第11話
ーーリリエル視点
「ただいま」
夜も更け、部屋の隅で灯していた安蝋燭が短くなった頃。
うつらうつらと舟を漕いでいた私の耳に、建付けの悪い扉が開く音と、お母さんの掠れた声が届きました。
「おかえりなさい、お母さん。今日も遅かったね」
「ごめんね、遅くなって。今から料理するから待っててね」
そう言って無理に口角を上げるお母さんの顔は、幽霊のように青白く、土気色に沈んでいました。
お母さん、明らかに無理してる。
「わ、私がつくるよ!だからお母さんは休んでて?」
「…ごめんね」
…素直です。普段なら「遠慮しないで。私がやるわ」と笑って制するはずのお母さんが、抵抗もせず椅子に沈む。
おとなしく言うことを聞くということは、よっぽどしんどいんだろう。
…この間、ソラ君が家に来て一緒に遊んだ話をしたかったけど、それどころじゃなさそう…。その話は、今日も無理ですね。
私は急いで台所に立ち、お湯に少しの塩と、萎びた野菜の端切れを放り込んだだけのスープを作り始めました。
お父さんが生きていた頃からお母さんの手伝いをしていた私は、ある程度の料理はすることができます。
急いで作って、お母さんに渡す。
「…ありがとう。美味しいわ」
「良かった。ちゃんと食べて、たっぷり寝て?」
ろくな具材も入っていない、透き通ったスープ。量はわずか一杯分。お母さんはそれを数分で飲み干しちゃう。
こんなので元気が出るわけないけど、お母さんは細い手で私の頭を撫でながら、無理に笑ってくれる。
「ごめんね。心配かけて。寝たら大丈夫だと思うから、そろそろ寝ましょう?」
「…うん」
笑いかけてはくれるけど、それ以上の会話は無い。やっぱり、全然体力は復活していない。
二人で布団に入ると、お母さんはいつものように私の額に優しくキスをしてくれる。
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
冷え切った部屋、薄い布団の中で、私たちは身を寄せ合う。
こんな生活が、いつまで続けられるんだろう。
明日目覚めたら、お母さんの顔色が少しでも良くなっていますように。
私は祈るような心地で、重い瞼を閉じました。
ーー
「ゴホ…ゲホ…」
…まだ薄暗く、夜明け前。
隣から聞こえてくる激しい咳の音で目を覚ました私は、その音がお母さんの方から聞こえてくることに気づきました。
「お母さん…?大丈夫?」
お母さんの顔を覗き込むと、酷く苦しそうにしています。頬っぺたは火が出るほども真っ赤に染まり、額からは汗が流れています。
体調が戻っていないどころか、間違いなく悪化しています。
「リリ…?ごめんね、お母さん、風邪をひいちゃったみたい」
そっとお母さんのおでこを触ると、指先が焼けるような熱を感じます。
これは単なる風邪じゃない。過労と栄養不足が、彼女の身体を内側から蝕んでいるのだと直感しました。
とても、動いていい状態じゃない。
「仕方ないよ。毎日朝早くから夜遅くまで働いてくれてるんだもん。今日は仕事を休んで、安静にしてて?」
「…だめよ。働かないと、今日食べるものも買えないわ…」
「駄目だよ!!一日くらい食べなくても生きていけるけど、これ以上働いて風邪が悪化したら、お母さん死んじゃうよ!?」
お母さんの命を守るため、必死に説得します。
お母さんはしばらく、虚空を見つめながら「行かなきゃ」と呟いていましたが、やがて身体を持ち上げることさえ叶わないと悟ったのか、力なく頷いてくれました。
「…ごめんね。リリの言う通りだわ。今日は安静にしているね」
「うん!おやすみなさい」
そう言って再び目を閉じたお母さんは、数分もしないうちに、深く、重い寝息を立て始めた。
良かったです。私の言うことを聞いてくれました。
…だけど、どうしよう。
倒れたお母さんに、何か栄養のあるものを食べさせてあげたいけど、お金が無い。
かといって、こんな年齢の私を雇ってくれる場所なんてどこにも無いだろう。
…森に薬草を採りに行く?
ダメ。お母さんから止められている。
だけど、お母さんは倒れている。私が森に行っても気づかない。
ソラくん達を誘う?
…それは絶対に駄目だ。私のわがままに、巻き込むわけにはいかない。
…私の魔法で森の魔物くらいなら倒せる。それは実証済みです。
なら、やることは一つしかない。
私は、家に置き手紙を残した後、リュックを背負い、朝日が昇りきる前の冷たい空気の中へ飛び出しました。
ーー
日が完全に昇ってはいない森は、前にソラくん達と来た時よりもずっと暗く、不気味な雰囲気でした。
茂みの向こうに、ゴブリンが二体蠢いているのが見えますが、倒すようなことはせず、隠れて進む。
あくまで目的は薬草の採取。避けられない戦闘に備えて、魔力を温存する必要があるから。
お母さんのために、私がやらなきゃ…。
そんな使命感に駆られて、私は記憶を頼りに森の奥へと進んでいきました。
道中、どうしても避けられなかった戦闘をこなしつつ、まだ魔力に余裕がある状況で、この間見つけた薬草の群生地にたどり着きました。
前は魔物が襲ってきたせいでじっくり見ることができなかったけど、ここら辺は薬草が豊富のようです。
周囲への警戒を怠らず、無我夢中で手を動かす。
ザクッ、ザクッ。
「ふぅ…。こんなところかな」
気付けば、リュックは溢れんばかりの薬草で満たされていました。
いつの間にか太陽は天高く昇り、森の中を明るく照らしています。
極度の集中と緊張のせいで、数時間が経ったことさえ気づきませんでした。
全身が鉛のように重いけれど、この薬草を売れば、お母さんに温かいご飯を買ってあげられる。
とりあえず一日の稼ぎには十分。売る時間も考えると、今日はこのくらいにして帰った方がいい。
そんな希望に胸を膨らませ、立ち上がろうとした、その時ーー。
ヒュッ!
空気を切り裂くような、独特の風切り音。それが、あの時私の肩を貫いた、魔物の舌が伸びる音だと脳が理解した瞬間。
私の身体は、横側からの凄まじい衝撃によって地面を転がっていました。
「…っ、あ…!?」
とっさに反応したおかげで、直撃は免れたようです。
けれど、地面に叩きつけられた衝撃で視界を火花が散らします。
「な…なに?」
朦朧とする意識の中で顔を上げると、そこには。
「グルルルル…」
あの時木に擬態していた魔物が、爛々と輝く瞳で私を射抜いていました。
最悪の状況です。大量の薬草を背負った状態では、まともに走ることもできません。
あの日、ソラ君達が助けてくれたから追い払えた相手。
私の魔法だけで、この素早い動きを捉えられるのか。
けれど、ここで倒れたら、家で待っているお母さんはどうなる?
治ったはずの肩に、熱い幻痛が走ります。
私は手に力を込め、手当たり次第に魔法を放つことにしました。
どうか、偶然でも魔物に当たって、逃げることができますように。
そんな儚い望みを抱きながら。




