを一時的に進化させれば死者すら復活できるようになるかもしれない。
シュッ。
空気を切り裂く鋭い音と共に、私の腕から鮮血が舞う。
「マ、マリン様!大丈夫ですか!」
青ざめた顔で駆け寄る護衛の声を無視し、私は自らの傷口を冷徹に見つめる。
「ヒール」
傷跡が消えるまで、何度も、何度も繰り返す。自らの肉体を傷つけ、それを癒やす。
これで、スキルの進化に一歩近づいただろう。
「マリン様、やはりこれは無茶です。わざと自身に傷をつけさせてスキルの強化を狙うなど、自殺行為です!!」
「命令よ。従いなさい。私の身体だから、誰かにとやかく言われることじゃありません」
護衛の忠告など、耳を通り過ぎる風に過ぎない。私の身体がどうなろうと構わない。
だって、少しでもスキルを強化しないといけないから。
無茶する弟を持った姉って、みんなこんなものでしょう?
「く…狂ってる…」
護衛が得体の知れないものを見るような目で、私を見ていた。
失礼ね。私はただ、最高に弟想いの姉であるだけなのに。
ーーリリ視点
「リリ、良かったな。お前も貴族学校に行けるぞ!」
貴族学校。私は届いたばかりの入学許可証を握りしめていました。
それは選ばれた血筋の者である貴族か、あるいは優秀な才能を持つ者だけが許される場所。
私のような平民がその門をくぐれるのは、あの森で見せた「大爆発」の功績が認められたからです。
けれど、私は知っています。あの爆発は私の力ではなく、ソラくんの不思議なスキルのおかげだということを。
私自身には、今もまだ、小さな火の玉を放つ力しか備わっていない。だから、貴族学校でついていけるのか、大きな不安はあります。
けど、ソラくんと一緒の学校に通うのは楽しそう。
「良かったです。でも、私はまだファイヤボールしか出せないので…。なのでソラくん、今日も私と一緒に森に行ってくれると嬉しいです!」
「もちろん!」
ソラくんは、あの日と変わらぬ優しい笑顔で頷いてくれる。彼と出会ってから、私の人生は劇的に変わった。
お母さんは幸せそうにメイドとして働き、私は夢のような学校に通える。
…というか、あの日。死を覚悟した森の中で、私は彼とキスをしたんですよね!?
あの時は気が動転してたけど、キス、しちゃったんだ…。思い出すだけで、顔から火が出そうになる。
あの時は必死だったけれど、あれは私の、一生に一度のファーストキスでした。
大丈夫かな。変な匂いとかしなかったかな?血生臭かったよね、きっと…。
そんな感情さえ、今では愛おしい思い出だ。
「学校…。実感はないけど、楽しみです!ソラくん、本当にありがとうございます!」
「うん!一緒に学校生活、楽しもうね!」




